1.新任教師の到着
朝靄に包まれた四月の朝、佐藤岬は背筋に走る悪寒を押し殺し、高杉女学院の正門を潜った。二十五年の人生で初めて教壇に立つ日。ネイビーのスーツに身を包んだ彼女の背中には、緊張と期待が入り混じった独特の空気が漂っていた。
石畳の中庭を抜けると、その先には歴史の重みを纏った古い校舎が姿を現した。赤レンガの壁面に絡みつく蔦は、建物を締め付ける無数の鎖。大きなアーチ型の窓は、虚ろな目。時の流れが歪んだ佇まいに、岬は思わず足を止めた。
「わぁ……本当に素敵」
岬は感嘆の声を漏らした。目の前に広がる光景は、憧れの学園そのものだった。しかし、その瞳の奥底では、どこか懐かしさに似た感覚が静かにうねりはじめていた。遠い記憶の片隅で、何かが蠢き始めたかのような不快感が背中を這い上がってゆく。
職員室前に到着すると、岬は再び深呼吸をした。小さく頷いた後、彼女はドアに手をかけた。その瞬間だった。
「聞いた? あの噂……」
背後から聞こえてきた囁き声に、岬は思わず振り返った。二人の女子生徒が、こちらには気付かずに話し込んでいる。
「ねぇ、聞いてよ。旧校舎の……」
片方の生徒が、もう片方の耳元で何かを囁いた。その瞬間、声の主である生徒の顔が青ざめ、瞳孔が開いていく。生気を吸い取られたように、血の気が失せていく。
「うそ……本当に?」
岬は生徒たちに近づこうとしたが、彼女たちは幽霊でも見たかのように素早く立ち去ってしまった。かすかに残る足音が、廊下の向こうで消えていく。
(旧校舎? 噂……?)
疑問が頭をよぎる。しかし考える間もなく、職員室のドアが開いた。
「あら、佐藤先生ですね。お待ちしていましたよ」
慈愛に満ちた笑顔を浮かべた年配の女性が、岬に声をかけた。その声は、温かみのある毛布のように岬を包み込んだが、どこか違和感を覚えずにはいられなかった。
「は、はい! 佐藤岬です。よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる岬。心臓が早鐘を打つのを感じながら、彼女は背筋を伸ばした。
「歓迎いたしますわ。私は校長の鈴木久美子です。さあ、中へどうぞ」
鈴木校長に促され、岬は職員室へと足を踏み入れた。