お仕事は身代わりから
当初、寒かった風はすっかりと生暖かくなり、これは誰かの悪戯では、何かの悪い夢では、きっとすぐに元の世界に戻れるはず、という私の淡い願望がとうに打ち砕かれた今日この頃。
異世界転生した者の例にもれず、私の心は思いつく限りの様々な感情を一巡りした。そして今は結構凪いでいる。ある種の諦観、諦めの境地に達したのだろう。だからだろうか、最近は少し考え方が変わってきた。戻れないのならば仕方ない。この世界でよりよく生きていくためはどうすべかと、前向きに考えられるようになってきたのである。今の私のささやかな夢は、この読み書き計算の能力を活かして、代筆業や家庭教師などで自立して生きていくことだ。雪の話を聞いた限りでは、この国の識字率は前の世界と比べるとかなり低いようなので、十分に可能性はあると思っている。
そしてぼんやりとだがそんな夢を持つようになった頃から、私は下女寮でより一層目立たぬように息を潜めて暮らすようになった。家族も助けてくれる人もいない私のような人間が、この世界でしぶとく生き抜いていくためには、とにかくできる限りの危険を避けて地味に地道に暮らすのが一番だ。
雪を見ていても分かるように、目立つ子は良い意味でも悪い意味でも無駄な危険が多い。もちろんその代わりに、誰か身分の高い人の目に留まる可能性も無くはない。実際にそういうチャンスをねらって、わざわざ下女になる娘もいるらしい。しかし私には今も前の世界でも、そういう要領の良さは一切持ち合わせが無いのである。
だから、なぜかこれだけは前の世界から変わっていない黒髪黒目という地味な色合いも、ショートボブが伸び放題になった中途半端な長さの髪も、サイズが合わずぶかぶかのお仕着せも私には好都合だった。
とにかく地味に目立たず、しぶとく生き抜いてゆく。そしていずれは自分の力で地に足のついた生活を営み、異世界での安心安全安泰な老後生活を獲得する。それが突然異世界に転生させられて、未だ理由も分からぬまま生きることになった私の、ささやかな目標であり己の運命に対する復讐でもある。
異世界転生したからといって、誰かの意図通りに踊らされるつもりなどさらさらない。何処であっても私は私だ。自分の人生を生きてゆく、それだけだけだ。
私はもう一度、小さな吐息とも溜息ともつかない息を吐いて気持ちを切り替えると顔を上げた。崩れかけた塀の端に並んで腰かけた雪は、先ほどから思いつめたような暗い顔で黙り込んでいる。私はできるだけ明るい声をだした。
「雪ちゃん、大丈夫? 何があったの?」
「あたし明日、明日……白蓮様のお部屋のお掃除を任されたの……」
「えっ、ハクレンサマ…………の部屋のお掃除? それは……その……え、えっと、そのハクレン様って大変な人なの?」
私が首を傾げると、雪は音の立ちそうな長い睫毛を瞬かせた。
「……そうか、澪ちゃんて、まだ白蓮様のこと知らないんだ」
「うん、はじめて聞いた。雪ちゃんがそんなに怖がるってことは、その白蓮様はかなりヤバイ人ってことよね?」
私の鼻息が荒くなる。ここでは下女の立場は本当に弱い。突然難癖をつけられることや、物陰に引きずり込まれて無理矢理ということも誇張ではなくあるのだ。雪がこんなに怯えているってことは、そいつ……。
「うんん、違うの。白蓮様は澪ちゃんが考えているような人じゃないの」
雪は首を振る。それはちょっと困っているような、私の思い違いが面白いような顔だった。顔を見合わせてお互いに小さく吹きだすと肩の力が抜ける。
「あれ、じゃあどういう人?」
「うん。ええっとね、白蓮様は医薬院長を務められている、とっても偉くて凄いお医者様なの」
「医者?」
「そう、名医って言われていて王家からのご信頼も厚いし、他国からわざわざ診療の要請がくるほどなんですって。でも、でも……」
「でも?」
「でも……、ご本人がとても優秀な方な分、とっても厳しくて怖い方なの。普通はお掃除するお部屋って、大体担当が決まっているでしょう?」
「そうだよね」
「でも白蓮様は厳しい方だから、お掃除の子が長続きしないの。皆な怖いって泣いて帰ってきて……。前はベテランの秋さんて方が担当してたんだけど、結婚して辞めちゃって。それ以来、担当の人が決まらないの……」
「でも、雪ちゃんは財歳院の方の担当でしょ? あっちも色々決まり事が細かいから、雪ちゃんじゃないと困るんじゃなかったけ?」
「そうなんだけど……下女頭の早様が他に人がいないからって……。その、早様は……言うことを聞けば、当番を変えてもいいって……」
雪ちゃんの声は段々小さくなって、最後は膝を抱えて俯いてしまう。
なるほど、そういうことかあの下衆野郎。
私は膝の上で拳を握った。雪ちゃんは家の事情で仕事を辞めても帰る場所がない。婚約者はいるけれど彼は兵士だ。今は仕事で国を出ているから戻ってくるまでは結婚もできない。そういうところに付け込むあたり本当に下衆だ。私は一つ大きな息を吐くと、膝を抱えて項垂れる雪ちゃんに向き直った。
「明日の仕事、私が代わるよ」
「澪ちゃん! そんな、それじゃ澪ちゃんが……」
雪は再びぶるぶると首を振る。でも私の決意は揺るがなかった。私は何でもないことのようにできるだけ明るい声をだす。
「いいの、いいの。どうせ雪ちゃんがいなかったら、そもそも私はこの仕事続けられてなかったわけだし。だから今度は私が雪ちゃんを助ける番」
「澪ちゃん……でも……」
「それに前に言ったでしょう? 私、この国に来てから王城しか見てないから、街に行ってみたいと思ってたって。退職する時は雀の涙だけどお礼金も出るし、もし辞めることになったとしても案外いいきっかけになるかもなんだよ」
私が小さなガッツポーズのような感じで気合いを入れると、雪は泣き笑いのような顔になった。確かに多少盛っているところもある。しかしあながち嘘とも言えない私の本心でもあった。状況を探るとはいえこの世界にきてもう半年。下女の仕事は楽ではないが、衣食住は守られているから、ここにいれば生きていくことはできる。しかしその代わりあまり発展性はない。同じ生活を毎日淡々と繰り返すだけだ。
この世界で積極的に生きていくと決めたからには、そろそろ現状を打破するための行動が必要だろう。ありがたいことに半年分の給料はほとんどそのまま残っているし、退職すれば雀の涙だが礼金もでると聞いている。これだけあれば下女寮を放り出されても、しばらくは路頭に迷うことなく暮らしていけるはずだ。
だから、たとえ雪の身代わりの仕事に失敗して最悪下女寮を追い出されることになったとしても、それほど悪い話ではないのだ。むしろ自分からはこの安穏とした生活を放りだす勇気がでない私の背中を押してくれる、いいきっかけになるような気がする。だから私はことさら明るく、何でもないような声をだした。
「大丈夫、私前の仕事の上司がすごく厳しいというか怖い人だったから、怒られ慣れてるの。ちょっとやそっとのことじゃへこたれないんだよ」
「澪ちゃん……、ごめん、ごめんね、私……本当にありがとう」
そういうわけで、私と雪は翌日の仕事場を交換した。
そしてこの何気ない交代が、実はちょっとやそっとのことでは済まないことになってしまったのだが……それに私が気づいた時には、すでに全てが手遅れだったのである。