お仕事は契約から(前編)
私はごくり、と喉を鳴らした。
しかし喉は鳴っただけで飲み込む唾などとうにない。口の中は砂漠のように乾き、握りしめた両手は氷のように冷たい。出来ることなら今すぐこの部屋を飛びだして、どこかに消えてしまいたいと私は思った。だってこの世界に来て半年の自分には、守らなければならないものなど何もないのだから。今あるささやかな全てをかなぐり捨てて、この場から逃げだしたとしても、誰にも何も迷惑をかける心配はない。
しかし私に残された無駄な理性は、後先考えぬ遁走といったあまりにも無計画で無謀なことは許してくれないらしい。異世界のこととはいえ自分の身に起こった出来事なのだから、最後まで見届けなくてはならない。そもそもこの場を逃げ出したところで他に行く場所などないのだから。そして、あれほど世話になった雪や海に、さらに迷惑をかけるつもりか。と、痛い部分を突いては私を説得しようとする。
結果、私は椅子の上でただ小さくなることしかできなかった。これから自分に下されるであろう宣告、恐らく何かしらの懲罰を伴うであろうそれを、俯いてじっと静かに待つことしかできない。
あぁ……私って、つくづく異世界生活に向いてない。
こういう時、本能の赴くままにはちゃめちゃな行動をして、でもそれが不思議といい結果につながって、そして最後はハッピーエンドで丸く収まって、みたいな展開に出来る素養が私にはイチミリもない。
うぅ……だって、だってしかたないよ! 私、只のサラリーマンだったんだからね!! 平凡、安泰、定年勤務がモットーのサラリーマンですからね!! そんな私に異世界転生大活躍とか、求める方が間違ってる!!!
私の望みは前の世界でも今の世界でもたった一つだ。真面目に働いて堅実に貯金して、安心安泰の老後が過ごしたいというただそれだけ。それ以上の贅沢なんて望んでいない。しかしたったそれだけの、そんな当たり前のことが、少しも叶う気配がしない。
でも……なんでわざわざこんな超豪華メンバーがここに集結? 私のしでかしたことって、まさかそこまでヤバイことだった……?
「──聞いているか、澪君?」
弦邑の呼びかけにハッと我に返る。
「ここにいる医薬院長殿が、ぜひ君を買い上げたいと所望しているのだが」
「はぁ……は? え……か……か? かか買う?」
私はぽかんと弦邑を見返した。
なんだかとっても衝撃的なキーワードが聞こえた気がするんですが? 人は物ではないのだから、勝手に売り買いすることなんてできるはずは──。
「弦、勿体ぶらずに値段を言え。下女の相場は決まっているだろう」
「うーん、そうなんだけどね。でも白、君は澪君に下女の仕事させるというわけではないんだろう? だとしたら単純に下女の相場というわけにはいかないねえ」
弦邑がいつの間にか五杯目になった盃を傾けながら、瞳を綺麗な三日月型にして悪い笑顔を作った。
「女官、とも少し違うか。させる仕事に一番近いのは官吏見習いかな? そうなると相場の桁が二つほど違うんだよ」
「ちっ、人事院の女衒野郎が」
「はははっ、お褒めに預かり光栄だね。人事院長冥利に尽きるよ。適材適所、適能適給こそは人事院の真髄。相手がたとえ白でも手加減できないね。もっといい条件のところに都合してもいいんだよ?」
「お二方ともご容赦を。あまり値を釣り上げては澪が後々苦労しますから」
「おやおや、さすが騎士様はお優しい」
弦邑と白蓮はわずかに肩をすくめると、ちびりと盃を傾けた。
──て、え? 待てっ待って! ちょっと待って!!
みんな普通に売り買いの前提で話してますけど? うわぁ……この世界って、まさかそれができちゃう世界だったの? てか私、売り買いされるって……まさか、奴隷だった!? というか買うとか売るとかってまさかとは思うけど、私が考えていない方の……そういう意味の……買うとか売るじゃないよね!!!
一人だけ完全に話の流れに取り残され、ぽかんとした私を見て白蓮の隣に座る副院長が優しく笑った。
「澪君はどうしたいですか? 白蓮先生のところで働くか、それともこのまま下女として残るか」
「……え? 働く……よかった……。あれ、でも私、断れるんですか?」
「もちろん、勤め先は自分で選ぶものでしょう? ちなみに澪君は官吏になるための登用試験は受けていないから、先生の元で働く場合は、あくまでも先生が直接雇う個人的な侍従ということになるけれど」
「侍従……。でも、先程は買うと……?」
「ん?……ああ、あれは。ふふふ」
副院長は可笑しそうに小さな笑い声を上げた。副院長は見た目通りのとても柔らかくて親しみやすい声をしている。年は三十前後だろうか。ふわふわの深緑色の髪に、丸顔、童顔、丸眼鏡の、白衣が似合いそうなひょろりと高い背をしている。丸眼鏡の奥で感情豊かに動く瞳は春の日差しのような榛色だ。
その副院長の笑い声の向こう側で、弦邑と白蓮様は顔を寄せ合って何やら話し合っていた。海はというと彫像のように美しい姿勢で座ったまま、そっと私の様子を伺っている。
「ふふふっ、そうか。さっきの買い上げるというのは、あれは比喩ですよ。まあ、あながち間違ってもいないんだけど。そうか、澪君はこの国に来てまだ日が浅いんでしたっけ?」
「はい。まだ半年ほどです……」
「そうでしたか。買い上げるというのは、澪君の違約金を先生が肩代わりするということです」
「違約金ですか?」
「王城に努める人は大きく分けて二通りいますよね」
副院長は右手をピースにして掲げた。
「一つは官吏で、これは登用試験に合格した者がなれます。僕みたいに各院に所属して国の仕事をする」
私はうんうんと頷く。
「もう一つは、澪君のような奉公です。これは試験などはなく個別に雇われて、掃除や給仕などこの王城の運営そのものを手伝う仕事です」
「はい」
「官吏が王城で見初めた働きの良い奉公人を、個人的な侍従として雇うというのはよくある話なんですよ」
「そう……だったのですか」
私の肩から力が抜ける。どうやら奴隷とかそういうのではないらしい。言葉の雰囲気からしてもう一つの可能性というのも無さそうだ。しかし疑問はまだまだある。
「副院長様、違約金というのは何でしょうか?」
「ああ、桂夏と名前で呼んでくださって構いませんよ。僕も澪君と呼びますから」
「はい、では……桂夏様」
「奉公人の雇用形態は何種類かあるのですが、大きくは短期と長期に分けられます。澪君は入城の際に三年の奉公で契約していますよね?」
「ええ、多分……」
自分に関わるとても大事なことなのに私の返事は心もとない。確かに下女として入寮する際に、何か契約書のような用紙にサインをしたのは覚えている。しかしその頃の私は転生したばかりで非常に混乱していた。思いだそうとしても記憶は酷くあやふやで、何を食べ、どこで寝て、どうやって生きていたのかも分からない。私は泣きながら、ただ海に差し出される書類に名前を書いていただけだ。
「それぞれ長所短所があるのですが、三年のような長期奉公になると優先的に寮に入れたりと色々優遇されます。貧しくて家に帰れないとか、何年後に結婚する予定だとか、澪君みたいに身寄りのない場合などは、選択する人が多いですね。ただし」
桂夏はここがポイント、というように右手の人差し指を掲げた。
「雇う側も色々と優遇するわけですからお金がかかります。入城する際に支度金も出ますし、三年は働くと思って衣食住を提供して仕事も教えますから。なので契約の途中で仕事を辞める場合には、違約金という形でそれらの費用を支払うことになります。まあ、勝手な離職を抑制する目的が大きいですけどね」
「なるほど」
「そして契約期間の途中で仕事を変える場合に、新しい主が前の仕事の違約金を肩代わりすることを、俗に買うとか買い上げるとか言うんですよ。特に澪君の場合は他に身寄りがないのでしょう? もし先生の元に勤めることになれば、先生は身元保証人にもなりますから。文字通り買われるというのにかなり近い状況になります。そういえば、今の身元保証は海星君がしているのでしたっけ? ええっと、君たちは……実は遠い親戚とか?」
桂夏が私と海星を見比べて首をかしげた。




