お仕事は根回しから
もうすぐ八の鐘が鳴るという時刻。
洋燈の灯りに照らされた影の濃い部屋の中で、私は跪き深い礼をとっていた。斜め前には下女頭の早がやはり同じような姿勢で跪いている。よく見ると彼の肩はぶるぶると小さく震えている。私から見える彼の横顔は青色を通り越しすっかりと土気色だ。
私はというと、早よりはましだった。指先が氷のように冷たいというだけで震えてはいないし、顔面も蒼白止まりで土気色まではいっていない。ただ不思議なことにこの部屋に入った瞬間から、背中をダラダラと流れる冷や汗が一向に止まる気配がないというだけだ。
私の冷や汗の原因は、この場所と集まった顔触れだろう。私と早は人事院長の執務室に呼び出され、四人の貴人に取り囲まれているのである。正面にある大きな執務机の向こうには人事院長が、その隣には医薬院長と副院長が、そして入り口付近には近衛隊長が立ち、私たち二人を見つめている。
本来であればその内の一人でも、下女や下女頭が一生勤めても決して顔を合わせる機会などないという雲上人だ。それがこの部屋に四人も大集合している。どう考えても只事ではない。むしろこの状況で、顔色を失って震えながらも、辛うじて礼の姿勢を維持できている早は、かなり肝が座っていると言えるのかもしれない。
そしてこの顔触れをもう少し分かりやすく言い直すとこうなる。正面には人事院長の弦邑様が、横には医薬院長の白蓮様と副院長が、そして入口付近には近衛隊長の海様が、という具合である。
この部屋に入ってから、私は話の流れではじめて海の本当の名が海星であり、王族の護衛を担う要職、近衛騎士のそれも一個小隊を率いる隊長であると知った。頭の中で海に対してしでかしてしまったこれまでのあれやこれやが、走馬灯のように蘇っては私を苛む。しかし今となってはすでに後の祭り。私は申し訳なさで一杯になり、海の顔を見ることができなかった。
なぜこのような事態に相成ったかといえば、夕刻、西門の商談室の一つでぼんやりとしていた私の元に、もう戻っては来ないだろうと思っていた海が戻ってきたのがはじまりだった。
今からおよそ一刻、つまり二時間前。
微かな足音の後にかたりと扉が開く小さな音がして、西門の商談室に海が戻ってきた。私はとても驚いた。待っているようにと言われてそのまま商談室に控えていたが、海はもう戻ってこないのではないかという気がしていたからだ。もし戻ってきたとしても、それは海本人ではない誰か別の人物だろうと考えていた。しかし戻ってきたのは海本人で、その様子も出て行った時と全く変わりない静かなものだった。
「海様……戻られたのですか……?」
「何を言っている、戻ると伝えたはずだ。……ああ、心配したか。遅くなってすまなかったな」
海は傍に屈み込むと私の顔を覗き込むように見上げた。凪いだ海のように澄んだ青い瞳でまっすぐに私を見つめる。私はというと、色々と考えがまとまらないまま気がついたら夕刻になっていた。ずっと椅子に座っていてほとんど身動きもしなかったから、体も顔も冷たく強張っている。海と視線が合って微笑もうとしたが上手くいかなかった。そんな私をどう思ったのか、海は眉尻を下げて少し困ったような顔をした。
「これから俺が言うことをよく聞いて、その通りにするんだ。いいな?」
「海様、あの、一体なぜ……」
「質問は後だ。何とか間に合ったが、彼らの時間を都合するのが一番難しかった……」
何を思い出したのか、海が大きな溜息をつく。
「この機会を逃したら次は無い。とにかくすぐにここを出よう」
返事をする間もなく、海に腕を掴まれて西門の商談室から連れ出される。入ってきた時と同じ通用口を通り、来た道を逆に辿る。到着したのは今朝、最初に海に出会った場所だった。下女寮の前にある茂みの中である。
「海様、あの……」
「君は一度寮に戻って下女頭の早に会いに行け。その後は彼の指示に従えばいい」
「早様に? それは私が、その……」
「いや、早には余計なことは一切話すな。ただ戻って来たことを伝えて不在を詫びればいい。いいか、白蓮殿の元にいたことも俺と会ったことも、決して何も言うなよ?」
「……分かりました。あの、では……海様とはここで」
私は余程みっともない顔をしていたらしい。海はふと表情を和らげると、ぐいと私を引き寄せて長い腕ですっぽりと包み込んだ。そのまま今朝会った時のように髪紐の解けた私の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜる。はははっと、彼は夕闇に溶けるような吐息だけの笑いを零した。
「案ずるな、またすぐに会えるだろう。しかし──」
海は少々言いづらそうに視線を逸らす。
「澪、次に会った時は……あまり俺に馴れなれしくするなよ。辛いだろうが、その方が話が早く済むだろう」
「分かりました」
私は今度は笑顔を作って海を見上げる。上手にできているようにと心の底から祈った。
「大丈夫です。きっと海様の仰る通りにいたしますから」
海はわずかに目を見開くと再び表情を和らげた。手を伸ばして器用に私の髪についた木の葉を摘んで整えてくれる。
「ああ、君ならきっと大丈夫だ。さあ、お行き」
大きな暖かい手がそっと私の背中を押す。
私は小さく頷くと振り返らずに下女寮に戻った。
私はその足で、恐る恐る下女頭の部屋を訪ねた。海に言われた通り戻ったことを報告し不在を詫びる。いつもの早ならば、廊下に響き渡るほどの大声で何時間も怒りそうなものだが、今日は少々様子がおかしかった。
強ばった青白い顔で二、三言嫌味を言うだけで、部屋の中を行ったり来たりとうろうろして落ち着かない。しかもやたらときちんとした衣装を着込んでいる。
「お前、何しやがった」
早は私を物凄い形相で睨みつけると、吐き捨てるように言った。しかし怒りに任せてというようないつもの威勢はない。むしろ何か得体の知れないものに出会って警戒するような、こちらを探るような気配を帯びている。
「……?」
「お前のせいでせっかくの休みが台無しだ。なんだその派手な衣装は。そんな衣装で行けるわけがないだろう。さっさと着替えて来い!」
行くって、どこへ? という疑問を必死に飲み込んで、私は海に言われた通り早の指示に従った。急いで二階の自室に戻り、下女のお仕着せに着替えて髪を結う。白蓮様の手入れのせいでさらさらになり過ぎた髪は結うのに倍の時間がかかり、何度も洗濯されてゴワゴワになった深緑色のお仕着せは三日前よりも何倍も肌に馴染まなかった。
私が早の部屋に戻ると、彼は凶悪な顔でぶつぶつと文句を言いながら、すぐに私を従えて部屋を出る。私は黙って彼の後に続いた。下女寮を出て、前庭を渡り、前宮に入る。更に進み大きな扉の前で立ち止まった。私もはじめて見る扉だった。
ここって……前宮のちょうど真ん中辺りだよね?
私は頭の中で王城の平面図を回転させる。白蓮様の元にいた三日間で王城中を縦横無尽に移動し、打ち合わせやら何やらでほぼ全ての院に立ち寄った。だからまだ行ったことのない院の方が少ない。
その中で前宮の中心にありそうなのは──。
私が記憶を手繰り寄せていると、来訪を告げた早に格式張った手順を踏んで扉が開けられる。しかし部屋の中には誰もいなかった。案内人にここで待つようにと言われて、私と早は誰もいない執務机の前で跪き礼をとる。しばらくして幾人かが部屋に入ってくる気配がした。そして前述の状況と相成ったのである。
「──というわけで、早。そこの澪は一時人事院預かりとすることになった。異論はないな?」
「め、滅相もございません」
早の声からは安堵が滲みでている。
「よい、では下がれ」
「はっ」
早は短く返事をすると、腰を落とした姿勢のまま扉まで下がり、一目散に執務室を出ていった。早が下がると弦邑はすでに寛げていた襟元を、さらに大胆に緩めて溜息をつく。
「ふう、休日というのに、世の中よほど仕事好きの人間が多いらしい。澪君もこちらにおいで、そんなところじゃ話しにくいだろう。椅子に座って話そう。ねえ、誰かお茶持って来てくれる?」
人事院長室の応接セットは六人がけだ。弦邑の隣に海、向かいの席に白蓮様と副院長、そして間にある一人がけの椅子に俯いた私が座る。弦邑が声をかけるとすぐに茶が用意された。
この状況で、私に俯く以外の一体何ができるというのか。私は俯いて椅子にちょこんと腰掛け、膝の上で揃えた両手を強く握りしめた。他の四人はすぐに用意された茶器を手にとる。しばらくの間、広い執務室の中に四人が茶をすする音だけが響いた。ことり、と弦邑が音を立てて茶器を卓に置く。びくり、と私の肩が震えた。
「酒だな」
「ああ、酒だ」
「おや、酒ですか」
「ですね」
弦邑の呟きに白蓮様と副院長がすかさず賛同する。海も満更ではない呟きだ。弦邑は立ち上がると執務机の陰でなにやらごそごそとした後、酒瓶と盃の乗った盆を携えて戻ってきた。
あっという間に弦邑が酒の並々と注がれた盃を皆に配る。弦邑と白蓮様がそれを一息で飲み干すと、副院長と海も盃に口をつけた。弦邑と白蓮様は直ぐに二杯目を注いで盃を干す。副院長も海も黙って盃を傾けている。私だけが下を向きじっと座っていた。二杯目も一息に飲み干した弦邑が、ようやく三杯目を注いた盃を手にして椅子の背に寄りかかった。
「さて澪君、君の話をしようか」




