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お仕事は泣き落としから

「よかった、無事だったか」 


(かい)は隣に片膝をつくと、ぐしゃぐしゃになった私の顔を覗き込んだ。私は涙を堪えようと奮闘するがすぐに諦めた。どんなに鼻をすすってもぽたぽたと流れ落ち、少しもコントロールできる気配がない。私が肩を震わせていると海は指先でそっと濡れた頬を拭ってくれる。少しカサついていて節の目立つ無骨な武人の手だ。だけどとっても温かい。


海は二十の後半、海の文字にふさわしく髪も目も深い海のような鮮やかな青色をしている。武人らしく鍛えられた長身に、少し日焼けした象牙色の肌。髪は短髪だが前髪は少し長い。その前髪の下から凛々しい眉と眦の少し切れ上がった涼しげな青い瞳が、心配そうにこちらを見つめていた。


「ここしばらく任務で遠方に出ていたが、久々に王城に戻ったので昨日寮を訪ねてみれば、其方はここ数日行方が知れぬと言うではないか。案じたぞ、澪」

 「海様……」


それを聞いて、再び私の瞳に涙が盛りあがる。

この世界で自分の身を案じてくれる者など海と雪だけだ。

しかし次の瞬間、零れかけていた涙は引っ込んだ。

海が伸ばした長い両腕で私をすっぽりと包み込んだからだ。頭にぼぶりと大きな手が被さる。その大きな手は私の頭の上をゆっくりと左右に移動しなでなでした。

走っているうちに髪紐は解けてどこかに行ってしまっていた。なでなでされて私の頭は一層ボサボサになる。しかし今は気にしないことにした。


ああ、なんだかとってもほっとする。


温かい胸からは、衣装に焚き染められた香りと、木の葉と、土と、少しの汗の混じった匂いがする。それは海の、生きている人間の匂いだ。


考えてみれば、この世界に来てから。……いいや、祖母が亡くなってからだからそのもっとずっと前からだ、私はこんな風に人と触れ合う機会を失っていた。

触れ合ってはじめて、私は人肌に飢えていたのだと気づく。人肌というのは、別に好きとか嫌いとか恋愛とか夜を共にするとか、そういうことではない。

ただ、友人とか家族とか、親しい人との他愛のないお喋りでいい。私はこの世界に、私を少しでも心配してくれる人がいたということがとても嬉しかった。


「しかしどうやら全くの無事、という訳にはいかなかったようだな」


ひとしきり私の頭をなでなですると、海様が体を離して私の衣装を見た。


「その衣装はどこかの文官見習(ぶんかんみならい)いのものか? にしては随分と手が込んでいるが……」


私は海様の視線を辿って一緒に自分の衣装を見る。そうだった、昨夜仕事の途中で居眠りして、そのまま飛び出してきてしまったのだ。最初に着ていた下女のお仕着せも何もかも、白蓮様の執務室に置いてきてしまった……。

今着ているのは、白蓮の執務室にある侍従の控え室に置かれていた衣装である。裾に花鳥の刺繍が施された爽やかな水色の長衣に、美しい地紋が織り込まれた縹色(はなだいろ)の下衣。この組合せは完全に白蓮様の趣味である。この世界の衣装に関する知識がほぼゼロの私は、白蓮様に言われるがまま何の疑問も抱かずに指示された衣装を着ていた。とても動きやすいという機能面だけ見ていたが、確かに側仕えが着るには雅すぎるデザインかもしれない……。


白蓮様なら……うん、十分にありうるわね。


三日間の侍従もどき生活で分かったのは、白蓮様が衣装や身だしなみに並々ならぬ情熱を抱いているということだ。こと衣装に関しては、着道楽とも言っても差し支えないほどのこだわりがある。


「衣装を変えねばならぬようなことが、起こったのだな……」


海様がきりりとした眉を寄せ、さも痛ましそうな目で私を見る。

確かに、衣装を着替えねばならないようなことが起こったけど……。

私はきょとんとして海の海の様に鮮やかな青い目を見つめ返した。

 

……あれ? て……ま、待てっーーー!

これは……何か不味い勘違いをされている?


「え、えっと……あの……、海様が心配してくださっているような、そ、そういう意味では私は、その無事です。全然無事です、全く大丈夫です! 何もありません!! その……訳あって衣装は着替えましたが、これは別にそういう目にあったとか、そういうわけではなくて。単に仕事の都合というか、上司の趣味というか……」

「上司の趣味?」


聞き返す海様の眉間の皺が深い。私は白蓮様の後ろ姿を思い浮かべて、ぶるぶると首を振った。勘違いをこのままにしておいたら、恩を仇で返すことになってしまう。白蓮にはお世話になっていたという表現の方が正しいのだ。最後の方はお世話をされていたに近いかもしれないが……。

 

「では澪、一体何があった? 無断で寮を三日も留守にするとは只事ではないだろう」


海の問いに答えようとして私は固まる。一体全体この三日の間、私に何が起こっていたのか。それを説明するのは非常に難しい。どこから説明すれば分かりやすいのか分からないし、そもそも分かりやすく説明したところで信じてもらえるか分からない。第一、自分自身が一番何が起こったのかよくわかっていないのだ。人に上手く説明などできようはずがない。

私が見上げた姿勢で固まっていると海様が息をついた。再び、長い両腕で抱き込まれる。そして今度は子供をあやすように背中をぽんぽんと叩かれた。


「いい、言うな。辛いことを無理に思い出す必要はない」

「ち、違うんです。本当に違うんです! そのようなことは決して!! でも説明が難しくて……。この三日間にとても色々なことがあって、どこからお話しすればいいか……」


途方に暮れていると海様が立ち上がった。ついでに私の手を取って一緒に引き起こしてくれる。


「おいで」


そのまま私の手を取って歩き出した。


「あ、あの……?」

「心当たりがある。少し落着いて話せる場所にな」


そのままずんずん歩いていく。背の高い海は足も長い。歩幅の違う私は腕を取られて、半ば引きずられるようについていく。


「海様……。でも、お仕事は? 大丈夫なのですか?」

「ああ、気にするな。今日は公休日だぞ、忘れたか?」

「え?」


私は海を見上げて目を瞬いた。そうか、白蓮様に勘違いされたりしてずっとバタバタしていたから、すっかり日にちの感覚がおかしくなっていた。この世界では五半十一(ごはんといち)といって、十日の内に一日半の公休日がある。仕事内容によって変動はするが、官吏など定時で勤務する者は概ねこの日程に従っている。前の世界で言うところの週休二日制のようなものだ。因みにこの世界でも一ヶ月は三十日、一年は十二ヶ月、四季もある。


言われてみれば、今日の海はシャツのような濃灰色の上着にゆったりとした紺色の下衣というラフな衣装だった。いつもは制服の立襟の一番上まできっちりと留めている釦も、今日は一つ開けている。


「まあ、普段なら俺の仕事に公休日は関係ないがな。今は長期の任務から戻ったところでまだ次の任務もはじまっていない。もう後二、三日は休みの予定だ。何もなければだが」


目元を緩めて驚く私を見下ろしていた海が、ふと握っていた私の手に目をやる。日々の水仕事でカサついた、白蓮様の勘違いで墨だらけの手に。


(ほうき)など持ったこともなかったであろうに。すまぬことをしたな……」

「……?」


私が返事に困っていると、海は何事もなかったかのように再び私の手を引いて歩きはじめた。そのまま城壁沿いに木々をかき分けてしばらく進んでいくと、前方に王城西門の詰所が見えてくる。

王城には四つの大きな門がある。最も大きいのは南門で、王宮の正面にあり主に王族の外出や祭事、式典などの公式行事に使用される。平時は厳重に閉鎖され遠くからその威容を仰ぎ見ることしかできない。

一方で、東側と西側には日常的に使用されている門がある。東門は城下町、すなわち天虹国首都の繁華街に接し、常に多くの人々で溢れ返っている。観光名所にもなっているらしい。城勤めの下々の者達が出入りするのもこの門だ。


西門はというと、こちらは城に出入する大店や貴族、院長局長など、身分の高い人々が利用する門だった。門が分けられているのは身分制度の影響もあるだろうが、用途の違いによるところも大きい。

東門の利用者の大半が通行目的なのに対し、西門の利用者は商談や送迎などの利用が主だ。当然、来客は豪華な馬車や立派な馬で乗りつけ、待合室や商談室も必要になる。そのため東門と異なり、西門には門の他に様々な施設が併設されている。

私と海が辿り着いたのは、そんな西門に併設されたとある施設の裏側、通用口の辺りだった。出口の周辺は丁寧に下草が刈られて小さな庭のような空間になっている。私は頭の中で王城の地図を展開してみる。どうやら道無き木々の間を通り抜けることによって、下女寮からほぼ一直線でここまで移動してきたらしい。


「ここで少し待っていてくれ」


海は茂みと庭の境目に私を残し一人建物の方へ歩いてゆく。と、思いきや二、三歩進と、急いで戻ってきて私の両肩をがしりと掴んだ。


「いいか、絶対に勝手にどこかに行くなよ? もし不審な者に声をかけられたり何か異変があれば、大声で俺の名前を呼ぶんだ。分かったな?」

「は、はい……」


私は海の迫力に押されてこくこくと頷く。海は私の頭にや体に付いていた木の葉を払い落として整えると、待合室の建物の中に消えていった。

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