第270話 10 years ago・2
颯姫の手術が無事に終わり、日に日に回復していくのと違い、上野の病状は思わしくないらしい。
それでも、午前と午後に30分ずつと時間を決め、約束したロビーに彼は来てくれた。
時々は好きなゲームの話をしたり、たわいもない会話をしたりもする。そういうときの上野は「変人天才プログラマ」ではなくて、颯姫にとって話の合うお兄さんだった。
「実は最近ちょっと調子がいいんだ。先生からも褒められてね」
上野が何の病気で入院しているかは、颯姫の知り得ぬことだ。訊いていいものでもない。
その病状について上野の方から話すのは珍しかったが、彼の状態は颯姫も心配していることである。自分が無理をさせているのではないだろうかと、常に心に引っかかっていたから。
「そうなんですか? それは良かったですね」
「藤堂さんに会えたおかげだよ。自分のプログラムじゃないから好き勝手にはできないけど、短い時間でも好きな物と向き合えて、気持ちが前向きになったっていうのかな」
颯姫から見れば彼のどこが良くなったのかわからないが、上野は明るい声で嬉しそうに颯姫に向かって笑う。その瞬間、何かがストンと腑に落ちた。
「……あ、わかりました。あの日私に出会うまで、上野さんは笑うこともなかったんですね」
先天的に病気を持ったせいか、それとも血筋のせいか、颯姫は本来目では見えない物が「視える」ことがある。この時がそうだった。
余計なことを口走ってしまったと後悔したのは、彼の顔から表情が抜け落ちたのを見てしまったからだ。
自分にとっては当たり前のことでも、他人から見れば理解が及ばぬ事。
それが上野にとってのプログラムであり、颯姫にとっては「視る力」だ。
上野が絡まりまくった颯姫のコードを手品のように分解することができるように、颯姫は窓際のベッドからただ外を見ることしかできない上野の姿を視ることができた。
「……どうして、わかっちゃったかな」
寂しそうに笑う彼は泣いているようにも見えた。颯姫は独り言にも近いその言葉に黙り込む。
「4人部屋の窓際のベッド、充電切れたまま置きっぱなしのスマホ、巻き取ってあって何にも繋がってないイヤホン。そういう物が視えました。それと、上野さんがベッドを起こして横になったままで外を眺めている姿が」
現在と過去、それが颯姫の視ることができるもので、意図して視ることはできない。
母曰く「練習し続ければ意図的に操れるようになる力」だというけれど、その必要性は感じなかった。
「視える人なんだ。たまに話を聞くことはあったけど、そういう人に初めて会ったよ」
「はい。ときどきですけど」
僅かな間に、上野智秋は「信頼できる人」と颯姫の中で評価が変化していた。
彼はこんがらがって意味不明な物も混じったプログラムをけなすこともなく、「こういう考え方もあるんだね」と素直に感心して見せ、それを丁寧に解きほぐしていく。
そして、プログラムを囓った人間なら「美しい」と思ってしまうものへと書き換えていく。
沢辺ももしかすると結果的に同じ事ができるかもしれないが、彼の場合「藤堂さん、バカなの?」が間に10回くらいは入るだろう。
決して颯姫の劣ったプログラミング能力をけなすことなく、颯姫の理解が遅いときには教え方を変えたりもしながら、上野は丁寧に颯姫に付き合ってくれた。
だから、上野のことを信頼することができた。それだけだ。
「ひとつ訊いていい?」
「なんですか?」
簡単に問い返すことができたのは、どういうことがわかるのかとか、普通の人が霊視について興味を持つ事柄を訊かれると思ったからだ。彼の言葉に重さは感じなかった。
「1年後、俺って生きてる?」
沢辺が「バカなの?」と「手術頑張って」を同じ調子で言うのと同じように。
上野は、「ひとつ訊いていい?」と「1年後、俺って生きてる?」という重い問いを同じ調子で発した。
――この人は、自分が死ぬことを確信してる。それが当たり前の未来だと思っているからこそ、軽く訊くことができたんだ。
気がついたら、颯姫は無言でボロボロと涙をこぼしていた。上野はそんな颯姫を見ても慌てずにいる。
「やっぱり?」
颯姫が泣いている理由を、自分が死んだ未来を視たのだと誤解したのだろう。上野の声は穏やかだった。それが余計悲しくて、颯姫は必死に首を振る。
「ちが……違います……。私、未来のことは視たことがなくて。上野さん、自分が死ぬって思ってるじゃないですか! 疑うことなくそう思ってるじゃないですか! 私にだってそのくらいわかるんですよ!」
「ああ、そうか。……参ったなー、藤堂さんはそれで泣いちゃう優しい子なんだね」
当たり前だ、バカ野郎。――沢辺相手だったら口に出していたであろう罵倒を飲み込む。
死ぬことをほとんど受け入れかけていて、それでももしかしたらという思いがあるからこそ「1年後生きてる?」という問いかけが出てきたのだ。
そんなことを抱えているくせに、好きなことはやめられなくて、ベッドで寝ていればいいのに颯姫にプログラミングを教えるために彼は毎日ロビーへとやってくる。
まるで、自分が生きていた証を最後に颯姫に託すかのように。
「スマホ、充電してください。連絡先も交換してください。私はもうすぐ退院するけど、プログラムでわかんなかったりしたらメールします。今作ってるのは文化祭の展示用だから、文化祭の時には外出許可が取れるくらい元気になっててください。――そういう楽しみが、目標が上野さんには必要なんでしょう?」
あなたに死んで欲しくないんです。検診のためにこの病院を訪れる度、「上野さん亡くなったって」と耳にするかもしれないと恐れ続けたくないんです。
それは好きですという告白とは全く違ったけども、真剣さに於いては同じだった。
涙を流しながら訴える颯姫に上野は驚いた様子だったけれども、場違いなほど明るく笑って「うん」と頷いてくれた。
それから、颯姫と上野の交流は続いた。
短い文章を週に1度か2度。それが2週間に1度になる頃には文化祭がやってきて、上野からは「外出許可でなかったよ、ごめんね」というメールが来た。
メールの頻度は落ち、1時間毎に彼からメールが来てないかをチェックする自分が嫌になった頃、颯姫は学校帰りに自転車で病院へ向かった。
メールが来ないなら、会いに行けばいい。鬱々と上野の病状について悪い想像を巡らせているなら、実際に会った方がまだ建設的だ。
病院に入っている花屋でピンクと黄色のトルコキキョウを使ったアレンジメントの花かごを買い、それを手に以前自分が入院していた病棟へ行って面会希望の用紙に上野と自分の名前を書き込む。
颯姫が入院していた時に世話になった看護師が、ふたりが毎日のようにロビーで話していたことを知っていたため、上野の部屋を教えてもらい面会をすることができた。
「なんで、来ちゃったかなー」
声を掛けてからベッドを覆うカーテンを開いて入ってきた颯姫の姿に、上野は以前と変わらない調子で笑い混じりに言う。
けれど、体に繋がれた管が増え、更に細くなった腕を見れば、颯姫の退院後に彼が病状を悪化させ続けていたことは容易にわかる。髪も伸びっぱなしだが、髭だけは剃った形跡がある。
「メールが来ないので、直接話そうと思って来ました。これ、お見舞いです」
ベッドに横たわった上野からでも見やすい位置に、明るい色の花を置く。それだけで周囲の空気が和らぎ、重い雰囲気がいくらか軽くなった。
「ありがとう。ピンクと黄色か、花をもらったのって実は初めてなんだけど、こんなに嬉しくなるんだね」
「……会社の人とかご家族とか、誰もお見舞いに来ないんですか? お花って定番じゃないですか」
「上司は1回来てくれたんだけど、もらったのがタオルセットで。家族は遠方だから」
そうだ、この人はプログラマだった。周囲の部員を見ていればわかるが、お見舞いに花を持って行くような人間には心当たりがない。そのプログラマの上司が選んだタオルセットはある意味実用的で、「らしい」といえるだろう。





