須藤 碧の心の師匠
十月、午後六時――――
少女が泣きながら、小雨が降り続く真っ暗な歩道に立っている。傘は持っていない。小さな雨粒は少しずつ髪と制服に染み込んでいるが、そこへ意識は向いていない。
須藤 碧は人生初の失恋を十四才で経験した。
下校中、見てしまった。駅前を男子生徒と女子生徒が相合い傘で歩いているのを。
違う学校の制服を着ている女子生徒は誰だか分からなかった。ただ、ただ可愛らしい女の子。
しかし、男子生徒の方はよく知っていた。
高峰 航介。
一目惚れした相手だったから。
中学校に入学し、同じクラスになってからずっと好きだったから。
二年生で違うクラスになってしまってもずっと好きだったから。
二人の雰囲気はあきらかに恋人同士のそれで、恋愛に疎い碧でも理解した。自分が失恋したことも同時に理解した。
今、碧が立ち尽くしている場所は自宅の目と鼻の先。
――今、帰ったらダメ。こんな顔見たら、お母さん心配する。
碧は嗚咽が収まるのを待っているが、一向に収まる気配がない。
「碧? 何やってんだ? こんなトコで」
いきなり背後から声を掛けられ、碧は驚く。聞き慣れた声。
驚きで嗚咽も止まってしまった。
振り返る。そこには父親の須藤 和也が立っている。
和也は自分が差している傘へ碧を入れた。
「なんだ、傘、持ってかなかったのか?」
「……うん、忘れちゃった」
「泣いていたことに、お父さんは気付いていない」
碧はそう判断した。
「……とにかく、家に入ろう。風邪ひいたら大変だ」
「うん、ごめん」
「謝ることないだろ」
二人は帰宅する。
母親が待つ家に。
三十八才の父親が「ローンはまだまだある」と笑いながら言う家に。
二人で玄関に入った。
「碧、そこでちょっと待ってろ」
和也だけ上がって行く。
碧は土間に残された。
「さむ……」
ようやく碧は、自分が冷えきっていることに気付く。
和也が戻って来てバスタオルを渡された。
「とりあえず、体を拭いて風呂入れ」
玄関での会話が聞こえたのか、キッチンから母親の由美子が顔を覗かせた。
和也と碧が二人揃っていることと、碧がずぶ濡れなことに驚いている。
「碧! どうしたの!? 傘、忘れたの!?」
「……うん、ごめん」
「いや、謝らなくていいけど」
先程の父親とほぼ同じ会話を母親と繰り返しながら、バスタオルで頭を拭く。
雨を吸い込んでいる通学バッグは玄関に置いたまま、碧はバスルームへ向かった。
十五分後、碧は浴槽に浸かっていた。体がじんじんと温まっていく。
気が緩んだのか、また涙が溢れてしまう。
別に告白して、フラレたわけじゃないのに。
勝手に好きになってただけなのに。
勝手に落ち込んでる。
お父さんとお母さんに心配かけちゃダメ。
あたし、弱いなあ……。
あたし、かっこ悪いなあ……。
手で浴槽内の湯をすくい、バシャバシャと顔を洗う。
しばらくして、碧は自身が落ち着いたのを確認し、脱衣場へ出た。母親が用意してくれていたパジャマに着替え、ドライヤーをかける。
夕飯の為、キッチンへ向かい廊下を歩く。
和也の「趣味の部屋」の前を通ったとき、扉が半分開いていた。
映画が大好きな和也の「趣味の部屋」。
大量のブルーレイ、DVDや大型モニター、スピーカー、ヘッドホン、さらにパンフレットやポスターが詰め込まれている部屋。
小学生の頃はこの部屋で映画を観ていたが、最近入ってない。
碧はそんなことをボンヤリ思いながら、部屋の前を通り過ぎキッチンへ入った。
既に両親はテーブルに着き、食事の準備は出来ていた。
唐揚げ。碧の大好物。普段の碧なら大喜びしただろう。
しかし、今は食欲がない。
――いつものようにしなきゃ。いつものようにしなきゃ。
なんとか笑顔を作り、食べようとしたが、普段の半分程度の量しか食べることが出来なかった。母親に申し訳なく思う。
「ごちそうさま」
一言だけ言ってシンクに食器を置き、キッチンを出ようとした。
「具合悪いの?」
由美子が心配そうに訊いた。
「ううん、大丈夫」
碧は答えた。
和也は何も言わなかった。
廊下でため息をつく。入浴時に思ったことが再びのしかかる。
あたし、弱いなあ……。
あたし、かっこ悪いなあ……。
自室へ向かい、廊下を進む。
「趣味の部屋」の前を通る。
――――――!?
誰かに呼ばれた気がして足を止める。
和也はまだキッチンにいるから、部屋の中は無人のはず。
碧は半開きの扉から、恐る恐る部屋の中を覗く。
黄色の服。
サイドの黒いライン。
鋭い眼光。
特徴的なポーズ。
ほぼ等身大かと思われるサイズのブルース・リーと目が合った。
ブルース・リーの足元には「死亡遊戯」と赤い文字で大きく印刷されている。
胸をなでおろす。
このポスターは初めて見る。
父親のコレクションはまだまだ増えているようだ。
碧はブルース・リーの映画を観たことがない。しかし、和也の熱い解説でなんとなく知っていた。
碧は部屋に入った。扉は開けっ放し。
この人、強そうでかっこいいなあ……。
碧は右手をあごに添えた。左腕は肘を曲げ、手の甲を前に出す。
右足を後ろに、左足を前に。腰を少し落とす。
ブルース・リー定番の「戦闘態勢」を真似しただけで、ほんのちょっと強くなったような気がする。意識しなくとも目つきも険しくなる。
もし、このまま十秒間このポーズを一人で続けていたら、碧はバカバカしくなってやめていただろう。
やめた途端、失恋の痛みに襲われていただろう。
しかし、その「十秒後」が訪れることはなかった。
「甘いっ! 全然なってないっ!」
後ろから怒鳴られて、振り返ると和也が真剣な表情でこちらを見ている。
碧は驚きで固まってしまった。
和也は碧の前に回ってきて、再度碧を見た。
「指はそんなに密着させない! 漲る緊張感の中の脱力だ!」
「えっ……」
「指を離す! 特に左手の小指! 人差し指は前を指す! 目の前のブルース・リーを見ろ!」
「えっと……、お父さん?」
「サッサとする!」
「……はい」
思考停止し、和也の指示に従う。
「違う! 後5ミリ下げる! 肩は下げないっ!」
「……はい」
「腰をもう少しひねる! ……ひねり過ぎ! 半分戻す!」
「はい」
「足の位置がズレてる! 右は前に! 左は後ろに! 足首はそのまま! 角度を変えない!」
「はい!」
「目だっ! 目っ! 全てのものに立ち向かう覚悟の目だ! 全然出来てない!」
「はいっ!」
「違うっ!」
「はいっ!」
「そこは変えないっ!」
「はいっ!」
「またズレたっ!」
「はいっ!」
――――父親から娘への訳が分からない指導は、母親から「……なにやってんの?」と言われるまで続けられた。
「まあ、ギリギリ及第点だな。碧…………」
「うん?」
「負けるな」
それ以上は何も言わず、父親はキッチンへ戻っていった。
娘も何も言わず、自室へ向かった。
翌朝、碧は「人生で一番おかしなトレーニング」による筋肉痛で目を覚ました。
体のふしぶしが痛かったが心の痛みは減っていた。
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