09:辺境伯領視察①
家の承認と契約さえ済ませれば、あっという間に婚約関係となった。
カイアスさまと幼い頃に結んだ婚約は、両親に任せきりだったので事務手続きをどうしたのか全く知らない。
初めて面通しをして、緊張しながらも子供故の無邪気さで距離を詰めた記憶がある。大きく変わってしまったのは、戦で戦地に駆り出されてからだ。戦場で功績を上げたカイアスさまは、少しずつ私に対する態度が変わっていった。あまり飲まなかったお酒を随分と嗜むようになったし、娼館通いもしていたらしい。娼館通いの事実が私の耳に入ったのは、噂好きな友人からだ。
本人は親切心からだろうけれど、できることなら知らないままでいたかった。戦地に赴くと『そういうもの』は付随していたので、口うるさく咎めるつもりもなかった。ただ、知ってしまえば問わない訳にはいかず、カイアスさまの怒りを買った過去がある。
馬車の窓に流れる景色を見ていると、どうしても余計な事を考えてしまうなと頭を振った。今考えるべきはカイアスさまのことではなく、今から赴くロータス辺境伯領のことだ。
辺境伯領は文字通り、隣国との国境を守る領である。二十年戦争の時もずっと戦いの場となっていた。戦が終わり、国境線を隣国側へ伸ばしているので辺境伯さまの手腕が見て取れる。終戦から二ヶ月が経ち、復興作業も始まっているから隣国から得た賠償金は領地復興と発展の為に使うと辺境伯子息さまが教えてくれた。
石畳で整備された道を往く。周囲は長閑な麦畑。馬車を引く馬の蹄の音が心地良い。数ヶ月前は戦地に赴く死の音色だったのに、終わってしまえばこうも違うものなのかとつきりと心が痛む。生きたいと願いながら天へと旅立つ方を多く看た。『助けて』『痛い……』と口にしながら、どんどんと生気を失って…………待て。考えるな。
敵を殺したことも、仲間を見捨てたことも、天に旅立つ同僚を見ていることしかできなかったことを悔やみ、何故自分は生きているのかと責めるべきではない。
父の代わりに戦地に赴いた私が心を病んでいると知れば、母と弟が哀しむ。貴族の務めとして立ったのだ。大丈夫、私の心はまだ壊れない。自分を追い込むと身体も心も持たないと、軍医に教えられた。死んだ仲間のために神に祈りを捧げなさい、楽しいことを見つけなさいと口酸っぱく言われたなあ。
「はあ……」
馬車の中で大きく息を吐く。側仕えの侍女が心配そうにこちらを見たので、なんでもないと首を振る。カイアスさまの婚約白紙宣言から一ヶ月。怒涛の展開で目まぐるしく日々を過ごしていたけれど、視察を終えれば忙しさは少しはマシになるだろうか。
辺境伯子息さま曰く、婚姻はいつでも構わないとのことだったが、心の整理をする時間が欲しくて一年待って欲しいとお願いしている。だから彼との結婚は約一年後。それまでは婚約者同士である。気の早いご令嬢であれば、即婚姻しただろう。母は直ぐに婚姻させたそうな顔をしていたが口には出さず、私の提案を了承してくれ、ロータス辺境伯家も吞んでくれた。
かたん、と音を立てて馬車が一度停まる。辺境伯領の領都に辿りついたようで、門兵に通行書を見せるようだ。少し待たなければならないかなと考えていると、馬車の扉の前で人の気配を感じた。
護衛兵の気配ではない。一体誰だと身構えて、侍女を守るように背に庇うけれど、何故か押しのけられた。守られるのは私の方であるようだ。外の様子は静かだし、護衛兵の声も聞こえないから大丈夫だろうけれど、なにがあるか分からない。念には念の為である。
「……すまない、驚かせたようだ」
ノックの後、馬車の扉を開けた辺境伯子息さまが、警戒態勢を取っていた私たちを見ると一瞬目を丸くして直ぐに鳴りを潜めた。
「申し訳ありません、失礼な態度を取ってしまいました」
私も侍女も慌てて頭を下げる。そんな私たちを見て、辺境伯子息さまは柔らかく笑みを浮かべて口を開いた。
「いや、警戒するのは当然だし、警戒を怠らないのは良いことだ。領都とはいえ、なにが起こるか分からないからな」
護衛兵を連れているからよほどのことがない限り危険はない。辺境伯家からも伯爵家からも護衛を出しているので、結構な大所帯となっているので盗賊に襲われる可能性は低い。
「本当は領主邸で君を迎え入れるつもりだったのだが、無事に辿り着くか心配で。……丁度良かったよ。君が辿り着いたところに運よくこられた」
私たちの態度を咎めることなく笑い、長旅を労った後に彼は護衛に就くと言い残し馬車の扉を閉めた。しばらく待っていると、馬車がまた動き始める。
窓から見える辺境伯領都は、王都より少し規模は小さいけれど活気に満ち溢れていた。私が乗っている馬車の直ぐ横には青鹿毛の大きな馬に跨る辺境伯子息さまの姿が。商業区域に差し掛かると『フェルスさま!』『ご無事の帰還なによりです!』『軍神さま!』と領民の人たちに忙しなく声を掛けられ、彼も手を上げながら応えていた。
「活気があるのね」
ナーシサス伯爵領の領都は辺境伯領都の半分ほど。長く続く戦争が終わり、明るさを取り戻したと報告を聞いた。戦費調達のために税を重くしていたから、今回のことで解放されるし未来は明るい。
五十年後はどうなると問われると答えは難しいが、十年か二十年程度であれば平和だろう。束の間の平和を手に入れる為に戦地に送られた兵士は戦ったのだ、できることならずっと情勢が安定していると良いのだけれど。そればかりは神に祈るしかないのだから。
「そうですね、お嬢さま」
ナーシサス伯爵領に足りないものや取り入れれば役に立ちそうなことを、窓から侍女と共に探していると領主邸に辿り着く。辺境伯子息さまのエスコートを受けながら馬車を降りると、辺境伯家の皆さま総出で私を迎え入れてくれた。
辺境伯閣下に辺境伯夫人、辺境伯子息さまの弟さん二人。……そういえば、この場にいる方々はみんな『ロータスさま』である。紛らわしいのでどうにかしたいけれど、私から名前呼びの許可を願う訳にはいかない。
「どうした、難しい顔をして」
悩んでいると、不思議そうな顔を浮かべた辺境伯子息さまが私の隣に立って顔を覗き込んだ。
「あ、いえ。皆さまをどうお呼びすれば良いかと、少し悩んでおりました」
辺境伯閣下と夫人はそのまま呼べばどうにかなるけれど、ご兄弟となれば名前で呼ばない訳にはいかないだろう。自己紹介をするときに上手く決められれば良いのだけれど、家格の低い私の方から願い出るのは問題があるような。
「そういえばお互いに名前で呼ぶことを決めていなかった……すまない、これも私の手落ちだ。私のことは名前で呼んでくれてかまわない。そもそも君は私の婚約者だ、遠慮など必要ないし気軽に名を呼んで欲しい」
お互いに名乗りを上げていたけれど、名乗った場が王太子殿下と妃殿下がいらしたから、許可を取るのも難しい状況だった。それから時間が流れた訳だけれど、そこでも機を逃していたから。彼はぐいぐいと女性の手を引く人ではないし、私も王都に住まう貴族女性のように男性にお願いを伝えるような口ではない。手探りでお互いの距離を確かめあっている状態だから、歩み寄りは随分とゆっくりだった。
「ありがとうございます。ではフェルスさま、と」
「さま付けも必要ないが……」
辺境伯子息さま改めフェルスさまは、目を細めて口元を真っ直ぐに結んだ。公爵家が主催した夜会で初めて出会った時、あまり表情を変えることはなかったのだけれど、いろんな表情を見せてくれるようになっている。
「いきなりの呼び捨てはご容赦ください。私のことはエレアノーラと呼んでくだされば嬉しいです」
少し嬉しくなって、小さく笑いながら彼の顔を見上げると、彼も穏やかに微笑む。すっと風が通り抜けて、フェルスさまの長い銀糸の髪を揺らすと。
「ああ、承知した。君の名を呼べて嬉しいよ……エレアノーラ」
少し照れながら私の名を呼ぶフェルスさま。軍神と謳われる彼が女の名前ひとつで、こうも雰囲気が変わってしまうのかと少し驚いたのだった。