38:幸せな日々を②
ああ、駄目だ。不味い。ロータス辺境伯領領主邸の廊下を私、フェルスは大股で闊歩して食堂を目指す。
――目の前の彼女を押し倒して、本能のまま求めたい。
という獣のような自身の醜い気持ちを必死に押し殺し、高ぶった気持ちよ収まれと頭の中で反芻するが効果は限りなく薄かった。エレアノーラと婚姻を果たしてから、彼女に対する愛は増えていくばかりだ。
父から譲り受けた子爵領の屋敷で二人で過ごしていたが、彼女の妊娠を切っ掛けにロータス辺境伯領領主邸に暫く世話になっている。こちらの方が妊娠について詳しい者が多く、エレアノーラも安心できるだろうという考えがあってのことだ。
彼女は自分の意見を伝えてくれないから、私が勝手に決めたように見えてしまうが、子爵領の屋敷で過ごすより安心できるはずだ。悪阻が始まった時は私は本当に彼女がこの世からいなくなってしまうのではと不安だった。
顔色も凄く悪い上に、今まで彼女が好んで食べていた品を受け付けなくなっていた。私は頭を抱え、どうすれば良いのかと親を見失った子供のように不安に陥ってしまった。エレアノーラは気丈に私の不安を拭おうとしてくれていたが体調は良くならない。どうすればと私は意を決して、友人に相談したのだ。
そして、ハインリヒは困っている私に対して凄く面白がり、妃殿下からはロータス辺境伯家かナーシサス伯爵家で過ごしてはという助言を頂いた。
一先ず、子爵領からほど近いロータス辺境伯家で世話になることを決め今に至る。私の家族はエレアノーラが子を儲けたとお祭り騒ぎになっていた。エレアノーラに負担は掛からないだろうかと心配をしていたが、その辺りは母が取り仕切ってくれている。
父が初孫が生まれると方々からぬいぐるみや赤子向けの玩具を取り寄せていたのだが、母の一喝で止まっていた。二人の弟たちも盛り上がっていたのだが、彼らの伴侶にエレアノーラに圧を掛けるなと諫められていたのだ。女性は強いと感心しながら日々を送り、エレアノーラの側に私は控えている。本当は四六時中、彼女の側にいてなにが起こってもすぐに行動に起こせるようにしたいのだが……辺境伯領領主邸で近しいことをしていれば、母に首根っこを掴まれて訥々と説教をされたのだ。鬱陶しいと、四時間くらい。
エレアノーラが一番大変なのだから、自身のことは自身で解決しなければと食堂に向かっていると自然と声が漏れていた。
「むう……」
いつの間にか私の足が止まり、何故か壁に向かっていた。不意に誰かの気配を感じて後ろを振り返ると、爺が不思議そうな顔を浮かべて私を見ている。
「坊ちゃま、如何なさいました?」
「だから、その呼び方は……」
「ええ、もちろんでございます。その証拠に爺は奥方さまの前では申しておりませんでしょう?」
「それは、そうだがな。私を呼び止めて、なにかあったのか?」
先ほどまで抱えていた私の邪な気持ちは爺の登場でどこかへ吹っ飛んでいた。助かったような、残念なようなと微妙な気持ちになるものの、私は爺の相手をしなければ。
「坊ちゃまが、悩ましそうなご様子で廊下を歩いておられましたので爺は気になった次第です」
「エレアノーラのことを考えていただけだ。毎日、心配が尽きず戦場より生きた心地がしない……」
ふふふと笑う爺に私は愚痴を零す。本当に毎日エレアノーラのことが気になって仕方ない。階段の昇り降りだって一人で歩かせては危険だろうし、絨毯の上を歩くのだって転んでしまう可能性がある。
エレアノーラも心配だが腹の子も大切な存在だ。身体を冷やさない方が良いと聞くし、栄養価の高い食事を摂り赤子の糧にしなくてはならないらしい。
エレアノーラにたくさん食べて欲しいのだが彼女の食は細い。私が満腹感を覚える随分前に彼女は食事の手を止めている。もっと食べた方が良いのではと思ってしまうが、男と女性では食事量も違う。違うと分かっていても、心配してもっと食べて欲しいという気持ちは私の我が儘だろうか。
まだ戦場にいた頃の方が落ち着いていたと息を吐けば、爺が片眉を上げながら笑っている。
「ちなみに。坊ちゃま」
「ん?」
「食堂、過ぎておられますよ」
「……早く言ってくれ!」
にやにやと爺が笑い、私が歩いてきた廊下の少し先を示した。私はなにをやっているのだろうという気持ちと、爺がおもいっきり揶揄っているという気恥しさからまた大股で元来た道を戻って食堂に入る。
エレアノーラはまだきていなかったと安堵の息を吐き、食事の用意を頼んだ私は席に腰を降ろして彼女がくるのを待つ。今日の朝食には彼女が好んでいる品がでてくるだろうか。
そういえば彼女は食は細いものの好き嫌いはほぼなく――流石に悪阻の酷い時期は食事に難儀していた――て、好みの把握が難しい。なにか好きな料理はあったかと思い返していると、エレアノーラがやってきた。私は席から立ち上がり彼女の下へと歩いて行く。エレアノーラは私の行動に少し驚くものの、扉の所で動かずにいてくれた。
「フェルスさま、お待たせいたしました」
エレアノーラに腕を伸ばした私は彼女の背中に回す。
「いや……ゆっくりきてくれて良かった」
綺麗に笑う彼女にさっきのことが気恥しくなって勝手に視線が逸れた。
「?」
「なんでもない。行こう」
視線を戻せばエレアノーラは不思議そうな顔を浮かべて私を見上げていた。その姿も可愛いと私は小さく笑って彼女を椅子へと導けば、彼女の耳が赤く染まっている。私のエスコートに彼女は慣れてくれないようで、いつも初々しい姿を見せてくれる姿は好ましい。だが、そろそろ慣れて欲しいという気持ちもある。
でも彼女に照れて貰えなくなれば、男として魅力を失っているのだろうかという不安が湧いてしまうはず。婚姻を果たし、いつもエレアノーラが側にいてくれるというのに何故、私はこんなにも頭を悩ませているのだろうか。
そうして彼女と朝食を済ませ、自領の政務や今後のことに頭を悩ませていれば、いつしか日々は過ぎていき。
――数ヶ月後。
ナーシサス領領都領主邸で新たな命が誕生した。部屋の前の廊下で私は行き場なく右往左往していたのだが、赤子の泣き声が聞こえた途端に私は膝から崩れ落ちれば、義弟のリカルドが驚いていた。
彼の手を借り私が立ち上がれば『軍神でも、緊張されるのですね』と苦笑いを浮かべている。初めてのことだから仕方ないと私が肩を竦めていれば、エレアノーラの母親が部屋から出てきて無事に生まれましたと教えてくれた。
部屋から閉め出されていたのだが、やっと私は彼女がいる部屋に入って構わないと許可を貰い急いで足を踏み入れた。
「エレアノーラ!」
「フェルスさま……赤子が無事に生まれました」
私が彼女の名を呼べば、疲れ切った様子で答えてくれた。彼女の腕の中で小さな赤子が白い布に包まれてじっとしている。私は彼女の下へと駆け寄って床に膝を突き、頬に手を当てた。
「……」
本当に彼女が無事で良かった。出産で命を失う者もいると聞き、気が気ではなかった。私は彼女を失えば生きている意味を失いそうなほどに愛している。
たとえ子だけが無事だとしても……いや、考えるのは止そう。彼女は無事で、赤子も元気に生まれてきたのだから。今はただ、命を賭して出産に挑んだ彼女に感謝を捧げなければ。そう考えているのになにも言葉が紡げない。
「フェルスさま?」
「すまない。今の私の感情を言葉にできそうにない」
安堵の気持ちと嬉しさと。彼女に上手く声を掛けられない自身の情けなさ。目の前にあるあまりにも小さな命に私はどう言葉を紡げば良いのか分からない。
「泣いておられるのですか?」
「え」
「優しいお方」
ふふとエレアノーラが微笑み、ゆっくりと彼女の細い手が私の頬に伸び涙を拭う。私は涙を流していたのかと、彼女が拭ってくれた反対側の目に手を伸ばせば冷たい感覚が伝わってきた。
何故、目から勝手に涙が零れ落ちたのか分からない。でも嫌な気は全くせず、とめどなく流れ出る涙を拭う彼女の優しい指がただただ心地良い。私の涙がようやく止まれば、エレアノーラが赤子を抱いてくださいと乞う。
私は彼女の上で眠る赤子に己の腕を伸ばす。小さな命だけれど、エレアノーラの中で十ヶ月も共に過ごしていたとは。彼女の胎を元気に蹴っていた頃が随分と懐かしく感じてしまう。ゆっくりと赤子を抱き上げた私はまた涙を零しそうになる。
「ああ、エレアノーラの子だ……!」
「フェルスさまの子でもありますよ」
私が感嘆の声を漏らせば、エレアノーラが小さく笑いながら答えてくれる。
「私の……あまり実感が湧かないな」
本当に自分の子だと実感できない。この世に誕生したばかりの赤子の顔はまだしわくちゃで、私に似ているとも、エレアノーラに似ているとも判断が付かなかった。
「フェルスさまがいなければ、この子は産声を上げていません」
「そうか、そうだな。うん。エレアノーラと私の子だ」
エレアノーラの声に私は赤子を強く抱きしめたい気持ちを必死に堪えた。私の腕の中にいる子はこれから先、どう育っていくのだろう。まあ、なんでも良いか。とにかく健やかに育ってくれと願わずにはいられなかった。