37:幸せな日々を①
私がエレアノーラ・ナーシサスからエレアノーラ・ロータスとなって一年の月日が過ぎている。
朝。フェルスさまの寝室で目が覚める。既に彼は寝台からいなくなっており、隣に寝ているはずの方がいないことに寂しさを覚えてしまう。寝室の窓から差し込む陽射しで完全に目が覚めた私は寝台から身体をゆっくりと起こした。
そうして夜着の上からお腹の上を手で優しく抑えた。私たち待望の子も私のお腹の中に宿り、最近ようやく悪阻が収まり妊娠安定期に入っているとお医者さまから告げられていた。
自分のお腹の中に違う命が宿っているなんて凄く不思議な気持ちになるけれど、フェルスさまと私の子だと思えば愛おしくて仕方ない。少し前までロータス辺境伯家の皆さまに心配を掛けていたけれど、私の調子が戻ってきたため皆さま安堵の息を吐いている。
本当に皆さまには心配をお掛けしたと苦笑いを浮かべていれば、扉が閉まる音がして誰かが寝台へと歩いてくる。天蓋の布を片手で払いながらフェルスさまが顔を覗かせた。
「エレアノーラ? まだ寝てても良いんだが……」
「フェルスさま、おはようございます。目が冴えてしまったので起きますね」
フェルスさまがそっと手を伸ばして私の頬に触れる。彼の温かい手が心地良くて私は目を閉じて左手を重ねれば、小さく笑う彼の声が耳に届く。
「体調は?」
私の妊娠が発覚してから、今のフェルスさまの言葉は口癖となっている。安定期に入ったため以前のような心配は要らないというのに、本当にマメな方だと私は閉じていた目を開いた。
フェルスさまが髪を短く切る前のお姿も素敵だったけれど、今の短く切っている髪のお姿は凛々しいお顔の彼に似合っていた。毎日、フェルスさまと顔を合わせているけれど、ずっと見ていても飽きなかった。ううん。ずっと見ていてもきっと飽きないのだろう。だって、私にとってこの世で一番大切なお方なのだから。フェルスさまに悲しい顔なんてさせたくないと、私は笑みを浮かべる。
「平気です。心配をお掛けして申し訳ありません」
「心配くらいさせて欲しい。君は私にとって大事な人だ。あと、もう一年が経つというのにエレアノーラの言葉は固いままだ。それに……――」
私の言葉にフェルスさまが眉を互い違いにさせながら笑う。私の言葉使いは癖のようなもので、すぐに変えるというのはなかなか難しいことだ。ただ実家の母や弟とは砕けた口調で喋っている。
そのことを知っているフェルスさまは私には素の口調で語って欲しいという望みがあるそうだ。でも私にとってフェルスさまは特別な人であり……だ、旦那さまである。
「さま付けは不要だと何度も告げているのだがな?」
「……そ、それは」
悪戯をした子供のような顔のフェルスさまが私に告げた。彼との婚姻を果たして名前の呼び捨てを望まれているけれど、なかなか呼べずにいる。私は恥ずかしくなって視線を右へ左へと彷徨わせていれば、フェルスさまが見兼ねて肩を竦めた。
「すまない。君を困らせるつもりはないが、私の名を呼んでくれるエレアノーラが随分と可愛らしいから。ついね」
凄く残念そうな顔をしてフェルスさまが私の額と頬に軽い口付けを落とす。彼の体温と匂いが凄く近くなって心臓がドキリと高鳴った。キス以上のことを済ませているというのに、一年以上彼と過ごしているというのに、まだ慣れないと私の顔が火照っていく。そんな私を見たフェルスさまは満足気な顔を浮かべながら、くすくすと小さく笑っていた。私ばかり狡いと悔しくなってしまい反撃を試みる。
「ふぇ、ふぇるす……」
私がフェルスさまの名を呼び捨にした時は顔を真っ赤にさせて照れていることが多くある。だというのに今日の彼は凄く嬉しそうにしていた。
「うん。改めて、おはよう。エレアノーラ」
目を細めたフェルスさまの灰銀色の目に顔を真っ赤にした私の顔が映り込んでいる。なんだかフェルスさまの策略にまんまと乗せられたようなと考えるものの、こういう日があっても良いのだろう。
満足気な顔をして私から距離を取るフェルスさまに、少し寂しさを覚えるけれどいい加減に寝台から降りなければと身体を動かしていると喉に違和感を覚えた。ん、と空気を吐き出すような仕草を執れば、フェルスさまが目を大きく開いて上半身を私にぐっと近づける。
「エレアノーラ? 今のは咳か? 大変だ。医者を……――」
また私の頬に手を添えたフェルスさまは、慌てた様子で身体を翻し部屋の外へと出ようとしていた。大騒ぎにはしたくはないと私はすぐに口を開く。
「フェルスさま! 寝起きで喉が渇いていただけなので、お医者さまは必要ありません!」
本当に喉の違和感を拭うために鳴らしただけのこと。お医者さまを呼んでも『健康ですね』で終わってしまうはず。私の声にフェルスさまが振り返り、妙な顔を浮かべながらベッドの縁に彼が腰掛ける。
「しかし、エレアノーラになにかあったらどうする? 私は君がいなくなることなんて考えたくない……」
「大丈夫です。本当に喉が渇いて咳払いをしただけですから。ご心配には及びません。でも、ご心配なさってくださり、ありがとうございます。フェルスさま」
フェルスさまがまた私の頬に触れて親指の腹で撫でている。反対の腕が私の腰に伸びてきたけれど、途中で寝台の上に落とされた。少し残念だと目を細めながら寝台の側にある呼び鈴を鳴らした私は、今度こそ起きなければと身体を動かせばフェルスさまが導いてくれる。ベルベットの室内靴を履いていると、私を見下ろすフェルスさまがじっと見ていた。なんとなく気恥しくなった私は夜着の胸元を手で寄せる。
「夜着姿の君も可愛らしいよ。私しか見られない特権だから、誰にも見せないでくれ」
くつくつと笑う彼の逞しい腕が私の腰に伸びてきて優しく抱き留めてくれる。フェルスさまは私の肩に顔を埋め、私はフェルスさまの腕の中に包まれた。彼の匂いと鼓動の音が聞こえてきて、たまらない安心感と幸福感に抱かれる。
暫く抱き留められていれば『こほん!』と咳払いをした私の側仕えであるリアが部屋を訪れていた。いつの間にと言いたくなるけれど、呼び鈴を鳴らした張本人は私だ。フェルスさまは『良いところで』と言いたげな顔をしながら、食堂で朝食を一緒に摂ろうと告げて足早に部屋を出て行く。
「おはようございます、奥さま」
「リア、おはよう。着替え、よろしくね」
「承りました」
にやにやと意味ありげな顔のリアに私は苦笑いを浮かべながら介添えを受けて着替えを済ませた。朝食を摂りに行こうとなんとなく自分のお腹に手を当てる。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」
「みんな心配し過ぎ。あと、リア。お嬢さまになっている……」
「確信犯です。ロータス家中が待ち望んでおられますからね。心配は仕方ありません。ナーシサス家の奥さまと坊ちゃんも楽しみにしておられます。本当にお気をつけてくださいね」
リアがふふと笑いながら、食堂に行きましょうと先を歩き始めた。私は彼女の背を眺めながら言葉を紡ぐ。
「ありがとう」
私の声にリアが振り返り小さく礼を執った。そしてまた前を向き寝室の扉の方へと歩いて行く。私はもう一度お腹に手を当てて、ゆっくりと上下に撫でる。男の子だと良いけれど、こればかりは神さまにお任せするしかない。だから、私は元気な赤子が生まれてくるようにと願うだけ。
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