30:おまけの話⑤
フェルス兄さまは凄く素敵な方である。なにより筋肉が。
あたし、リヴィア・ラークスパーが惚れた人であり王国では戦場での獅子奮迅の活躍により『軍神さま』と呼ばれている方だ。フェルス兄さまとあたしの出会いは十年以上前である。
ラークスパー伯爵家とロータス辺境伯家は数代前の当主と意気投合し、そこから深い付き合いのある家同士となっていた。ロータス辺境伯家は国境を護る王国の要衝として、ラークスパー伯爵家は軍人を輩出しているため意気投合する部分があったのかもしれない。今代の当主である父もフェルス兄さまのお父さまも仲が良いため、互いの家を行き来していた。当然、親同士の仲が良ければ子供同士も仲良くなる。
十年前、ラークスパー伯爵領・領主邸であたし――確か、十歳だった――は勉強がつまらないという理由から自室を抜け出して広い庭に逃げていた。誰にも見つからないように低木の間を抜けながら、小気味良い音が鳴る方へと四つん這いになって進んでいた記憶が残っている。
そうして低木を抜けた先には、木剣を構えた半裸の長兄と同じく木剣を構えた半裸の少年――後でフェルス兄さまだと知った――を捉えた。長兄の姿はいつも見ているし、訓練の後屋敷の中を上半身裸で闊歩していることがある。長兄の半裸姿を見た侍女が恥ずかしそうにしていることがあって不思議に思っていたけれど、長兄と相対している少年の半裸……筋肉は凄く美しかった。
銀髪の少年――年上だけれど。多分長兄と同い年くらいだから十六歳前後だろう――が構えを取れば、鎖骨が綺麗に浮き出て、肩から腕に掛けての肉が力を入れたことによりぐっと盛り上がる。
胸の筋肉も多くも少なくない量を纏い、お腹の筋肉は綺麗に六つに分かれていた。おそらく下半身も鍛えているはずで、訓練服のズボンの太腿の部分が綺麗な流線を描いている。
そうして屋敷の者が『始め!』と声を上げ、長兄と銀髪の少年が木剣を使って打ち合いを始める。カン、カン、カン、と小気味良い音を鳴らしながら、時折、力の入った『ガン!』と半音程低くて大きい音が鳴った。二人の側には次兄から末兄までの四人も立っており、長兄と銀髪の少年の手合わせをじっと見ている。
剣術は習ったことがないからさっぱりだけれど、長兄より銀髪の少年の方が勝っている気がする。そうして銀髪の少年が長兄が持つ木剣を下から上へと払えば、利き腕から離れてくるくると放物線を描きながら地面に刺さった。審判を務めている屋敷の者が『それまで!』と声高に叫んだ。きょとんとした長兄は数瞬すると、凄く楽しそうな笑みを携える。あんな長兄の顔は見たことがないと当時のあたしは不思議に感じていたっけ。
『フェルス、凄いな!』
『いえ、貴方の剣技も見事です』
はははと長兄が歯を見せながら笑い銀髪の彼……フェルス兄さまの肩に腕を回せば、汗ばむ肌に筋肉が脈動していた。
『凄く、綺麗……』
長兄の筋肉は大したことはないけれど、フェルス兄さまの筋肉は凄かった。どう例えて良いのか分からないが、高名な匠が彫ったという石膏像の筋肉のような美しさがあったのだ。しかし石膏像は動くことはないが、フェルス兄さまは動いており筋肉が生き生きと動いて血が通っている。両親に連れられて行った美術館の石像たちより、フェルス兄さまの方が億倍も素敵だったのだ。
それからあたしはフェルス兄さまから目が離せなくなった。
服を纏っていても分かる筋肉に、筋肉を纏っているからこそできる柔らかな動きに力強い動き。首に纏う筋肉も、お尻の筋肉も引き締まっているし、足首からふくらはぎに掛かる場所の筋肉も綺麗だった。フェルス兄さまが鍛え纏った筋肉の美しさ優雅さ力強さを、きちんと表現できないあたしの語彙に失望したくなるけれど。
それにフェルス兄さまは……。
フェルス兄さまが長兄との手合わせを終えれば、茂みの中にいたあたしに気付いたようで不思議そうな顔から片眉を上げて小さく笑う。
『そんな所でなにをしているんだ、君?』
問いかけた声は先程まで聞こえていた荒々しいものではなく、凄く柔らかで温かい声である。幼いながらに父や兄たちとは全く違う男性なのだと悟った気がする。
初めてお見かけしたフェルス兄さまは今より若くて細身だったけれど、それでも長兄よりがっちりしているし背も高く、手も足も長い。声は低くて耳に心地が良いし、風に揺れる銀糸の髪も目立っていた。そんな彼の横で長兄が苦笑いを浮かべながら私に近づいてくる。仄かに臭い始める汗の香りにあたしは目を細めるのだが、長兄は全く気付いていなかった。
『妹だ。私の可愛いリヴィア、家庭教師に怒られて逃げてきたのかい?』
長兄はフェルスさまにあたしが誰かを伝えて、地面に膝をつき立ち上がらせようと腕を伸ばす。あたしはフェルスさまの神々しいお姿と筋肉に見惚れて、長兄のことなどどうでも良かった。近づいていた長兄の腕を払いのけ、あたしはフェルスさまを見上げたまま問う。
『兄上さま、そちらの方は?』
怒られて逃げてきたわけではない。ただ単に授業がつまらないだけだ。あたしのことなど一つも理解していない長兄などどうでも良くて、フェルス兄さまのことが気になって仕方なかった。
『……ロータス辺境伯家のフェルス殿だ』
私の声に兄上の片方の眉がぴくりと大きく動いた。兄上たちも父さまもあたしに甘く、家人以外の男性に近づいてはならないよと常々言っている。
屋敷に男性のお客さまがくれば部屋から出てはならないとお願いされ、あたしは彼らの言うことを聞く代わりにドレスやお菓子を強請っていた。その時はなんとなくドレスもお菓子も気分ではなかったので、確か家庭教師から逃げ庭へと向かったのだ。そうしてフェルスさまとお会いできたのは本当に運命と言わざるを得ない。だからあたしはフェルスさまに立派なレディと見て貰えるように、立ち上がり着ていたスカートの端をちょこんと持って礼を執った。
『リヴィア・ラークスパーと申します。お見知りおきを』
あたしが頭を上げれば、いつの間にか上着を羽織っていたフェルス兄さまも胸に片手を当てて礼を執る。
『フェルス・ロータスだ。兄上と貴女の話を聞いていたが、家庭教師から逃げてきたようだね』
事実を告げられてあたしはうっと言葉に詰まった。凄く素敵な方に会って最初の肝心な時に『勉強から逃げてきた子供』と捉えられるなんてと恥ずかしかった記憶が残っている。
あたしは彼の言葉に顔を赤くして、どう答えれば良いかと困っていた。逃げてきたことを認めれば怒られるかもしれない。戻れば家庭教師にも苦言を呈される。父と兄たちは怒らないけれど、母は確実にあたしに強く当たる。
『勉強は嫌いかな?』
フェルス兄さまの問いに私は無言で顔を横に振る。嫌いではないが、長い時間、椅子に座って机に向かうのが苦手だから。
『つまらない?』
またフェルスさまが問う。少しだけ苦笑いを浮かべていて、あたしは子供扱いされている気分になる。まあ子供だったけれど。
『……少しだけ』
教本に書いてあることを家庭教師はあたしにくどくど述べるだけ。そんなものに意味はあるのかと言えば、顔を真っ赤にして家庭教師が怒って辞してしまった。
『なら君が興味を持っていることは?』
『え?』
意外な問いかけだった。今の今まであたしが興味を持っていることなんて誰も聞いてくれなかった。貴族の女性として恥ずかしくないようにと、必要な勉学と刺繍やダンスを習うだけ。
ちまちました刺繍はあたしには性に合わなかったし、勉強は教本を読めば理解できるから家庭教師なんて必要ない。ダンスは身体を動かすことが好きだから真面目に習っている。それ以外であたしが興味のあること……あ。ある! さっき見つけたこと!
『もしあるなら、君の父上に相談してみたらどうだろう。きっと勉強が楽しくなるんじゃないかな?』
フェルス兄さまが目を細めて笑い、あたしの目を確りと捉えた。あたしは彼の銀色の瞳を覗き込むのが恥ずかしくて目を逸らしてしまう。そして目を逸らしたことは失礼になると気付いて、どうしようもなくなってあたしはフェルス兄さまに礼を執った。
『お父さまに話してみますっ!』
あたしは言うや否や、その場から走り去る。フェルス兄さまが『貴殿の妹君は足が速い』と言っている気がして後ろを振り返る。振り向けば、兄たち五人がフェルス兄さまを取り囲んでいる。
『フェルス殿。私たちの可愛い妹に手を出すつもりかな?』
『は?』
長兄の声にフェルス兄さまが困惑の声を上げれば、次兄が私もと言わんばかりに口を開いた。
『リヴィアはまだ嫁に行くには早い!』
『はい?』
次兄の声にフェルス兄さまが更に目を丸くして木剣を構える。そうして三男と四男と五男の兄たちも木剣を構えてフェルスさまと相対した。
『フェルス殿は良い男だが、妹はまだまだ可愛い盛り!』
『男の下へ嫁ぐなど、言語道断!』
『そうです! 純粋なリヴィアに男のことなど考えさせられません!』
嫉妬の炎を燃やす兄たち五人にフェルスさまは困惑しつつも、繰り出される五本の木剣を捌いていた。フェルス兄さまと距離を取ったあたしは庭の隅に立ち、彼の肉体美を思い出す。目に焼き付いて離れないほど本当に美しかった。それにあたしのことをちゃんと考えながら、フェルス兄さまは声を掛けてくれたのだ。
それからいろいろありつつ月日が経ち、フェルスさまが前線に立って活躍する話を頻繁に耳にするようになる。
流石、美しい筋肉を持つフェルス兄さまだ。軍人として無類の強さを発揮し、ロータス辺境伯領の守りを担っていると。フェルス兄さまに婚約者はいないから、父にあたしが彼の婚約者になれるようにと頼んでみた。
父は渋々だったけれどフェルス兄さまであればと納得してロータス辺境伯家に婚約の打診を送ってくれたそうだ。それも一度ではなく、何度も何度も。結果はいつも『いつ死ぬか分からぬ身だから婚約者や婚姻者を求めていない』と返事がくる。ということは、フェルス兄さまの隣に立つ女性はいないということ。ならば彼の隣に立てるようにあたしが相応しい存在になれば良いのではないかと軍に志願した。
父と兄たちには凄く反対されたけれど、あたしに逆らえない所がある彼らは最終的に認めてくれる。そうして軍に入って訓練を終え前線に立つ時がきた。やっと、やっとフェルス兄さまの後ろ姿が見えたと喜んでいたら終戦を迎えたのだ。激戦区であり要衝であった場所でフェルス兄さまが総大将に降伏勧告を突き付けて。
――そんなフェルス兄さまがあたしに呆れた視線を向けている。他にも人がいるけれど、まあ良い。
つい気が抜けて『フェルス兄さまの素敵な筋肉がこの先見れない』と呟いてしまい、目の前に座すフェルス兄さまと彼の婚約者であるエレアノーラ・ナーシサスに声が届いてしまったようである。
嫌がらせの一つでもできればと企んでいたけれど、結局あたしが彼女に嫌味を吐いただけで終わってしまった。でもまあ、泣いて少しはスッキリしたかもしれない。あたしは頭の上に疑問符を乗せているエレアノーラ・ナーシサスにきちんと伝えるために、もう一度告げる。
「フェルス兄さまの筋肉は凄く素敵よ。ええ、美術館に飾られている石膏像以上にね」
「え?」
きょとんと目を見開くエレアノーラ・ナーシサスと壁際であたしたちの話を聞いていたハインリヒ王太子殿下が『ぶふっ!』と声を漏らした。殿下には妃殿下が笑っては駄目ですよと咎めているが、効果は薄いようである。でも、あたしがフェルス兄さまの筋肉が綺麗で素敵なものであるという気持ちは誰にも否定させない。だからはっきり伝えよう。
「フェルス兄さまの筋肉はこの世で一番良いのよ!」
それを貴女は……独り占めするのよ!! と妬ましく声を出せば、エレアノーラ・ナーシサスはどう答えて良いのか凄く困り顔になるのだった。
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