5話:狩人
◆あらすじ
お酒が飲みたい。ほんのちょっとでいいですから。女神は切に願った。
その獲物を追跡し続けてもう三日になる。男の体力と集中力はジリジリと消耗していたが、それは獲物のほうが大きいはずだった。
草むらにまた血の跡がある。男が放った太矢が効いている。足跡もくっきりと残っていた。この獲物はもう逃さない。
男は木の若葉を口に含んで僅かな水気と養分を摂る。小動物でもいればいいが、あれほどの怪物がここらを通った後だ。皆逃げ散った後だろう。
親子連れの熊だった。それもただの熊ではない。ゲキグマと呼ばれる魔物で、並の熊に倍する体躯を誇る危険な魔獣だ。
男はベテランのハンターである。その熊を討つことになったのは町からの依頼がキッカケだった。農場にたびたび出没しては畑を荒らす熊。それが今追っている獲物だ。人が襲われるようになるのは時間の問題であるが、町の衛兵は魔物退治の専門家というわけではない。
男は頻繁に熊が出没するという場所に簡易テントを張り、カモフラージュを施した。数日間そこに通い詰め、中で標的の出現を待った。
扱うのは短槍ほどもある太矢と、それを放つに十分な強弓である。大人二人がかりでようやく引けるという弓を、そのハンターは一人で使いこなせる。
数日待ってようやく親子熊が現れた。農作業中だった農夫が先に気づき一目散で逃げる。その後から熊の親子は悠々と畑に近づき、まだ青い作物を貪り始めた。
衛兵隊にも報告は行っただろうが、ハンターの男は衛兵の到着を待たずに独自の判断で戦いを始める。彼らハンターの多くはハンターギルドという独立した組織に所属しており、王や領主よりギルドの命令で動く。
特にハンターという仕事に就く者たちは、森で、山で、荒野で、そこに巣食う生物魔物に己の力で立ち向かうことに生き甲斐を感じることが多かった。
(あれは俺の獲物だ)
男の存在はまだ気づかれていない。テントは風下に位置しているため臭いでは気取られにくいはずだ。そういう位置を選定しておいた。
矢をつがえ弓を力強く引き絞る。狙いは親熊の胴体部。心臓を射抜ければことは簡単なのだが、そうそう上手くもいかないだろう。だが心臓を外れても身体機能を損なうことができれば、とどめを刺すのは容易になる。
動き回る子熊の動きに親熊が気を取られた一瞬、男は矢を放った。
――シッ
風を切り裂いた太矢は親熊の胴に突き刺さり悲痛な叫びが上がった。それと同時に男はテントを出て様子を確認する。一撃では死ななかったようだが計算の内だ。
驚いた親子が混乱したまま別れて逃げ出す。男はそれを見て次の矢をつがえた。狙うのは子供のほうだ。動きが鈍く狙いやすい。
まだ幼くはあっても躊躇はなかった。ゲキグマの子熊ともなればすでに並の熊に近い体躯でニ、三年のうちに危険な獣となるだろう。だから今のうちに仕留める。
迷わず一矢。太矢は子熊の身体には十分な威力で胴を貫通した。あれではもう動けないだろう。
子熊が射られたことに気づいた親熊が方向を変える。その様を男は注視した。男に復讐を仕掛けてくるなら、それは危険だ。ベテランのハンターでもこのサイズの魔物と一対一で正面からは戦わない。ひとまず逃げるしか無い。
だがこの親熊の向かった先は怪我を負った子熊の方だった。子供を心配する心がなにより優先したのだ。
そうなることは男の想定内だった。だから子熊を狙ったのだ。男は三射目の矢を矢筒から抜き、至って平静につがえる。そうして放たれた矢は、我が子を心配する親熊の身体に追撃の一矢として突き立つ。
手応えがあった。死に至らないまでも臓器を深く傷つけたに違いなかった。
その後、熊は血を流しながらも森に逃げ込み、男はそれを追って行った。
無闇には近づかない。まだ力は残っているだろう。たとえ弱っていても丸太のような前脚を一振りすれば、男の首などへし折れる。適切な距離をとって追跡し続け、獲物の体力が尽きるのを待つ。そうして一日が経ち、二日を過ぎ、三日に至る。
夜になれば森の中を幽霊が徘徊する。男は町で買った聖油でランタンを灯し、魔を除けつつ進んだ。
短い仮眠をとって朝を迎える。食事はまともに摂れないが、こういうときのために木の実や種を携帯している。味は微妙だがこれを口に含みじっくり噛んだ。
追跡それ自体は困難ではない。なにしろ体長5ナガシス(約5メートル)に達する巨大な魔物だ。森の中を進むには草木を押しのけ踏み倒し、自然と獣道ができる。そうでなくとも血を流しながら歩くゲキグマの足取りは、熟練の狩人にとって容易に捕捉できた。
「……!」
その時、男は意外なものを見つけた。否、追跡に夢中になるあまり失念していたことがあった。
彼の視線の先には、動物の骨や毛皮を組み合わせて作ったトーテムが木にくくりつけてあった。
「小鬼のトーテムか……」
そのトーテムは、この森に住む小型の亜人種、ゴブリン部族のテリトリーを主張する標識だった。
開発の手が及びにくい奥地には、こうして魔物や亜人、獣人種がコミュニティを作っている地域がよく見られる。男はゲキグマを追う間にゴブリンたちの領域――と彼らが言い張る土地に近づきすぎた。
こういう場合、無闇に近づくべきではない。ゴブリンたちはけして好戦的な種族ではなく、人間たちとの接触を避ける傾向にある。であるならば人間側からも強いて衝突する必要はなく、お互いに不干渉傾向にある。
もっとも、国によってはゴブリンたちを排除対象とすることもあり、逆にゴブリンたちが凶悪化して人間の村を略奪することもある。
魔物も棲むような森で狩猟生活をする部族であるから、その組織力は侮れない。
男はテリトリーを侵さないよう慎重に後退した。彼らと敵対する理由は無いし、もし複数から攻撃を受ければ多勢に無勢で命に関わる。
肝心なのはゲキグマだ。
今一度周囲を探りゲキグマの痕跡を探した男は、ほどなく大きな足跡を見つけた。その足跡はゴブリンの領域とは別方向へ向かっているため追跡に問題は無い。
(もう少しだ)
ここまで来ると風にのって獣臭が臭ってくるようだった。あるいは血の臭いか。森の臭いと混じって雑然とした空気を感じながら男は、そこで別の気配に気づく。
(瘴気か?)
瘴気とは空気に死臭や汚染、あるいは魔に侵された淀みが混じったものを大雑把にそう呼んでいる。詳しい研究進んでいないが、『大災厄』以降にこうした汚染が増加したとの主張もあり問題視されていた。
この瘴気がどこから湧き出るのかもわからないが、魔や死との関係性がよく指摘される。
男は背中に嫌な汗をかいていた。瘴気は危険である。こういうときは“アレ”が出現する可能性が高い。
引き下がるべきか、獲物の追跡を続けるべきか。わずかに思考した男だったが、それより早く前方の群生に異変が生じた。
何かが近づいてくる。
男は弓に矢をつがえながら距離を保った。魔物が出てくれば即応して鼻面に矢が放てる体勢。それだけの訓練はしてきた。
――悪魔が出るか蛇が出るか……。生唾を飲み込む男の鼻に、さっきより濃い咽るほどの瘴気が感じられた。やがて“ソレ”は木々を蹴散らして男の前にその姿を……。
***
厩に預けてあったトテモハヤイを引き取ると、カイとアッシュ二人を背に乗せ旅を再開した。
「荷物も増えちゃったけど、重くない?」
アッシュがトテモハヤイに尋ねると、馬は首を振ってそれに応じた。
「大丈夫ってさ」
「そうみたいね」
苔の生えた門をくぐった先にはいつもと変わらぬ曇天。街道と痩せた草原が広がる灰色の風景だ。
それでも、この世界で色々な人が生きてるのだなとアッシュは今更実感していた。まだ数日の地上体験だが、天界から覗き見るだけではわからない生の感触がそこにはあった。
今も目の前の風景は切り替わり、街道沿いにいくつかの農場が広がっている。植えられているのは麦、豆、野菜類。玉ねぎなどはここターミンの特産物だったそうだが、今は羽振りがよくない。
農業や畜産業は冬の時代で数も質も不作が常態化している。そうした食材が高値で取引されるのは、富裕層で魔物食に馴染めない人々が“まともな”食べ物を求めてやまない事情があるからだ。
馬で通り過ぎる間に農夫たちの働く姿が見える。彼らは苦しい環境でも、毎日こうして仕事に従事しているのだろう。そうする以外にないのだと言えばそうだろうが、農夫たちが諦めず大地に向き合う姿にアッシュは心持ち嬉しくなった。
ふと、畑の一角で農夫と衛兵がしきりに話し込んでいる姿が見える。カイも気になったのか、馬を寄せて衛兵に話しかけた。
「どうかしましたか?」
「ん? あぁその服、聖火隊の者か。なに、近頃この辺で魔物が出てるんだが」
衛兵はゲキグマという熊のような魔物が畑を荒らしている事態を話した。
農夫のほうは身振り手振りで「こんなに大きい奴だったぜ」と説明し、アッシュはマジかよと若干驚く。女神といえど全ての魔物とその後の進化を把握してはいない。
「町に住んでるハンターに駆除を依頼したんだ。熟練のハンターで、親子連れの子熊のほうをすでに仕留めている」
「それは良かった。何か手伝えることはありませんか?」
衛兵はカイの申し出に少し考えてから、森の方角を指差して話しだした。
「そのハンターは親熊を追って森に向かったんだが、もう五日になる」
「そんなに経つんですか」
「まさかとは思うが不測の事態があったのかもしれない。そのハンターが使っている狩り小屋の様子を見てきてくれないか?」
狩り小屋の位置を衛兵が説明し、カイの持つ地図に印をつけた。これから向かう西方の街道からはやや逸れるがたいした距離ではない。
「あくまで念のためだ。無事が確認できれば善し、留守にしていてもそのまま旅を続けてくれ。だが何か異常を見つけたら我々に報せてほしい」
「いいでしょう。聖火隊の役目の内です」
「すまないな。聖火と共にあらんことを」
「共ににあらんことを」
衛兵たちと別れてカイは馬を進める。
「悪いアッシュ、寄り道することになった」
「私はいいよ。でもそのハンターの人ってどうなったのかな……」
「魔物との戦いで命を落とすことは珍しくないが」
魔物の増加と、それを退治し食料と素材を得るシステムが成立して以来、ハンターという役職の地位は大きく向上した。
大きな街であれば数名から十人以上のハンターが常駐し、それらを統率する組織としてハンターギルドが設立された。その影響力は大きく国境を越えて指導力を発揮している。
「その人に子熊が駆除されたんだね……」
親子連れのゲキグマのうち、子熊が先に狙われたという。アッシュにはそれが少し心に引きずった。
「ゲキグマの子供なら、少し成長すれば並の熊と大差無い。それに親熊だけ殺したところで……」
「それはわかってる。わかってるの……」
やや重い空気になりながらも、二人とトテモハヤイは街道を進み、しばらくして森へと向かうコースを取った。森と町を行き来する人はそれなりにいるのだろう、轍ができて道のようになっている。
「これなら迷わなくてすみそうだ」
森は木々が鬱蒼と茂っているがどこか生気に欠けるとアッシュには見えた。幹が細めで枝葉も過疎気味だ。
「これも大災厄の影響か……」
「そうだな。草木も痩せて、それを頼りにする動物たちも減ってしまった。魔物は逆に増えて、変わらないのはキノコぐらいか」
穀物や野菜に比べて大災厄の影響が少なかったのがキノコだった。収穫のために森へ入るのはリスキーになったが、それでも以前に近い収量が見込みやすく食材に珍重されている。見方によってはキノコブームの時代と言えるだろう。
「んっぷ」
「どうしたアッシュ?」
「いやなんでも。ちょっと空気が悪い気がして……」
「ああ、気づいたか。少し瘴気が出てるな。魔物の痕跡かもしれない」
アッシュが少し緊張したのが伝わったのか、トテモハヤイも立ち止まって軽く足踏みする。
「森の奥深くに行くほど、人の影響が薄まるほど魔物が棲息する可能性が増すのは言うまでもないが」
「衛兵の人が言ってたゲキグマなんてのが出てきたら、カイは勝てるの?」
「無理だな。小さい魔物ならともかく、ゲキグマは一人で挑むような相手じゃない」
「ちょちょちょっと、主役なんだからもっと頼りがいある台詞をさぁ」
「主役……なんのだ?」
大型の魔物との戦いなど兵士やハンターが数人がかりでやる仕事である。仮に一人で狩るとしたら、話に聞いたハンターのように待ち伏せ不意打ちが前提となるだろう。
「このまま深く踏み込めば魔物と出くわすかもしれないが。アンタ、魔物と戦う術はあるのかい?」
「ぜぇ~んぜん全然無理です」
アッシュがぶんぶんと首を高速運動するのが背中越しにも伝わった。
「なら逃げの一手だな」
「あ、でも。女神的な技の数々が役に立つかも」
「女神の御業か……。例えばどんな?」
「そうねー。これとかどうかな『女神アイ』!」
アッシュが両手の指で四角い囲みを作ると、その中に窓のような空間が浮かび上がる。
「なんとこの女神は人や物の情報特性経歴だのなんだの全て見抜けるのだ!」
「待て、今それで何を見ている?」
「カイ・ホウジョウ、18歳。思ったより若いんだ」
「読み上げるな」
「いいじゃんちょっとぐらい。弱いところは首筋。聖火隊の若手レンジャーで東方移民の子孫。家族は幼い頃に災獣の出現で……全員……」
アッシュは地雷を踏み抜き足が吹き飛ぶ自分の姿を脳裏に浮かべた。いっそ落馬して死ねばいい、胸がデカいだけの役立たずめが。誰もお前を愛さない。穴を掘って埋まろう。
「……ごめん、なさい」
「過ぎたことさ」
カイはそう言ったが、アッシュが垣間見た彼の情報には、過去の出来事に対する強い憎しみの情が読み取れた。
***
「地図のとおりなら、ここらに狩り小屋があるはずだ」
二人は時に馬を休ませ、キャンプを張り、日を跨いで目的地に近づいた。幸い魔物に遭遇することは無かったが、一方で鳥や小動物の類いも見かけることは無かった。
「こんなに動物が減ってるんだ……」
アッシュはリスの一匹でも見られたら良かったのに、などと考えていたが、カイの方はやや深刻な様子だ。
「動物の姿が無さ過ぎる」
「どういうことカイ? 本当はもっといるの?」
「リスに鹿、兎、鳩やカラス、何かしらの気配があるはずだけど、今は皆無だな」
こういう場合考えられるのは、何か脅威から逃げて居なくなったということだ。その対象が何であるかまではわからないが、カイはすでに警戒態勢に切り替わっている。
「見えた」
ハンターの狩り小屋である。木造りの小屋に荒れた様子は無いが、人の姿も気配も無い。扉には鍵がかかっていて呼びかけても応答は無い。
「こっちには寄っていないのかな?」
中から異臭がするわけでもない。至って普通の“留守”だが、ならばハンターは今どこで何をしているのか。森のただならぬ様子と合わせると気にかかることだった。
「――!」
アッシュの体がビクリと反応した。何かが近くにいるのを感じ取っていた。
「アッシュ?」
「見られてる」
「何が……っ」
遅れてカイも気配を察知し、二人は物陰に隠れた。だがすでに相手から捕捉されていたようだ。茂みを掻き分けて何者かが近づいてくる。
(人……?)
そう思ったアッシュの目に映ったのは、人としては小柄で、そして異様な風体の二人組だ。小さいわりに顔は厳つく耳が長い。骨と皮で作ったったヘルメットを被り、体は毛皮の粗い衣服に包まれている。
手には石斧と弓をそれぞれ持ち、こちらを見据えすでに身構えていた。
「ゴブリンか……」
アッシュの視界の端で、カイが剣の柄に手をかけるのが見えた。