4_実戦
エヌの住む街は大きく分けて2つの区画に分類される。
頑丈な壁によって囲まれた本市街と壁の外に広がる外市街。
一般に本市街は二級市民までの住居と三級市民までの働き口として開放されており、文明を失って久しい荒野と異なり先史文明由来の設備によって高度な生活水準の約束された場所となっている。
対する外市街は壁の外側に住み着いた流民を起源とし、三級市民や市民権を持たぬ者たちが暮らす場所となっている。荒野を侵食するように広がる外市街は、エヌの生まれる前に起きたモンスターの大侵攻を境にそれ以前に開発された区画を内縁、それ以降を外縁と呼んで区別されている。
エヌが住むのは外市街の内縁寄りの外縁で、荒野が目と鼻の先にあるような場所だ。いたるところで見かける廃墟はモンスターの大侵攻の名残でもあった。
そんなエヌの住処からさらに外縁に進んだ場所にエヌは訪れていた。
『ここは外市街の企業が本市街と提携して中規模の工場を建設する予定だった場所よ。残念ながら途中で資金繰りが怪しくなって工事もストップ。資材なんかも引き払われずに残っていて、過去には怪しい人たちが住み着いてたこともある場所ね』
アライメントのそんな説明を聞きながら、エヌは金網で囲われた工場建設予定地を仰ぎ見る。人の出入りは無さそうで、常備灯なんかも点灯していない。完全な廃墟だった。
『エヌが討伐する予定のモンスターについて説明するわね。ギルド登録名は磨製ラビット。一般的なウサギに加えて鼻頭から伸びた一本角を生やした外見をしているわ。身体能力に特筆するべき点はなし。常識の範疇で警戒しておけば、その動きには十分付いていけるはずよ』
エヌは横に並ぶアライメントに向き直ると、討伐チケットを一瞥し納得したように頷いた。
「この絵の通りだ」
『ちなみに習性として自身の角を石などで鋭く削ることが挙げられるわ。まぁ、放っておくと伸びた角が頭蓋に突き刺さって死んじゃうせいだけど。このへんはサイと同じね』
「どうでもいい」
『間抜けな感じがして愛着がわいてこない?』
「そういうのを期待されても困る」
エヌは討伐チケットをポケットに押し込むと、目の前にある金網に手をかけた。
「侵入ルートはこちらで提示するわ。まずは相手の位置情報」
すっとアライメントが手を払うと、エヌの視界に色とりどりの情報が映り込む。
「緑の点はこちらに全く気付いてないモンスター、黄色は認識はしてないけど警戒状態に入った個体。エヌを捕捉した場合は赤色になるから気を付けてね」
エヌの視界には建物の中を透過して映る緑の光点が十以上。比較的近い距離に黄色の光点が一つあった。アライメントの言うことが正しければ、街はずれとはいえモンスターが生息していることになる。
エヌはこれまでの常識が足元から崩れていく感覚に襲われてその場で餌付く。
『知らない、と言うのはとても幸せなことね。ガイドビーコンを出すわ。エヌが間抜けを晒さない限りは相手に気付かれることは無いから安心して』
「……アライメントが騙している可能性は?」
『それを証明するのは至難の業ね。キミの心持ち次第だもの。せいぜい美少女に騙されるなら男としては本望でしょ、って気休めを言うくらいは出来るかな』
「アライメント……」
飄々とした様子のアライメントにエヌはそれ以上何も言えなかった。
もし、彼女が「信じて」とか可愛らしく振舞ってくれれば、気分良く行動に移せただろうに、そういうところに気が利かない。いや、その甘えを見透かした上で、こういう態度を取っているのかもしれない。
エヌが疑わし気にアライメントを見やれば、彼女は目尻を緩めてにんまりと笑いながら、こちらに視線を返してくる。完敗の気分だった。
「わかった、やるよ」
『一応、例の包丁は手に持っておいてね。セーフティも解除するから取り回しには気を付けて。私のプレゼントした武器でケガをされると切ない気分になるもの』
エヌはズボンに差し込んだゴム棒を引き抜く。グリップをしっかりと握りしめば、それに呼応するかのように、だらりと垂れさがっていたゴム棒が収縮して刀身を形成した。
『さ、私たちの狩りを始めましょう』
それと同時に、エヌの視界には黄色い逆三角形のマーカーが複数、そしてそれを繋げる導線が浮かび上がる。
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「……空気が変わった?」
エヌが金網の破れた場所から工場の敷地内に侵入した瞬間だった。肌に触れる空気の感触がまるで水の中に突っ込んだようにまとわりついたのだ。それまで、そろそろと周囲を警戒していたエヌだったが、その違和感に棒立ちになる。
『荒野により近い空気に変化したのよ。モンスター由来の成分が大気に溶け込んでそうなるのだけど。ともかく、荒野童貞卒業おめでとう』
ククッと引きつるように笑うアライメントをじろりとエヌが睨みつけるが、彼女が態度を改める様子はない。
『そんなに拗ねないで』
そんなに不機嫌を顔に出していただろうかと、エヌは思わず空いた手で頬を引っ張る。
その様子に、辛抱できないとばかりにアライメントがぷふーと噴き出す。そしてひとしきり笑い終えると、緩めた表情を引き締めて、エヌに向き直った。
『ただ、この感覚はちゃんと覚えておいてね。キミが命のやり取りをするとき、必ずこの空気が付いて回るわ。あまり慣れてしまわないようにね』
エヌはどう返答するか迷い、結局は声には出さずに神妙な顔を作って頷いた。
『よし、おしゃべりはここまでね。ここからはなるべく声を出さずに、ね。相手はウサギだから耳もそれなりにいいの』
そう言って、アライメントが頭に両手を乗せてウサギの真似をする。
エヌは変な声が漏れそうになるのを何とか堪えると、視界に映るマーカーに注意を向けた。
マーカーは工場を真っすぐに目指さず、資材などを通るルートを示している。
エヌが区間マーカーに到達するたびにアライメントからご褒美の言葉が耳元で囁かれるが、彼にはそれを気にするほど余裕はなかった。工場、そしてモンスターを示す光点が近づくにつれ心臓の音は天井知らずに跳ね上がっている。
エヌにとってモンスターは間違いなく死の象徴なのだ。モンスターに近づくというのは、死に近づく、自殺に等しい行為で、彼の精神に多大なストレスを与え続けていた。
『エヌ、次のマーカーでターゲットの磨製ラビットを目視できるわ。気を付けて』
何よりも、アライメントの言葉がエヌの精神を追い詰める。エヌの想像力を遥かに超えた情報は理解できない恐怖へと置換されていた。覚悟を決めたといっても、これまで積み上げてきた常識が邪魔をする。
次第にエヌはアライメントに言葉に疑心暗鬼となる。彼女の出す情報を真に受けられなくなる。自分の目と経験こそが一番正しいのだと視野狭窄に陥る。
破綻はすぐ傍にあった。
『エヌ!』
本来であれば、ゴールとされていたマーカー。エヌはそれを通り過ぎる。その先に待っていたのは、建材で一心不乱に角を削る磨製ラビットの後姿。
エヌのナイフを握る手に力がこもる。
『エヌ、戻って!』
気づけばエヌはアライメントの制止を無視して、磨製ラビットに向かって走り出していた。
彼我の距離はぐんぐん縮まる。
5歩。
3歩。
ウサギがびくりと体を震わせた。
エヌは気付かれたと理解したが、既に射程圏内。加えて相手は背を向けていて、左右には建材が積まれて袋小路になっている。逃げ場もなく一方的な攻撃チャンス。エヌがここで躊躇することは無かった。
2歩。
磨製ラビットが正面に向かってはねた。
1歩。
磨製ラビットが正面の壁を蹴って反転する。
その鋭い角が眼前に迫っていた。
『エヌ!』
磨製ラビットの角はエヌに届かなかった。眼前で見えない壁に阻まれたように空中で動きを止めている。
理解は出来ないが、チャンスは継続している。エヌはその場に踏みとどまりそうだった両足を叱咤する。見えない壁に角が突き刺さったように静止する磨製ラビットの脇を抜ける。
エヌはそのまま背後に回り込むと、ナイフを磨製ラビットの延髄に向けて切り込んだ。
ぶしゅり、と鮮血が宙に舞った。
エヌに物を切ったという感覚は無かった。しかし、振るったナイフはしっかりと磨製ラビットの首を切断していた。頭はそのまま真下に、胴体はわずかな慣性を残しながら放物線を描いて離れた場所に、ニュートンの万有引力を証明するかのようにそれらは同時に地面に落ちた。
「はっはっはっ……」
エヌは浅い呼吸を繰り返しながら、ナイフを振りぬいた体勢のまま固まっていた。アライメントが傍に寄ってくるにも関わらず、からだはピクリとも動かない。
『落ち着いて、エヌ。ゆっくりでいいわ。まずは深呼吸。それからナイフを下ろしなさい。焦る必要はないからね。ほらほら、深呼吸、深呼吸。ひっひ、ふー。ひっひ、ふー』
エヌの血走った目が、正面に回りながら笑いかけるアライメントを追いかける。それから徐々にだが、エヌの呼吸が深く、深くなっていく。
『……落ち着いた?』
「もう大丈夫だと……おも、う」
『そ』
エヌはその場に腰を下ろすと、後ろ手をついて空を仰ぎながら深く息を吐く。
「磨製ラビット、の動きが止まったのはアライメントのおかげ?」
『携帯バリアを使ったの。覚えてる? キミがチュートリアルで手に入れた球体。ちなみに4秒分使ったから、ちゅー二回分ね。暴走は高くついたでしょ?』
「……もうしないよ」
エヌはアライメントから目を逸らしたまま返答する。とても確約できるとは思えなかった。そして、取り繕うような言葉をアライメントの目を見て言えるほど、エヌの肝は太くなかった。
くすりと笑みをこぼされたのは、エヌのそういった心情も見透かされていたのだろう。
『まあ、いいけどね。エヌ、討伐チケットを出して』
言われるままに討伐チケットを取り出すと、紙片の半分が赤く色づいていた。
「え、ポケットに入れていたのに?」
『よく見て、血の汚れじゃないわ。磨製ラビットの討伐したから、依頼書が赤く染まったのよ』
「すごい機能だ」
『すごい機能なのよ。そして1匹倒しただけじゃ討伐依頼を完遂したことにはなってない、って言うことも理解できるわよね?』
おそらくは討伐チケットの内容をすべて終わらせれば、紙片は真っ赤に染まるのだろう。半分だけ赤く染まった討伐チケットを見れば、残りはもう一体だと直感的に理解出来た。
「まだやるのか」
『焦る必要はないけれど、そろそろお腹も限界でしょう?』
「そうだった」
エヌは跳ね起きると、お腹に手をあてて唾を飲み込んだ。
『そのくらい気が緩んでる方がよさそうね。さっきは少し脅しすぎたわ』
「もうしないよ……」
気まずげにエヌが声をこぼすと、アライメントは楽しそうに笑った。
それからもう一匹のモンスターをエヌは狩った。アライメントの指示は驚くほどに的確で、何のアクシデントもなかった。
『私の出したマーカーを通り過ぎたり、モンスターを見て頭真っ白にしたまま突貫しない限りは命のやり取りなんて必要ないのよ。あら、エヌ。とても気まずそうな顔をしてるわね。どうしたのかしら、キミはとてもうまくやったじゃない。もっと素直に喜んでいいのよ。喜びなさい。喜べ』
何の問題もなかった。
サイの角が伸びて自死する件は嘘です。
そういう逸話は確かにありましたけども。