1_運命
どうぞよろしくお願いします。
システムブート………………エラー
エラーチェック………………失敗
不明なエラーが検出されました。
設定された対処方法に従い、自動修復プログラムを起動します。
バックアップよりシステムの再構築を開始………………エラー
該当の記憶領域の参照に失敗しました。
システムをセーフモードでリブート開始………………OK
………………
…………
……
世界を知覚した。
月が夜空に浮かんでいる。大気によって歪められた光はどれも朧気ではっきりとしない。
それでもこの夜空が記憶にあるものと相違あることは判別出来た。異なる世界か、異なる時代か、はたまた異なる惑星か……、いずれにせよエミュレートされた結果は破棄となる。もっとも、元より虫食い状態で使い物になったかどうかは怪しいところだ。
……己の権能についても確認する必要がある。
かつてのような万能感はない。不完全な形で顕現したのが原因だろう。これは悲観的な考えになるが、自身の行動でなにかを為すというのは諦めておいた方がよさそうだ。
すっと視線を横に向ける。
何より、顕現した理由がそこにある。
魂子番号。霊子番号。因子番号。
……間違いない。
これより私は未知を体験する。
▼
少年はいつものようにゴミ集積場に忍び込んだ。
糧となる鉄くずを手に入れるためだ。手のひらほどの大きさの鉄くずを3つ集めれば硬く焼いた黒パンと直近の配給場所と時間を教えてくれるのだ。その配給が少年の生命線だった。そして硬く焼いた黒パンは大して旨くもないのに不思議と少年の舌を魅了するのだ。
少年が佇むのは無造作に積み上げられたゴミ山のひとつ。ゴミとして捨てられては拾われを何度も繰り返し、そうして行きつく最後の場所。誰にも必要とされない、誰の目にもかからなかった最底が少年の仕事場だった。
少年は非力で孤独だった。割のいい仕事場はより力のあるもの、徒党を組むもの、あるいは善意によって遠ざけられた。少年にはここしか残されていなかった。
少年は躊躇なく手をゴミの山に突っ込んだ。汚れることも手が傷つくことも恐れる様子はない。不衛生な場所での負傷は致命的ではあるが、少年はそれを推しはかるほどの教養が無かった。生きているのはギャンブルに勝ち続けているからで、そう長く続くモノでもない。
「痛ぅ」
何か鋭い物にでもあたったのだろう。反射的にひっこめた指先からは血がにじんでいた。
少年は何でもないように羽織っていたぶかぶかのコートの裾で指先を拭うと、ほうと息を吐いた。気勢を削がれたのか、完全に作業を止めてその場に腰を下ろす。
そして運命と出会った。
うず高く積もったゴミの山。夜空に浮かぶ真っ白な月を背に一人の少女がぼんやりと佇んでいた。月明かりに照らされ青白く反射した艶のあるプラチナブロンド。まるで自らが光を発していると錯覚するように淡く白じんだ薄衣は少女の細いからだのラインを煽情的に浮かび上がらせている。
少年は声も出せず、ただただその神々しいとも例えてしまいそうな少女の横顔に見とれていた。透き通るように白い肌も長いまつげも黄金比とも言える鼻梁も翡翠の瞳も、そのどれもが少年の世界には存在しなかったものだ。
そしてその少女の瞳が、ぼんやりと空を捉えていた瞳が突如として少年を捉えた。少女は横顔のまま目じりを緩め口の端をあげる。擬音にするならにんまり。宗教画のような神々しさが散逸し、少年の日常にありふれた表情へと変化した。
「ねぇ、キミ。何か面白いことやって?」
少年と少女は初対面だった。
しかし、少女から発せられた記念すべき第一声は、対人関係を始めるにあたっておおよそ最悪の部類だった。
最初、少年には少女の言葉が理解できなかった。けれど極限まで集中していた脳は少女の言葉を何度も脳内で反芻した。少年の若いからだは少しの劣化もなく、少女の言葉を再現した。
徐々に追いつく理解。少年の表情が赤くなったり青くなったり忙しくなる。
そしてどうにか言葉を紡ぐほどに思考が追い付く。
「怒らないで。キミの緊張をほぐす小粋な美少女ジョークよ」
「はぁ」
そして少年が怒りに任せて口を開こうとしたその瞬間を狙ったように、少女が寒々しいジョークを飛ばす。少年は出ばなをくじかれ、間抜けな声を漏らすのが関の山だった。
「ふふふ。そういえば私、キミのこと何も知らないわ。ねえ、名前は? SNSやってる? スマホはどっち派? 好きな芸能人は? よく見る配信者は?」
「……名前は」
少女の質問は不可解なものばかりだった。
唯一答えられそうな名前ですら少年には難しかった。何故なら少年には名前が無かった。物心がついてからずっと少年は一人きりだった。誰もが少年を気に留めなかった。いつだってスラムに住む少年の一人で、グループが違う少年で、毎日会う初対面の誰かさんだった。
「ふふふ。ごめんなさいね。実は知ってるの。キミには名前なんてものが必要なかったこと」
少女に言い澱む少年の事を訝しむ様子はなかった。ゴミの山の頂点を蹴って、まるで空でも飛んでいるみたいにふわふわとゆっくり少年の前に着地する。足音は無かった。
「でも今からは必要になる。私がいるもの」
少女が手を水平に真っすぐ差し出す。突き出した人差し指が少年の鼻っ面に突きつけられた。
「キミはエヌ。私はアライメント。これからよろしくね。エヌ」
少年はエヌと名付けられた。アライメントと名乗る少女によって。
少年――、エヌは困惑しながらもたった今貰った己の名を口の中で反芻する。語呂がよいとは思えないが文字数の少なさは覚えやすいなと、そんな安い感想を抱いた。
「エヌがエヌ……。君がアライメント?」
「そ。ちなみに私は電子妖精とかAIとか、そういうカテゴリーに分類される知性体。人間ではないわ。証拠に――」
少女、アライメントの体が前屈し、その分だけ伸びた彼女の指先はエヌの額を貫いてずぶりと埋まる。
「――見ての通り、実体がないわ」
エヌは五指の断面図を視界に映したまま、瞬き一つせずに視線だけをアライメントの方に向けた。視線を合わせたアライメントが悪びれた様子もなくにんまりと笑う。
「そして私アライメントはエヌにしか見えない、キミだけのものよ。この姿もこの声もキミにしか見えないし聞こえない。キミが私の事をどう思っているかは知らないけれど、私にはキミしか話し相手がいないから、キミのことを大切にしたいと心底思ってるわ」
アライメントが手を引き抜きエヌに被さる。しかも今度はエヌの体に重ならないよう、まるでそこに体があるかのように器用にからだを折ってエヌの首を抱く。
「キミは私の事をあまり知らないだろうけど、私はキミの事をよく知ってるわ。こういう言い方は好みじゃないけれど……、キミにかけられたノロイ。さぞかし苦労したでしょう。これまで生きてきたんだもの。何かご褒美をあげなくちゃ。さ、言ってみて。なんだって叶えてあげる」
耳元で囁かれるアライメントの蠱惑的な声色にエヌは腰のあたりから昇ってくるぞくぞくした甘い痺れを知覚する。未知の感覚に思わず声が漏れそうになって、なんとか堪えようとへそのあたりに力を込めた。その拍子に「ぐぅ」と腹の虫が鳴く。無論、エヌのだ。
「ハラヘッタ」
反射的に声を漏らした。
エヌがこのゴミ捨て場に来たのは糧を得るため。もとより空腹が限界に近かったのだ。アライメントとの邂逅で神経が昂り、一時的に記憶の片隅に追いやっていた空腹感。いつ腹の虫が鳴ろうが不思議ではなかったし、次いで漏れたこの言葉もほぼ無自覚だった。
「ふぅん。欲が無いのね」
しかし、それを真正直に受け止める者がいた。
アライメントである。彼女はエヌが反射的に漏らした呟きを問いかけに対するアンサーとして受け取ったのだ。エヌから体を引きはがすと、正対した彼の目をまじまじと覗き込む。
お互いに見つめ合う形でたっぷり一呼吸。事態をようやく理解したエヌの瞳が混乱してぐらぐらと揺れだした。
「え、いや……ちがっ」
「残念。キミの願い事は既に受理されたわ。変更は受け付けてないから」
しどろもどろになりながら、己の犯した失態を取り返そうと言い訳をしようとするエヌに、アライメントはそれはもう上機嫌なにんまり笑顔で切り捨てる。
「自分で言うのもなんだけど、私、これでも神様みたいな力があるわ。デウスじゃなくてゴッドのほうね。それを前にしてご飯奢ってなんて願われるとは思ってもみなかったわ。大丈夫、安心して。天地開闢時点ですべてが決まったこの世に全知全能の力をもって介入し、必ずやキミに満足いく食事をごちそうしてあげるわ。任せて!」
轟と、エヌが見るアライメントの背後で光の柱が立ち上る。
「さあ、チュートリアルの時間よ」
そういって、アライメントは半身を捻り、背後に浮かぶ光の柱へ手を差し出した。