2.私の想い、ですっ
「そう言えば」
「はいっ何でしょう?」
結局蒼汰は妖精という嫁を手に入れたという現実を無理矢理呑み込む事にした。彼の声や動作の一つ一つに反応してパタパタと動かす蝶の様な翅は、淡い虹色に光って彼女の美しさの引き立て役とも言えよう。
「名前、聞いてなかったなぁ、と思って。何て名前なんですか?」
「名前、ですか。これと言った固有名詞は持ち合わせていません」
「それは困ったな」と頭を掻き、一人ウンウン唸る蒼汰。何を期待しているのかその様子を凄く楽しそうに見つめる女性の翅は、先程よりも一層激しく動いていた。
少しして、「よし」という掛け声と共に顔を上げた彼は彼女を指差し、その名を告げる。
「今日から貴女の名前は『エイリーン』、略してエリンだ!!」
決まった、と言わんばかりのドヤ顔で、エイリーンと名付けられた女性を指差す蒼汰だったが、彼は内心「これ絶対馬鹿にされるよな。『ダサッ』とか言われるんじゃ…………」と怯えていた。そんな彼に飛んで来たのはそのネーミングセンスを小馬鹿にした発言、ではなかった。
「エイリーン、エリン……うん、覚えた。では今日から私の事をエリンとお呼び下さい、旦那様っ」
「は、はい………」
大好きなお菓子を貰った子供の様に無邪気に笑うエリンのその仕草に、言うまでも無くドキドキさせられる蒼汰。もちろんエリンは彼好みの性格な訳なので、そうならない方が不自然なのだが。
可憐さだけでなく可愛らしさまでも併せ持った超絶美少女を前に顔を紅潮させてしまう蒼汰だったが、それをごまかそうとしてなのだろう、新たに話題を持ち出してくる。
「あ。え、え~と…………ここ、どこですか?」
「ふふっ、可愛い」
残念、既にバレていた様だ。その事を感じて更に赤面してしまう蒼汰に、それとはまた別の事が気になったのか、
「あのっ、一つ良いですか?」
と今度はエリンの方から質問していた。言ってしまえば彼にとって自分の痴態をごまかす唯一のチャンス、そう考えのか無駄に大きな声で「は、はいっ!」と返事してしまう。…………どう見ても空回っていた。
「それですよ、それっ。どうして私に敬語を使うんですか、旦那様?」
しかしエリンはそれを茶化す事なく、ずっと思っていた事を口にする。本当に気にしていたのだろう、彼女のその真っ直ぐな目線はしっかりと彼の姿を捉えていた。それは彼にとって、いや、彼と同じ様に絶世の美少女を目の前にした男ならほぼ間違いなく皆にとって、答えの出しにくい質問だった。
要するに日本人に向かって「どうして箸を使うんですか?」と尋ねる様なもの。文学的知識の乏しい者にとっては答えられるはずがない。今まさにその状況に立っているのが彼である。
だから20歳・無職・引きこもりゲーマーの三拍子を揃えた彼は彼らしく彼女の問いに答える。
「そういうものだからじゃないですか?」
「え?」
「だって、エリンみたいな美少女に敬語を使うのは、俺みたいな男には義務なんですよ」
「……………いやいや、納得できる訳無いじゃないですかっ!」
敬語はダメですっ!と両手を前で振るエリン。彼女としては怒っているつもりなのだろう、だが蒼汰からしてみれば、ただはしゃいでいる少女にしか見えなかった。
「そもそも、貴方様は旦那様、私はそのお嫁さんなのですよ?
立場を考えて下さい、どう考えても私に敬語を使うのは変ですっ!」
「は、はあ……………でも、俺のいた世界じゃ夫は妻に頭が上がらなくて敬語を使っていたような」
うちの親がそうだったしなぁ。しみじみと懐かしむ蒼汰だったが、エリンの言う事も一理あるのでは、とも思ってしまう。…………ここは異世界、つまり日本での常識は捨ててもいい、と。
「……………いいのか?いや、しかし、俺なんかが」
「何言ってるんですか、旦那様なのですからもっと偉そうにしてもいいんですよ?というか、そういうものじゃないんですか?…………そういう話はよく聞きますけど」
「いや、そこ大事なのでは?」
「うぅ……………で、でも私と旦那様との間では関係のない話ですっ。兎に角、敬語はおやめくださいっ」
「は、はい………あ、いや、わ、分かった………?」
いきなり止めろと言われても、そう簡単に人は言葉使いを変えることは出来ない。それをまさに今体現してしまった蒼汰は慌てて口調を直すが、時すでに遅し。その様子を可笑しく感じてしまったエリンはクスクス笑い声を漏らしていた。
「ふふふっ、旦那様といると本当に楽しいですね♪」
「あ、えっと、そう言ってもらえると嬉しいよ。………それで、俺の質問には答えてくれるのかな?」
「あ、ここがどこかって質問でしたよね?もちろん覚えていますよ、ここは世界樹と呼ばれる場所です」
「そうじゃなくて、この世界についてだよ。こんな場所が地球上に存在するとは思えないし、それにエリンは妖精で合ってる、んだよな?」
まだ少しぎこちなさは残るが、何とか敬語を使わない様に質問をする彼に、エリンはすらすら答えていく。
「そうですね、妖精で合ってますよ。
そしてここは『悠久の塔』と呼ばれている、数あるダンジョンの内の一つ、その最上階に当たる所です」
「……悠久の塔」
まるでその言葉に大切な意味が込められている様に呟く蒼汰。記憶のどこかに存在するその言葉を彼女から聞いた時、彼の脳内では意識の飛ぶ直前のあのテレビ画面が再生されていた。もちろんその単語について何か知っている訳では無い。だが彼の中でその単語が特別な意味を示している様な気がしてならなかった。
「もしかして、悠久の塔をご存じなのですか?」
「あ、いやそうじゃないんだ。ただここに来る前にその言葉を一瞬だけど見た記憶があって……」
「なるほど。でしたら一から説明していった方が良さそうですね。
まず、先程も説明した通りここは”悠久の塔”と呼ばれるダンジョンの一種で、その最上階、つまりここ世界樹はいわゆる”マスタールーム”に当たりますね。そしてこの悠久の塔は現在、旦那様を管理者、マスターとして登録しています」
「マスター?……俺が?」
唐突に受けた”管理人宣告”。これには蒼汰もたまらず声を上げてしまう、が彼女はそれを見透かしていたかの様に即答する。
「はい。未だ機能としては十全ではありませんし、ここを訪れる冒険者や魔物も全くいませんが、それでもいずれ来る敵に備えこのダンジョンの防衛ラインを強固なものにしていかなければなりません。そこでダンジョンマスターと言う存在を決め、その者にダンジョンの全体的な強化をして頂こうというのが全ダンジョンでの方針となっているのです」
「そのダンジョンマスターとやらに、俺が選ばれたと?」
「はいっ。理解頂けましたか?」
彼女の言葉を理解出来ない訳では無い。寧ろラノベやゲームなどで”ダンジョンマスター”というものの事を既に知っている彼にとっては、何ら目新しい情報は無かった。だから彼の気に触れたのはその情報ではなく、その結果だった。
「……あのさ、こういう事を言うのも何だけど自分で何言ってるのか分かってる?」
「えっ?」
「一方的に見知らぬ世界に呼びつけておいてさ、『ダンジョンマスターに選ばれたので敵から身を守る為にダンジョン経営をしてください』ってか?
……自己中にも程があるだろ」
「っ……そ、それは」
「そもそもだ。こういうのは事前に本人の同意を得てから決めるべきじゃないのか?
異世界モノのラノベとかではムリヤリ異世界召喚させられているのに自分の状況に妥協して、挙句の果てに『魔王を倒してきます』なんて言っちゃってさ。どうして皆自分が理不尽な事に巻き込まれているのに諦め妥協するんだよ?」
「えと、その……」
「こっちは元々ただのニートなんだぞ?無能も無能、何も持ってないんだぞ?
そんな状況で自分の命をわざわざ危険に晒せってか?……はっ、自分で言ってても笑えてくる」
「…………」
つい先程まで敬語を使わない事に変な違和感を感じていた彼の姿はそこにはもうなく、代わりに次々出て来る言葉の暴力を何の抵抗も無く吐き出していく彼の姿があった。
蒼汰自身、自分が何を言っているのか分からなかった。ただ体の内から湧き出て来るやり場のない感情をほんの少し表に出しただけのつもりが、いつの間にかここまで膨らんでいた。エリンの様な美少女にこんな暴言を言えば言うほど胸が痛んで仕方なかったが、だからと言って簡単に止められる様なものでもない。
最初の方こそ反論しようと声を出そうとしていたエリンだったが、彼の勢いに次第に飲み込まれていき、黙り込んでしまっていた。しかし彼のある一言によって、その状況は一変する。
「なぁ、どうなんだ?
俺はこの良く分からない場所で、それも全く以て理不尽な理由で命を落とさないといけないのか?
もしそうだとしたらさ……元の世界に帰らせてくれないか?」
「…………」
「ん?何か言ったか?」
「……ゃ、嫌ぁっ!!!!!!」
「っ!?」
彼女が叫んだ。勿論、ただそれだけでは蒼汰が豆鉄砲を食ったような顔をするはずもない。蒼汰の大きく見開かれた目に映っていたのは、その蒼瞳を持つ目から涙を流すエリンの姿だった。
「嫌っ、嫌っ!!!!
もう一人は嫌なのぉっ!!!!」
「ちょ、ちょっと待って落ち着い……ぅおっ!?」
「嫌ぁっ!!!!」
ただただ少女の様に泣きじゃくる彼女に、蒼汰は見て分かるほど困惑した。収まりの付かない感情を漏らす彼女は蒼汰の胸に飛び込み、その激しさを増していく。
「嫌っ!!もう一人は嫌なの!!寂しい思いはしたくないの!!
……お願いだから私を一人にしないでよぉ……」
彼女が何を経験し、何を感じ、そして何を考えているのか蒼汰には分からなかった。しかし彼女の悲痛な叫びは苦しい程に心に刺さり、不快な黒いもやを形作ると彼をチクチクと痛めつけ始める。
蒼汰は何も言わなく、いや、言えなくなってしまい、無意識に彼女の頭を優しく撫でていた。その手つきはまるで今にも壊れそうなガラス品を扱うかの様だった。
「嫌だよぉ……もう一人は嫌ぁ……」
(……言い過ぎた、のかな。いや、だとしてもだ。この子は一体、どんな過去を送って来たって言うんだよ……)
自分の胸元でシクシク泣く彼女に視線をやる彼はふとそんな事を考えていた。その時には既に彼の心の中には彼女に向けられた負の感情は無く、罪悪感と悲愴感、そしてほんの少しの興味で満ちていた。