1.はじめまして、旦那様っ
天高く伸びようとする草々の合間を、颯爽と駆け抜けていく涼風が向かう先には、他の物とは大きさ、色合い、存在感が圧倒的に異なる、神々しさの塊で出来ている様な、そんな”世界樹”と呼ばれる樹がそびえ立っている。
地平線が見渡せるほどの大草原に傘を広げポツリと佇むその巨木の梺の、根と呼んでいいのか分からない程に太いそれの間に、僅かにしか動かない影が2つ重なり合っていた。
「……………」
「ふふっ、気持ち良さそう」
その影の先にいるのは、まるで神話を見ているかの様な、美しいでは言い足りない美貌を持つ女性。水色に近いエメラルドグリーンの髪を風に靡かせ、自分の太腿に頭を乗せぐっすりと寝ている男性の黒髪を優しく撫でる。時には髪を指で梳かしてみては心から楽しいと言わんばかりの笑顔を覗かせる、そうして次は男性の頬をニ、三度突いてみたり……
「ふふっ、本当に可愛い♪」
「………んんっ……………」
「あら、起こしちゃいましたか」
どうやら頬の軽い衝撃で、男性の意識は僅かだが現実に引き戻されたらしく、低い唸り声と同時に顔を少しだけ歪ませる。女性は今度は子供をあやす様に頭を何度も撫で、目が開くのが待ち遠しいという様な表情で彼の顔を覗き込む。男性は頬がくすぐったかったのか片手を突かれた方に伸ばし、少し強いめに掻いてしまう。それのせいで余計に意識が戻ってしまった。
「ん、んんっ……………ここ、は?」
「おはようございます、旦那様」
「お、おはよう………?」
ゆっくりと重たい瞼を開けた男性の目に飛び込んで来たのは、雲一つない空に根を広げる樹と自分の事を”旦那様”と呼ぶ女性。くりっとした綺麗な青い瞳、それに見合うロシア人の様な白肌。意識がまだはっきりしていない内にそんな絵に描いた様な”美少女”におはようと言われ、男性は無条件に反応してしまっていた。
しかし徐々に目が覚め、頭が回転し始めてきた男性は一言。
「………誰?」
「旦那様の嫁ですよ」
「………嫁?」
「はい、貴方様の嫁ですよ」
(あれ、俺まだ未婚だよな………
あ、あぁそう言えば昨日ゲームしてた時に『嫁をくれ』とか寝惚けながら言ってたっけ?
…………分かった、これは───)
「─────夢、か」
「えっ?」
───絶世の美女だと言われてもおかしくない様な美貌の少女が俺の前に居る訳がない、ましてや膝枕?………有り得る訳がない。
彼が夢だと認める事にそう時間は必要なかった。そう言えば昨日のあの寝惚けて言ってた事も夢の中だったっけ、そんな事を考えつつ彼はもう一度目を閉じ、夢の中だけど寝よう、そう心に決め意識を投げ捨てようとする。だがそんな暴挙を彼女が許すはずもない。
「もぅ、何を寝惚けているんですか?」
「…………い、痛っ!?」
名も知らぬ美少女に片頬を抓られ、男性は思わず飛び起きてしまう。そのお陰で男性の目はくっきりと見開かれ、目の前に広がる、緑の絨毯が風で波打つ絶景に目を奪われてしまう。
(す、すごい絶景だ…………
こんなに鮮明に見える”夢”だなんて、現実世界の俺は余程熟睡してるんだろうな)
……どうやら、この男性は未だにこれを現実でないと考えるようだ。決定的な証拠をたった今叩きつけられたのにもかかわらず、こうして呑気に外の景色を眺めている男性の雰囲気からまだ信じていないと察したのか、女性は彼の耳元まで口を近づけて、しっかりと事実を突きつける。
「今、痛いと言いましたよね?」
「え、ええ確かに……………ああっ!?」
「やっと、認めてくれましたか?
ここが現実だって事を」
「は、はい……………」
良かった、と豊満な胸に手を当て溜息を一つ落とす彼女により、今見ているものが現実だと分からされた男は、たった今手に入った情報を元にもう一度思考を張り巡らせる。そうしていくつか聞きたい事をまとめた。
「い、色々と聞きたい事があるんですけど、いいですか?」
「ええもちろんですよ」
「じゃ、じゃあ。
悲しい話ですけど生まれてこの方20年、自分には嫁はおろか彼女すら出来た事はありません。
…………なのに俺の嫁だと言ったのは、どうしてですか?」
「どうしても何も、昨日貴方が口にしたじゃないですか」
「……………え?」
全く身に覚えのない事を指摘され、男性は自分の行動を振り返る─────と言ってもここ3日間はゲームしかしていない、どうやってもそんな事を口にする、いや誰かと会話するタイミングなど、どれだけ鮮明に記憶を呼び戻しても一度も無かった。するとそんな状況を打破するように、女性から一言告げられる。
「忘れたんですか?貴方が言ったんですよ?
────『嫁をくれ』って」
「……………ん?ま、まさか」
ここで彼は気付いてしまう、あの夢だと思ってふざけた発言が現実になっているのではないか?と。だとすれば目の前にいるのはちょっと残念な完璧超絶美少女の俺の嫁、その事実を知った所で彼の脳は完全に停止してしまっていた。
「……………ふ」
「ふ?」
名も知らない美少女嫁が背中から覗かせているそれをパタパタと動かすその光景を見ながら、男性は思いの丈を叫ぶ。
「妖精じゃねーかよぉぉぉぉ!!!!!!」
これが彼の最初にして最後になるかもしれない、記念すべきなのかは分からないが嫁との初対面となった。だがこの時の彼は知らなかった、この彼女が恐ろしいまでの”特別”だという事を……………
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ガコン、という音の後すぐにその場から足音が1つ遠ざかっていく。彼、大川田蒼汰の住む部屋の玄関に投函されたのは彼宛の一通の封筒、裏面の差出人には『お前の飼い主』と、黒マジックで大きく書かれていた。