第一章 始動(5)
今回はいつもより長いですが、楽しんでいただけたら幸いです。
妹の病室を出た俺は脇目も振らずに病院内を疾走する(勿論、病院だから疾走といっても早歩き程度であるが)。
一刻も早く自身が出した結論を確かめたくて、俺はすれ違う人との挨拶も軽く済ませ、病院の出入り口を目指して突き進む。
瑠璃音には悪かったが、事は一刻も争うのである。もしかしたら妹の足が治るかもしれないのだ。医者でも無理だった妹の足を、この俺が。
そう思うと居てもたっても居られなくなったのだ。
興奮が冷めやらず妹の方を強く掴んでしまい、これ以上あの場所に留まる事は危険だということに気づいた俺は、これ以上妹に怖い思いをさせないよう病室を出たのであるが変に誤解させたかもしれない、と今更ながら反省する。
それにしても、まさか瑠璃音の持っている本で思い出すなんて、と俺は未だに驚きを隠せないでいた。
どうして九年間も忘れていたのだろう。あんなに印象深い夢なのに、夢に出てきた少女の顔も覚えているのに、その少女が口にした言葉は靄がかかったように出てこなくて。
まるでそこだけプロテクトされているようであった。それが、何かのキーワードによって解放されたといった具合か。
これは“必然”なのか、それとも“偶然”なのか。
俺は前者のように思えてならない。
瑠璃音が持っていた本が、俺にとっての“キーワード”だったのだ。
こんな抜群のタイミングで、病院勤めの一看護婦が俺の夢にヒットする内容の本を瑠璃音に薦めるなんて、誰が考えてみても“偶然”とは思えないはずだ。
(くっそ、なんで今になって……)
思い出すなら、もっと早く思い出したかった。
俺と妹が過ごしてきた9年間とは一体何だったのか。
あの事故以来、平々凡々だった俺の日常はものの見事に反転し、俺と妹は一般人が送る生活とはほぼ遠い日々を送って来た。
大好きだった両親、妹の歩く機能、そして……、俺の人を愛するという感情。
それらを一気に失った俺たちは、社会や運命に対する理不尽さを体の奥底に溜め込みながら生きてきた。亡き両親の代わりに寿命を全うする、ただそれだけの使命感に近い感情で灰色に染まった9年間を生き続けていた。
俺のこの症状は9年前に俺を診察した医者曰く、
『……う~ん、僕にもよく分からないけどね。恐らく精神的なものか、後頭部に衝撃を受けた外因的なものか。このどちらかとは思うのだけれど。僕は精神的なものからくる症状だと思う。だから、そうだね。時間が経つにつれて改善してくるよ、きっと』
と、診断されて早9年もの月日が過ぎたが、一向に改善する気配がない。
いや、今更他人をどうこう想うなどどうでもよく、唯一の救いは瑠璃音を愛する気持ちを無くさなかった事だけである。
俺はこの気持ちだけずっと忘れずに抱いていければいいのだから。他人に抱く愛情など犬に食わせてやってもいい、と医者にうっかり呟いてしまい、精神科医に診せられたのはいい思い出だ。
まぁ、今はどうにか日常生活を送れるまでにはマシになったが、未だに俺は“友達”や“恋人”を作りたいと思う気持ちが湧いてこない。それどころか眼中にすらない。
別にいなくても困らないし、いても面倒くさいだけだと判断しているからだ。
そんな俺を周りの奴らは“淋しい奴”や“ボッチ”と呼ぶが、俺にしてはむしろ誇らしい気持ちになる。俺たちに近づいてくる奴らは皆“同情”や“憐れみ”を抱いている奴ばかりで、事故の犠牲者である俺たちに優しくして己の心を満たしている偽善者ばかりなのだ。
俺だけならまだしも妹にそんなさもしい奴らの標的になるのは我慢ならない。
だから、俺は瑠璃音の障害になる奴は、どんなことをしても取り除く。
今までも、そしてこれからも。
だから、まずは瑠璃音の自由を奪っている“両足(障害)”を。
最早これだけは取り除くことは出来ないと諦めていたが、苦節9年。
ようやく止まっていた時間は動き出した。これはチャンスである。
この機会を逃す手はない。
今行動しなくては、この様な好機は二度とない気がする。
その為にはいろいろと下調べが必要だ。
そこで俺は夢の内容を思い出すキッカケとなった本の作者を調べるべく家路へと急いだ。
俺の自宅がある三条町と瑠璃音が入院している病院がある田根町はそう遠くはない(まぁ、同じ七倉市に含まれるのだから当然ではあるが)。
自宅近くにも病院はあるのだから、そこに入院した方が看病も楽ではないかという声も上がったが、生憎この病院は大手が経営している訳でもない、個人が経営しているような小さな病院だったので、妹にはいい環境で治療に専念してもらいたいということもあり、七倉市でも有数の病院で診てもらっている。
その甲斐もあってか、瑠璃音には何の不自由もなく入院生活を送ってもらっており、彼女曰く『ここの入院食は美味しい』とのこと。
うん、ここに決めて良かったと改めて思わされた一言だ。
ま、それはさておき。
俺の自宅は9年前から変わらず、唯一両親との思い出が詰まった場所でもあり、俺はいつか瑠璃音が退院して一緒に暮らすその日まで、ここを守っていくと固く決意した。
『ここを売って、別の場所に住めば?』
などという心無い声もあったが、どう言おうと俺たちの心が変わることもない。
ここ以外に俺たちが安息できる場所はなく、どこにも居場所がないのだから。
数本のバスを経由して数十分。
逸る気持ちを宥めつつ、入り組んだ路地を多数取り込んだ住宅街を早歩きで進み、住宅街の中腹にヒッソリと建つ一軒家にたどり着いた。濃い赤色の屋根が少し風雨に晒されて錆びついた様は年代を感じることができた。
それもそのはず。この家は父方の祖父が上京した際に建てた家で、俺たちは代々この家に住んでいる。確か築60年になるはずで、少々ぼろいのが難点であるが、ローンなどは支払い済みという事なのでその点ではあり難かったのはここだけの話だ。
まぁ、こんな家でも住めば都というべきか、と俺は苦笑しながら家の門扉を潜り、無人の家の中へと入る。
ただいま、と言っても、それに応えてくれる人はいない。
しかし、それを淋しいと思うことは無くなった。いや、感じなくなったという方が的確であろうか。
これが日常に組み込まれればなんてことはない。
そう、俺の心がこれ以上壊れないように、俺の脳が勝手に感情を書き換えているのかは分からないが、ここ数年前からその様な感情を抱かなくなったのも事実である。
(これも、慣れなのか。……人間って怖いな)
と、自嘲気味に嘲笑を浮かばせ、半開きになっていた玄関の戸を閉めて施錠する。それから自室へと早々に引っ込んだ俺は飯を食う時間も惜しいとばかりに机に噛り付き、旧型のノートパソコンを立ち上げた。
ヴゥゥゥンと低い羽音のような起動音が響き、シンプルな画面のデスクトップが映し出される。俺はマウスを動かし左上のインターネットアイコンをクリックし、インターネットを起動させる。
それから慣れた手つきで妹の本のタイトルを打ち込み検索してみると、驚くほどの件数がヒットした。
これを全部確認するのは流石に時間がかかるので、とりあえず本の感想などのサイトは除き、この本を取り扱っている公式サイトをチェックすることにした。
すると思いの外あっさりと作者の名前と出身地が判明した。
「……エカトリーナ・F・カルティーン。出身地はフランス、か」
外国人なのか、それに名前からして女性だよな。
まぁ、女の子受けする文章なのだから、女の人が書いていても何ら不思議ではない。むしろ同性の方が狙った文章が書ける気がする。何しろ同じ女同士。感性は似たり寄ったりだろうし。
俺はサイトに書かれた文章を斜め読みし、読了後しばし黙考する。
(……話の内容はよくあるような、ありきたりな物だが、なんだろう。こう、胸に引っかかるような、何故かすごく気になる。特に、この文章)
俺はあらすじに書かれたとある一文をドロップし、
「―――――――魔女たちは、誰にも侵されないユートピア(安全地帯)から、人間たちに復讐すべく彼らに“契約”を持ち掛け、その代償に“呪い”をかけて、その人の大事な物を奪う。かつて、自分たちがされた時の様に」
“契約”か。
もしや、あの事故の時に頭に響いた声は、この“契約”を迫っていたのではないか。それで俺はその代償に“愛する心”を、妹は“歩く自由”を奪われたという事か。
なるほど、それならすべて当てはまる。
瑠璃音は小さい頃から走るのが大好きで、将来は陸上選手になってオリンピックに行くことが夢であるとよく口にしていたから、両足の麻痺は彼女にとって死ぬのと同等に苦しい事であろう。
なら、“俺”は?
生憎だが、俺の“愛する心”など、別に今更失っても困りはしない。心など目に見えない不確かなものだ。実際、心などないとまで言われているくらいなのだ。あんなのは脳が発する電気信号に過ぎない。
難しい事を言うようだが、まぁ、要するに“生きていくのには別に困らない”ということだ。
そりゃ、他人を愛さなきゃ一生一人ぼっちだが、俺には妹がいる。
たった一人の肉親がいる。それだけでいいではないか。
他人なんか、不必要なのだ。
しかし、妹の為にはこのままではいけない。
この現状を打破するには、行動するしか他はない。
なら、俺がすることは只一つ。
俺はマウスのカーソルを右上に這わせ、何の迷いもなくクリックした。
―――――あれから数日が過ぎた。
これといった進展はなく、今俺が行っているというのは……。
フランス語の勉強と短時間の休日限定のバイトであった。
ユートピアがいったい何を指すのか分からないので、まずあの絵本の作者に会いに行くのがいいと結論付け、彼女との会話に不都合がないようにフランス語の勉強を開始し、フランスへの旅費を稼ぐために高収入のバイトを始めたのだ。
父親の知り合いで旅行会社に勤めている人がいるのを思い出したので、その人に便宜してもらってだいぶん安くはしてもらったつもり。その人が言うには大体8泊10日で20万前後かかるという。
海外旅行で、しかもヨーロッパでずいぶん格安だと思ったが、学生というのもあり短期留学という形で手続きしたらしい。留学生なら安くなるのかは分からないが、まぁ、ホテル代とかがいらない分安いのかもしれないと一人納得した。
まぁ、何はともあれ最低でも10万は稼がないといけない。両親の生命保険があるとはいえ、あまり私用で無駄遣いは出来ないからだ。お金にも限りはある上に、まだ学生の身ゆえに入院費をそこから捻出せねばならない。
入院費も馬鹿にならない。この九年間で両親の生命保険金も半分近く使ってしまった。
せめて自分が高校を卒業するまではもたさないといけない。
それにいきなり数十万単位のお金は使えないし、自分のために使うのならば妹の二か月分の入院費に当てた方がよほど理に適っている。
でも、半ば半信半疑な自分がいるのも確かだ。
仮にフランスに行ってその本の作者に会えるかどうかも分からないし、ユートピアへの謎が解けるのかも定かではない。
結局行っても無駄になるのではないか……、そう思えてならない自分がいる。
けど、今はこれしか思いつく方法はない。
あぁ、折角なら本の作者が日本に来てくれたらいいのになぁ……。
たとえばサイン会とか――――――。
「ねぇねぇ聞いた? “魔女ユー”のエカトリーナ先生が来日するんだって!!」
「えっ!? それ本当? どこソースなのよ?」
「ナコ掲」
「え~、それ信用できるの? あそこの掲示板さ、嘘も多いことで有名だし」
「私もそう思ったんだけど、確からしいよ。何でもサイン会で全世界を回っているらしくて、さっきホムペ見たら新着ニュースが更新されていたから」
「どれどれ……、あっ!! 本当だ!! うっわ~、すごく嬉しい。わたしあの本の大ファンだからさぁ」
「私も!! ねぇ、サイン会に行く? 確か渋谷のパルネであるらしいよ」
「行くに決まっているし!! ねぇ、後で麻巳子たちにも教えてあげようよ」
と、驚きに目を見開けて固まっている俺の傍を、女子大生二人組が談笑しながら通り過ぎていく。
(な、何だって~~~~~~~~~~!!)
まさに寝耳に水であった。
その話が本当ならば、フランスに行かなくてもいいのでは。
俺は彼女たちの会話が嘘でないか、すぐさまスマホを取り出して公式ホームページを調べてみる事にした。
すると、確かにエカトリーネ先生が日本に来る旨の記述が記されており、日時や場所もはっきりと記載されていた。
「なになに、えぇ!! 明後日じゃねぇか!! 時間は……、午後二時か」
バイトも終わっているし、サイン会に行っても十分に妹の見舞いにも間に合うな。
これなら渋谷までの電車賃とサイン会に必要な原作本を買うだけで済むから、充分俺のバイト代だけでお釣りが来る。
それに時間制限はあるものの人数制限はないので、早めに並んでいれば確実に会える。そこでフランス語で話しかけてみて向こうが応じてくれれば万事OKだ。
まぁ、そんな上手く事が運ぶか分からないけどやってみる価値はある。正直に言って旅費を貯めるまでに最低でも一年はかかる予定だったので、これは神様がくれたチャンスだと思って頑張らないと。
俺はフンス、と鼻息を荒くして気持ちを高ぶらせると、明日の下準備をしに最寄りの本屋へと駆け込むのであった。
駅から徒歩二分ほどの距離にある大手本屋“枝折書房”へとやって来た俺は、とりあえず妹が持っていた本を買おうと、レジ前に設けられているメインディスプレイへと向かう。
特に深い理由はないが、サイン会を開催するほどの人気作ならば大々的に宣伝されていると踏んだからなのだが……、うん、読みはあっていたようだ。
案の定と言えばいいのか分からないが、彼女の本はドドーンと登場人物の等身大看板に挟まれる形で台一面に平積みされており、そこにはスタッフの手書きで“今期一番のお薦め小説!! 泣けます!!”とピックアップされていた。
その本を手に取るのは女性ばかりで、パラパラと本を捲っていてはレジへ持っていき会計を済ませていく。即買い、という表現がピッタリだ。
(えっ? 何、その本そんなに面白いのか? 正直言って俺が読んだときはそこまで思わなかったけどな……)
と、思いつつも本を手に取る俺。文庫本ならではのズシリとした重みが腕に来る。
やはり男の俺がこの本を買うのが珍しいのが、周りにいた女性客がにわかに騒めき始め、勝手な憶測で盛り上がり始める。だから女は苦手なんだ。
気恥ずかしさも相まって俺はそそくさと会計を済まし、サッサッと店を出ようと顔を伏せて歩き出したその時。
「――――――きゃッ!!」
肩に何かが当たる音がして、ついで鈍い衝撃が肩から全身に広がり、一拍の間を置いて女の悲鳴が響く。
どうやら女の子に当たってしまったようだ。前を向いて歩かなかった俺に一方的に非があるので、ここはぶつかった相手に謝罪しなきゃ、と俺は倒れた女の子に手を差し出す。
「あの、大丈夫で――――――、す、か……」
息も止まるというのはこういう状態の事を指すのだろう。
現に俺は2~3分ほど呼吸するのも忘れて、眼下に尻餅をついて俺を見上げている少女を見下ろしていたのだから。
――――――まるで妖精のようだ。
タイルの床に波打ちながら広がるフワフワの金髪に、フサフサのまつ毛が覆いかぶさった大粒の碧眼、形の良い筋の通った鼻梁、小粒でプルンとした唇、象牙の様に白い肌。
まるでこの世に存在しないであろう美少女に、俺だけでなくこの場にいた人間は一斉に色めき立つ(八割は男だが)。
「―――――Est... qui a dit ; déjà ! J'ai été surpris !!(いった~、もう !! ビックリしたじゃない !!)」
フランス語 !! この子はフランス人なのか !!
えっと、このくらいなら分かるぞ。明らかに文句を、言っているよな?
ここはフランス語で謝った方が良いのかな? と俺がしどろもどろになっていると、女の子がいけないとばかりに口を塞ぎ、コホンと咳払いすると。
「ちょっと、アンタ。何ポカンと見ているワケ? 早くアタシに手を貸しなさいよ」
今度は流暢な日本語で話しかけてきたので、俺は我に返って慌てて少女を助け起こす。柔らかな少女の手の感触にドギマギしつつも、どうにか無事に少女を立ち上がらせることに成功した。
「ふぅ~、ったく。アンタさぁ、もう少し気を付けなさいよね。もしぶつかった相手がジャパニーズヤクザだったら、今頃ドラム缶に入れられてコンクリ詰められて横須賀湾の底よ、アンタ」
「……漫画の内容鵜呑みにしすぎだろ。それになにその偏ったヤクザ知識 !!」
「あれ、違うの? オカシイな~、友達に聞いたヤクザの落とし前の付け方の基本らしいんだけど……、あぁ !! そうか !! 指を詰める方ね !! あっちの方が痛そうでアタシは嫌だな~」
この子なに !? 聞かれてもないのにヤクザについて延々と。彼女の容貌に憧れていた人たちも急に視線を逸らしてそそくさとその場を離れる始末。
なんか変な奴に関わってしまった、と俺も泣きたい気分になる。出来る事なら俺もあっち側になりたい。一刻も早くこの場から離れたい。
しかし、ヤクザオタク? 少女は俺を離す気はないのか、嬉々とした表情でヤクザの素晴らしさをマシンガントーク張りに話しかけてくる。
しかし、このままでは俺も変人の仲間入りを果たしてしまうし、何よりここは一目がありすぎる。
俺は少女の腕を捕まえて猛スピードで本屋から退却する。
これ以上生き恥をさらしたくなかった。
それに、一人で逃れられないならば一緒に逃げればいいだけの話だ。
女の子を連れ回しているという状況は、正直自分自身でも犯罪行為寸前なのではないかと思うが、この際強硬手段を取るしか俺に生きるすべはない。
犯罪者まがいの凶悪面を浮かべながら、俺は猛然と女の子の手を引きながら、なるべく一目がない場所まで人が行き交う歩行者道を走り抜ける。
その間も女の子はピーチクパーチクと発情期に差し掛かった小鳥の様に口煩く喋っていた。
ったく、少しは黙るという言葉を知らないのか、とさっき会ったばかりの少女に殺意の波動を抱く俺。
にしても最近の外国人オタクは何にはまるか分からねぇよな……。まぁ、人の好みは千差万別というし、そこを差別するつもりはないけど、やるなら一人でやってほしい。無関係な人間を巻き込むのは正直止めてほしい。
好きな物を他人に薦めるという気持ちも分からなくはないが、それも行き過ぎるとただただ迷惑なだけなのだが……、残念ながらこういう手合いは遠慮というか慎みというのを知らない。
特に自分の話に乗ってくれた相手には、ここぞとばかりに叩き込むのだ。自分の“オタク(マイ・)趣味”を。
悲しいかな、それがオタクの性なのだ。
フランスオタク美少女の熱きトークを聞き流しながら、走り続けること数十分。
俺は数キロほど離れたあまり人通りのない裏路地の一角に潜り込んだ。ここはちょうど行き止まりになっているのと、夜開店の居酒屋の裏という事もあり、ここを訪れる人は少ない―――――、というかいない。
なので、人目も気にせずゆっくりと話し合うにはうってつけの場所なのだ。
俺は荒い呼吸を数回繰り返した後、目の前に立つ少女へと話しかけようと口を開くも、先に声を上げたのは、
「ふぉぉぉぉぉぉぉ !! ここがジャパニーズウラロジ !! ここでいたいけな美少女の多くが卑劣な男に暴行され、泣いても喚いてもその暴行の手が止むことはなく―――――。ふふ、漫画のとおりね !! 全身が厚く滾るわぁ~~~~~~~。Ktktktkt !! これから、私はこの男に欲望のままここで「ちょ、ちょい待て !!!!!!!」―――――何よ、いいところで水差して」
目を興奮と期待でキラキラと輝かせたアクセル全開の少女であった。
つうか何を口走ってくれやがりますかね、このオタクは。
一歩間違えたら俺が性犯罪者確定ばりの発言をかましてくれやがって。俺はそんな鬼畜野郎じゃねぇし、そもそもそういうジャンルは興味ないというか、アウトオブ眼中というか、そもそも射程範囲外だし !!
まったくこいつ頭のネジ飛んでいるんじゃねぇーのか? 常人の思考回路じゃおよそ思いつかないような妄想を繰り広げるあたり特に。
しかし、このフランス美少女(笑)は俺の冷めた視線を意に介さず、涎を垂らしながら嬉々とした表情で俺の肢体を弄るように上から下へと遠慮なく視線を這わしていた。
何、この人怖い。
8年前に抱いた別の恐怖心が俺の全身を貫き、まるで痴漢に遭遇したいたいけな少女の様に全身を掻き抱いて後ずさりする。
だが、少女はまるで草食動物へと狙いを定めた獅子のように、俺が下がった分だけの距離を瞬時に埋めてくる。
(こ、こえぇぇぇぇぇぇぇぇぇ !!!! なに、こいつ !? さっきの動き人間業じゃねぇよ !!)
どこかの忍者マンガの主人公ばりの身のこなしに戦慄を覚えた俺は。本能的にこの少女に得も言われぬ恐怖心を抱き、空っぽの胃から猛烈な勢いで吐き気が食道をせり上がってくるのを感じた。
しかし、人前で吐くわけにもいかないと、俺はなけなしの男の見栄でどうにか吐き気を堪え、眼前でムカつく笑みを浮かべている美少女を睨みつける。
だが、少女は俺の眼光に怖気もせずに、フッと乾いた笑みを貼り付け、
「……短気だねぇ~、少年。こんなのは冗談じゃないですか~。ほら、よく言うでしょ? いわゆるブラックジョークというやつで、そんなに深い意味はないから」
まるで人をおちょくるようなセリフに、俺は激しい苛立ちを覚えてしまう。こんなことは初めてだ。見ず知らずの、それも年場のいかない少女の発言に怒りを覚えるなど、今までの俺なら軽くいなせれたはずなのに、どうして?
俺が理解不能と言った体で立ち尽くしていると、少女はケラケラと渇いた笑い声を上げて、自然な動作で俺の胸にトンと人差し指を置いた。
「……君さぁ、ユートピアを探しているんでしょ?」
「 !? なぜ、それを知っている? アンタは何者なんだ?」
いきなり核心をついた言葉に俺は気色ばんだ。ふざけていたかと思えばこの真面目な態度。俺はさっぱり分からなくなってしまう。
「何者? そうねぇ、君が持っている本の関係者って言った方が早いかな~」
勿論、聡い君の事だから分かるよね? と言わんばかりの視線を向ける少女に、俺は緊張で渇いた喉を潤わすために生唾を飲み込む。
「じゃ、じゃあ、アンタは……、本物のエカトリーナ・F・カルティーンなのか?」
俺は震えた指で彼女を指差すと、名前を呼ばれた少女―――――、エカトリーナ・F・カルティーンは不敵に微笑んで見せた。
俺と対峙したフランス美少女―――――、エカトリーナは腕を組みながら呆気らかんとして立ち尽くしている俺を見上げて、恐ろしい程に整った美貌を悪戯に歪ませながら口を開く。
「そうだよ、アタシがあの有名な作家エカトリーナ・F・カルティーン様よ。どう? 驚いたでしょ?」
「あ、あぁ……。まさか、あの売れ子作家がこんな――――――」
俺の驚きに満ちた呟きに満足そうに目を細めて頷いていたエカトリーナであったが、次に発した俺の言葉を聞いた瞬間に彼女の表情は能面のように固まった。
「―――――――変態オタク少女だったなんて」
「……あぁ? 今なんて言ったクソガキ?」
「だから、変態オタク少女だったなんて―――――「ふんっ!!」ぶぼふぁ!!」
と、俺は促されて口にした言葉を最後まで発することが出来なかった。
理由は簡単。
あのオタク女に腹パンされたからである。人間の急所とされるみぞおちを、ピンポイントかつダイレクトに。
男でもアソコを蹴りあげられる以外にも涙が出て蹲るほどの激痛な上に、こんなか弱そうな見た目の少女にやられたとあれば精神的ショックも大きかった。
痛みで満足に呼吸が出来ず喘いでいる俺を、まるで汚物でも見るかのように見下ろしたエカトリーナは、
「ふん、口には気を付けなさい。えぇ、そうよ。アタシはオタクよ。それも筋金入りの。それもジャンルは問わない悪食の。日本が好きなのもオタクの聖地だから、サイン会するなら絶対ここって決めていたし」
「……開き直るのかよ。ったく、サイトで紹介されていた人物像とかけ離れているな、全く」
「まぁ、あれは営業用の顔だから。ファンには夢を見せてあげるものでしょ? 歌のお姉さんは酒もタバコもやりません的な? ほら、特にアタシの場合は小説家と言っても絵本作家でもあるから、世間体とかも気にしないといけないのよ。お淑やかな美人作家を演じなきゃいけない重圧で、この世界にドップリとハマったというわけ」
それも一理ある。
憧れていた作家がこんな変態オタクと知ったら、あそこまで本は売れてなかったと思う(なんか女子はその辺気にする人は気にすると思うし)。
それにしても、ホントにこれがあの“魔女ユー”の著者なのか? こいつが俺の、俺たちの救世主たる人物になるのか?
そりゃネットでの情報を鵜呑みにするほど馬鹿ではないが、にしても普通こんなにアクが強いとは思わないだろう。いや、逆にこういう職種の人間の方が我が強いというが、個性全開というか、まぁ、常識人ではないのは確かであろう。
俺たちとは違う次元の生き物だからこそ、こうやって世の中に残るものを想像できるのだろうから、多少の事には目は瞑りたいとは思うのだが……、まさかこんなに残念な奴だとは思わなかった。
こんなの詐欺じゃねぇか。
外見で釣っておいて、いざ蓋を開けてみたら中身は腐っていた高級果物よりタチが悪い。
出版会社もよくこんな変態の本を出す気になったよな……。あれか、美少女で確かな文才があったら、この際変態でオタクでも構わないってことか。
ある意味博打だな、と俺は出版社の度胸に賞賛を送りたくなった。
俺なら絶対こんな奴の本を売り出す事もなければ、一読者として本を購入して読むこともない。どれだけ文才が優れていようが、目も覚めるほどの美少女だろうとだ。
あの人間性を知れば誰だって……、いやごく一部の人間は興奮するかもしれないが、俺は断固として関わりたくない、とハッキリと答えるだろう。
それだけ彼女の存在は俺に強烈なインパクト(最悪な意味で)を与えた。
「で、この際アンタが末期のオタクだろうが俺には関係ない。むしろ、サイン会に行かずにアンタに会えた幸運を祝いたいぜ」
「なに格好つけて言っているのよ。お腹押さえて、まるで生まれたての小鹿みたいに両足をプルプルさせて立ち上がっているクセに」
「うるせぇ。そもそもこうなったのはお前のせいじゃねぇか。とにかく、単刀直入に聞きたい。俺にはあまり時間がねぇんだよ」
主に便意がMAXで。
あいつに腹パンされた衝撃で、俺の腹は今にもダム崩壊間近って感じに切羽詰まっており、一刻も早くトイレに駆け込まないと、俺は美少女が見ている前で公開脱糞する事に!?
それだけは避けなければ。
特にこいつの前で醜態をさらすわけにはいかな……、ぐぉ、ぉおおおおお。マジでヤバくなってきた。早くしなければ。
「時間? なに、どうしたの? 顔が真っ青だよ?」
「お、俺に触るなぁ!! 今、俺は爆弾を抱えているような状態で、ゔ、ゔぉ~~~~」
ジリジリと後ずさりし、エカトリーナが迂闊に俺の体に触れない距離まで離れ、少しだけ体を前のめりにして腹痛を耐える。
「ちょ、本当に大丈夫なの? 明らかに尋常じゃないよね? どこか痛いんじゃ……」
「い、痛くなんかねぇし!! 気のせいだし!! ほら、いいから早く答えろよ!! ユートピアは、本当に実在するのか、しないのか。答えは二択だから、考えるまでもねぇだろ」
そう。早く言え。これだけ簡潔明瞭な問いはないはずだ。
「はい」か「いいえ」を。
たったそれだけを口にすれば、俺は一刻も早くここから離れて、安全地帯へと―――――。
しかし、当の本人はまるで言うのを躊躇っているのか、口をモゴモゴさせて顔も俯きがちに。先ほどの傍若無人な態度はどこに行ったオイ。
今更純情乙女を演出してんじゃねぇよ。こちとら瀬戸際なんだよ。
俺の苛立ちが伝わったのか、エカトリーナは漸くきつく閉じていた口を開いた。
「―――――ユートピアは、実在するわ。あれは、空想上の話じゃない」
そう言い終えると彼女は、俺の持っていた本を奪い取り、愛おしそうに本の表紙を何度も手のひらで擦る。
(ふぉ!! 今の衝撃で危うくちびる所だったぜ!!)
ひやり、と冷や汗が流れ落ちる。危機一髪とはまさにこの事だ。
俺の緊迫した状況を他所に、エカトリーナは本を撫でさするのを止め、妙に真摯な瞳で俺を見据えてきた。そこには先ほど浮かんでいた明るい感情の色はなかった。
「この話はね、アタシの家に古くから伝わる話を基にして書いたの。だから、これは要するに――――――」
「要するに?」
「―――――――実話、と言った方がいいのかしらね」
―――――――――はい? 実話? 実話って、ノンフィクション?
まさかないない。ありえない。
魔女とか異世界とか、そんなのフィクションでしかありえない世界観であり、昔行われていた魔女狩りとかで処刑されていたのも普通の女の人だということは、随分前に科学的にも歴史的にも証明されているし。
俺は腹痛も便意も忘れてエカトリーナの衝撃発言の真意を、必死に頭の中で整理し追及していた。
しかし、どうもこう決定打には至らない。
まさか、本当に?
俺は生気の抜けた表情で彼女を見返す。
すると、エカトリーナは申し訳なさそうに瞼を伏せ、
「―――――――そう、ユートピアが、魔女が誕生したのは、アタシの先祖のせいでもあるの。貴方、魔女の“契約者”なのね。可哀想に」
事の状況を全て把握したかのように、実に申し訳なさそうに俺に向かって謝罪の言葉を口にする。
俺はこいつの先ほどのふざけた様子から一変したしおらしい態度に面食らうも、その前にエカトリーナが口にした言葉がグルグルと頭を回って離れなかった。
『―――――ユートピアが、魔女が誕生したのは、アタシの先祖のせいなの』
……いったいどういう意味だ。
こいつの正体は、一体?
俺は胸の中が騒めくのを感じながら、これから起こる得体のしれない恐怖に怖れを抱き、爪の先が肉に食い込んで血が滲むまで両手を握りしめたのだった。