第一章 始動(3)
教室を出た俺の背後では、何やら泣き始めた彼女を慰める女友達の姿が窓ガラス越しに窺える。
今がチャンスと思ったのか、周りにいた複数の男子が田辺の周りに群がり、猛烈なアピールを開始する。その様は飴玉に集る蟻の様であった。
恐らく傷心の彼女を慰めれば、自分の方に彼女の気が向くかもしれない、という淡い期待からなる行為なのだろう。
十代後半の多感な男にとって美少女を彼女にすることは、ある意味で一種のステータスのようなものなのだ。お金をたくさん持つのと同等の価値がある、といっても過言ではない。
むしろ、お金と違ってハッキリと目に見えるもの故に、高校生男子の身としてはお金より価値があるのかもしれない、と他人事のように分析する俺。
気が付けば、もう自分の下駄箱の前まで来ていたようだ。
(ふむ、考え事をしていると本当に早いな)
下駄箱特有の古びた木と土が混ざった匂いを嗅ぐこと約1分。
下駄箱の前でジッと突っ伏したまま靴も取らない俺を、通りすがりの生徒が怪訝な表情を浮かべて見つめながら正面玄関をくぐって行く
(なるほど、ここは人の目が集まりやすいな)
俺だって、普通下駄箱の前で靴も取らずに突っ立っている奴を「変な奴」と、ジロジロと無遠慮な視線を投げかけるだろうし、気にはなるけど深くは関わりたくないと思う、というか百パーセント無関係でいたい。
それに……、あまりここでグズグズしていたら田辺を含む女子ズに見つかって、「どうしたの? 妹さんの看病に行ったんじゃなかったの?」と口煩く詰問でもされたら厄介になることは目に見えている。
そこまでに女の誘いを断った男の末路は恐ろしいのだ。女という生き物は徒党を組んで行動するからして、仲間が傷つこうものなら群れを組んで加害者をコテンパンにのしてしまうほどの、凶暴すぎる本性をその小さな体の内に秘めている、ある意味男より恐ろしい生き物なのだ。
現に、同じクラスにいる女子の中心メンバーである田辺を泣かした俺は、相当風当たりが強い(強いどころじゃなくて猛烈かもしれないが)。
で、あるからして。
こんな恐ろしい巣窟からはとっとと脱出せねば、と気の弛んだ頬を二、三発ほど叩き、喝を入れると、俺は長年愛用してきたランニングシューズを手に取り、少し乱暴な足つきで靴を履く。
靴の先端が泥で薄汚れて、全体的に表面の靴革がナヨッとくたびれているが、そこがまた哀愁を誘うというか、妙に愛着がわいて捨てるに捨てきれないのだ。
「ま、昔から使い慣れた物が一番、ってな」
トントン、つま先を溝が幾重にも走ったセメントタイルに軽く叩きつけ、完全に靴の中に己の足を収納する。
うん、やっぱり心地よい履き心地だ。
「と、もうそろそろ時間だな」
俺は腕にした古びた年代物の腕時計が差す指針を見て、病院に行くバスが来る時刻に気づく。
(今から走ればバスが来る前にバス停に着くかな)
俺の百メートル走のベストタイムは十五秒ちょっと。
校門から約400m先のバス停まで走るのに、体力が持てば1分半~2分過ぎくらいで到着するはず。
それで、今の時間が15時25分で、バスがバス停の前を通る時間がその3分後。
うん、頑張れば乗れないことはない……、かな。いや、必ず乗らないと駄目なのだ。
病院では俺の愛しい妹が首を長くして待っているはずだ。
と、“妹が待つ病院へ行くための最短ルート”をたったの5秒ほどで叩き出し、考える暇もなく即決した俺はスゥーと大きく息を吸い、体中の二酸化炭素を吐くほど深い深呼吸を行う。
体中に余分過ぎるほどのエネルギーを巡らせた俺は、両目が火花を迸せると、
「よし、そうと決まれば、後は走るのみ、だ!!」
人目も憚らず咆哮すると、目的地まで脇目も振らず奔走したのであった。
けたたましい程の熱気と叫び声を上げながら学内を疾走する俺を、一体何ごとかと目を見張る学生たち。
しかし、その勢いに押されたのか、それとも危険人物と認定したのか、俺が近づく前に慌てて道を譲り、視線を合わせないように明後日の方向を向く人が続出した。
何だかいい気分はしないが、急いでいる身としては有難い事なので、特に意識もせずに突発的に出来た道を走り抜ける。
ドドドドドドドッ!! と盛大な土煙と地鳴りを伴いながら校門を駆け抜け、競輪選手も真っ青な直角90度の右折に差し掛かるも左足を軸にして華麗にライトターン。
そのまま勢いを殺さずに、400メートル先のバス停まで猛ダッシュ。
こんなに真面目に走ったのはいつ以来だろうか。
記憶を思い返してみても、該当する思い出は何一つない。運動会でも、体育祭でも、マラソン大会ですらもこんなに真面目に、一生懸命に走ったことはない。
あれは、そう。体裁を保つために“ただ”参加していただけ。
皆と同じ行動をしていれば、多少不真面目にしていても目立たないから、などという不謹慎な下心で参加していたと、幼心ながら悪ガキだったと思う。
だからか、何かに“一生懸命”になるという事を知らないでいたのに、今の俺はその気持ちが痛いほど理解できるのだから、何とも皮肉な話ではないか。
それでも、その方がいいと思える俺がいる。
そう心から思えるからこそ、こうして息も切れるほどに、ただただ本気で走っているのだから。
額から流れる汗が慣性の法則で後方へと流れてゆき、キラキラと光を浴び始めていく様は何とも気持ちのいいものだ。
俺は視界に小さく映るバス停に焦点を定め、「あと少しだ!」と、鈍い痺れが出てきた両足に喝を入れてラストスパートを入れる。
ハァ、ハァ、ハァ。
短くて荒い呼吸が俺のだらしなく開いた唇から零れ落ち、体力も限界に近かいどころかバロメータを大きく振り切れて-を示していた。
少しでも気を抜いたら、その場にへたり込んでしまう程に体力を消耗していたが、それでも俺はただ一心に“妹に会いたい”。
ただそれだけの思いをバネにして、疲れ果ててボロボロの体を動かしていた。
あと、数m。
3m、2m、1m―――――――――――、その横を無情にもバスは通り過ぎようとしていた。
あぁ、もう駄目か。
俺が走るのを止めようとしたその時。
通り過ぎると思われたバスは低いブレーキ音を響かせて、バス停に停車したのである。
一体どうしたんだろう? と、俺は苦しさから涙で滲んでまともに見えない視線を、バスが止まるバス停へと向ける。すると、そこには涼やかな美貌を持つ少女が手を挙げて、バスの運転手に二言三言呟いていた。
どうやらあの女の子が走っている俺に気づき、バスを止めてくれたようだ。なんて親切なのだろう。
しかし、あんな女の子さっきまでバス停にいたかな?
まぁ、そんなつまらないことを考える暇があったら走らなきゃ。待たせている娘に悪いし、と俺は最後の力を振り絞って走力を上げる。
色々な水分を汗と涙に代えて体外に放出しながら走り切ること数十秒。
ようやくバス停へとたどり着いた俺は、両膝に手を置いて荒く息を吐き、体内に溜まった疲れという名の不純物を排出している真最中であったが、あまりモタモタするわけにもいかない。
何せこちとら待ってもらっている身分だ。
俺は2回ほど深呼吸して息を整えた後、俺が来るのを待ってくれていたバスの運転手と、バスを止めてくれた女の子に礼を述べ、車内へと一緒に乗り込んだ。
俺たちが乗り込んだのと同時にプシュゥゥゥー、という空気が抜ける音と共に自動ドアが閉まり、あの耳におなじみの女性アナウンスが車内に響く。
俺は先にお金を払おうとしたが、どうやらこのバスは後払いの様子。仕方ないので、俺はどこか座れる席はないかなとザッと辺りに視線を向ける、が、どうやら開いている席はないようだ。車内はめちゃ混みではないものの、時間が時間なのか座席はほぼ全部埋まっていた。
まぁ、これだけ隙間が空いていれば立っているのも苦ではないし、どうせ病院まで数分の道のりだ。バス停で換算すると2つ先ほどだしな。
うん、そう考えたら幾分か楽に思えてきた。
自分でどうにか折り合いをつけた俺は降車ドアに近い吊り革を陣取り、通学カバンを肩に担ぐようにして持ち、だらしない態勢で吊り革を握る。
こうしてブラブラとバスの走る振動に合わせて体を揺さぶるのは、なんて楽なのだろうか。何も考えなくて目的地に着くし、少しでも気を抜くと寝てしまいそうだ。
(ふわぁ……、眠い。けど、寝過ごしたら意味ないしなぁ。折角止めてくれた女の子にも申し訳ないし。くそ、ここは我慢だ)
と、俺が必死で襲いかかる眠気と格闘していると、俺が握っている吊り革から一つ開けた吊り革を握っている、あのバスを止めてくれた女の子が話しかけてくれた。
「あのさ……、さっきものすごい形相で走っていたけどどうしたの?」
「えっ? 俺のこと? もしかして?」
「え? まぁ、そらそうでしょ。いくらなんでも初対面の人に話しかけるほどコミュ力高くないしアタシ」
「俺は君の言うところの初対面の人なんだけど?」
言っている事とやっていることに矛盾を感じた俺は彼女にそう問い返す。すると、少女は苦笑いしながらこう切り返す。
「まぁ、あなたのいう事も一理あるけどね。でも、あなたにさっきお礼を言われたし、アタシも分かんないけど、ガラでもないことしちゃったしね。だから、そう。あなたと私は“ほぼ”初対面の人の関係ってことで」
これなら問題ないでしょ? と端正な表情に涼やかな微笑を浮かべる少女。
俺は彼女の涼やかな美貌とは裏腹に案外茶目っ気な印象を抱いた。
「はぁ、もうそれでいいよ。それで、さっきは気づかなかったけど、いやに豪勢な花束だな。何かのお祝いだったのか?」
「えっ、あぁ、違うの!! これは、パパの退院祝い。アタシのパパね、今日でやっと退院なの。それでお祝いと迎いを兼ねてこれから病院に行くの」
「病院? 奇遇だな、俺もこれから病院に行く途中なんだ」
「そうなの? 誰か、親しい人が入院しているの?」
「親しい人っていうか、俺の妹が入院している。事故のせいで下半身不随になってさ」
言い終わってから「しまった」と後悔の責が襲う。
案の定、少女は聞いたらいけないことを聞いてしまった風に、顔色を悪くして左腕に抱えた花束をギュゥと強く握る。
あーぁ、そんなに握ったら折角の花束がグチャグチャになっちゃうじゃないか。
ったく、面倒くさいな。これだからあんまり人と話すのは好きじゃねぇんだ。
「あー、まぁ、気にしないでいいよ。別に妹は足が動かないことに悲観してないし。今は一生懸命リハビリをして将来は自分の足で歩けるように頑張っているから」
だから、アンタが気に止む必要はねぇよ、とフォローを入れておく。
当の本人から気にするなと言われたからか、少女は少しずつ顔色を良くしていき、落ち着きを取り戻したようだ。それでも済まなさそうに円らな瞳を伏せて謝罪の言葉を口にする。
「その、ゴメンね。アタシ、悪気はなくてさ。その、良くなるといいね、妹さんの足」
「あぁ、サンキュ。それとアンタの親父さんも全快してよかったじゃないか」
「うん、アリガト」
フフフフ、と女の子と顔を見合わせて笑っていると、車内に女性の声で、
『次は、七倉市立病院前。七倉市立病院前でございます。お降りの方は降車ボタンを押して乗務員にお知らせください』
「あ、もう着いたようだね」
女の子が手近なボタンを見つけてそれを押す。ピンポーンという小気味よい音が車内に響き、停車を知らせるアナウンスが響く。
その声につられるようにして俺は正面の窓へと視線を向ける。オレンジ色に染まるビル群がなだらかに流れ動き、次第に見慣れた景色ばかりなのに気づく。
あぁ、どうやら本当に到着のようだ。
何だかこれでこの少女とお別れなのかと思うと、少しばかりセンチな気持ちになった。いつもはこんな気持ちになることはないのだけれど、何だろう。彼女とすこしばかり境遇が似ているから親近感を抱いたからかな、と俺は自己判断する。
(まぁ、淋しいなんて言っていられないか。病院に着いたら忙しくなるからな)
「あぁ、どうやらそのようだ。なんか色々世話になったな」
「ううん、気にしなくていいよ。困ったときはお互い様だしね」
「そうか。でもさ、口にするのは簡単だけど、行動に起こすのとはワケが違うからな。それを平然とできる辺りアンタは立派だよ」
「そんなことはないよ。そうだね、あなたとはまたどこかで会いそうな気がするから。これは“餞別”ってことで。今度会ったら、あなたには無償でお願いを聞いてもらうつもり」
だから心しておいてね、と少女が言うのと同時に、バスは緩やかに停車して降車ドアが開く。
少女はニコッと笑うと、俺の横を通り過ぎて運転手に定期を見せると、軽やかな足取りで降車したので、俺も慌ててそれに続いて降車する。
俺たち以外に降りる人はいないようで、バスはブーとブザーを鳴らすのと同時にドアを閉めてけたたましいエンジン音を響かせて発車する。
俺たちは遠ざかるバスの後姿を見送ると、少女は右手に回した腕時計で時間を確認すると、少し慌てた様子で俺に話しかける。
「わ、もう行かなきゃ。それじゃあ、ここでお別れだね。妹さんによろしく」
「あ、あぁ……」
矢継ぎ早に口にした少女に押されるように俺はろくに返事も返せなかったが、少女はそれに気づくことなく片手を軽く挙げて「それじゃあ」と、短く一言だけ別れの言葉を口にして俺に背を向けて走り去ってしまう。
(名前を聞く時間もなかったな……。まぁ、今度会ったらその時に聞けばいいか)
向こうも俺の名前を聞かなかったし、と俺はこれ以上あの少女について考えないことにした。会う確率が99%もない少女の事を考える暇も労力も残念ながら俺にはない。
「さてと、俺もそろそろ行かなきゃ。あっちほどでもないけどこっちにも面会時間っていうのがあるし、明日も学校だしな」
俺は誰となくそう呟くと、病室で俺の来訪を心待ちにしている妹の元へと向かうべく、早歩きを心掛けながら病院の正面玄関をくぐったのであった。