大口鯨虫 一
窓から宙に飛び出して真っ先に感じたものは、液体のように重たい濃密な魔力と逃げ場が無いと感じられるほど均等にかけられた重圧と、魔物が持つ障気だろうが全身を一気に殴られたかと思う程の不快感だった。
耳をつんざく不快な鳴き声にマルコスのアホっぽい叫び声と連続して起きる出来事に我を失い、自分よりも慌てていた二人を追って飛び降りたは良いが、それから先は制御の利かない落下という良いとは言えない状況になってしまう。
それに気づく前、目線の先には、まだ多く残っている鋭利な瓦礫や剥き出しの石で敷き詰められ、ただでは済まないと言い切れる地面にふわりと降り立つロデリックとコゴブが見える。
どんな身のこなしをすれば木葉みたいになれるんだよ。
そう思う頃には全身で風を切っていた。
しかし、考えなしが原因でマルコスを間抜けと言ってられない位の失敗で生きるか死ぬかに追い詰められ、無駄な考えは中断するのが賢明なはずが、どういうわけか周りの風景が遅く流れているように感じられた。
実際には動かそうにも体はついてこないで思考だけがはっきりと冴え渡り、その間に少し経って背後から他のみんなも窓の縁を蹴って降りてくる微かな砂利の音がしっかりと聞こえて来た。
意図しない猶予に、助かるための対策を考え始める。
前なら無理でも今の身体能力ならいつものように壁を駆けると良いが、いきおい良く飛び出したせいで壁に足が届かない。
ブーストを使えばもしかしたら衝撃にも耐えられるかもしれないが、どの程度まで効果があるか、この重圧に似た濃密な魔力の中でどれ程集中出来るか、どうやって鋭い瓦礫を裂けるか、色んな問題がある。
二つまで思いつき、せめてもうひとつ何かあればと時間を使うが、今の頭ではこれ以上案が出てくる気配は無かった。
意外にどうしようもなくどうしようか迷いながら、悪あがきに近いが風を受けるために体を限界まで伸ばし、着地に耐えられるブーストの為に神経を集中させて額の石から魔力を引き出す。
地面までは最初の高さからおよそ半分の所まで来ているようで、多すぎれば魔力の氾濫で良くてもふらつくが少なすぎれば衝突で死ぬ中で、これまで以上かつ必要分だけを用いる魔力の操作はそれだけで頭痛を伴うものになる。
自分の容量と操作のギリギリをドクドクと脈打つ胸に邪魔されながらも見極めていた。
魔力の操作に神経の他にもすり減らしている気分でいたところ、この自分だけと勘違いしていた世界の中で聞き覚えのある女性の囁き声が投げ掛けられた。
「風よ。と語りかけて」
声はグレタさんのもので間違い無い。
だが、いつもの取り繕った丁寧さが僅かに剥がれて強制の含みがある。
ブーストをすると思って進めていただけに一瞬心身ともに止まり、働きの放棄に伴って魔力が好き勝手に揺れ動いたのを察知してなんとか操作に戻る。
額の石の不自由さに四苦八苦しながらも、声がしたことでグレタさんが後ろにいるとわかり、とにかくグレタさんに言われたようにするために何を言っていたか思い出す。
たしか、風よ。と語りかけて、と言っていた。
横槍になるのに言ってきたのはブーストでは足りないからとして、言ってではなく語りかけてというのは風に対応する何かがいるんだろう。
グレタさんを信じて風を呼び起こすしかない。
「風よッ!」
無我夢中で行使されたボイスは人の声と並べても遜色が無い流暢さで俺を中心に広がる。
ボイスには自然と風の属性が乗っており、それに応えて重圧の魔力を押し分けた風の属性が続々と体にまとわりついて渦巻き始める。
こんにちはっ!
なにしてるの?
集まってくる軽々として爽やかな風の属性には挨拶や興味津々というような意思が感じられた。
しかし、それに返答する暇もなく地面は眼前まで迫っていた。
当たって死ぬ
現実の風景そのままを静かに受け入れ、多少でも助かる為に魔力操作のみでブーストを行う。
最後まで途切れなかった緩やかな世界でわりかし痛くなさそうな瓦礫に足を差し出すが、側にいる意識を持った風の属性達がギュッと俺を固めて動けなくなる。
ブーストを使いもがいているが微動だに出来ずに瓦礫に突っ込んだ。
俺は無様に落ちたにもかかわらず怪我をしていなかった。
風が下に向かって噴出しながら瓦礫を吹き飛ばしてしまい、さっきの二人と同じくふわりと安全に着地する。
よかったねー!
ねっ!
驚愕と安堵がいっぺんに押し寄せて混乱している中、意思のある風の属性達はだんだんと離れながらのんきによかったよかったと言い募っている。
息苦しく胸がつまり、いつの間にか止めていた呼吸を再開する。
風の属性達はもう薄くなってどこかに消えていた。
あれが何者でどこに消えたか気になって辺りに目を向ける。
しかし元から見えていなかったものなので見えるわけが無い。
だがそれよりも、後ろを見た時にグレタさんと目があった。
「ふふっ、ラオフェンさんの表情がわかる気がします。人とは違うにギョッとした顔をしてますわ」
グレタさんには俺がおろおろとしている姿が面白く映ったらしい。
そもそも風を呼び出す方法を教えてくれたのはグレタさんなんだから、本人に聞けば早いか。
「カゼ。シャベッテタ」
「あれは風の精霊です。ラオフェンさんには風の適性がありましたから、呼び掛けと魔力だけでも集められました」
精霊と言えばローズマリーさんは自己紹介で精霊術科がと言っていたり、実際に空飛ぶ毛の生えた蛇や水の女性を召喚していたので、あれが精霊だと思っていたが何が違うんだ。
「カゼノセイレイ。ミエナイ」
「ローズマリーさんの契約精霊と比べているみたいですね。あれは大人の精霊でさっきの子達は子供の精霊のようなものです。ですが、マルコスさんの元に早く行きませんか?」
疑問も解け、グレタさんの言葉でマルコスの声が聞こえた方、大きな芋虫の体に向かって走った。
マルコスを追って着いたそこには、忘れて置いていったことを怒っているマルコスと謝っているロデリック、何も出来ずに側に佇むコゴブがいた。
溜まった思いをぶちまけているマルコスだったが、俺が着くとムッと軽くしかめた後に奇妙なものを見た顔をして話しかけてくる。
「なんでラオは防勢の魔術使って無いの?」
「ナンダソレ」
当たり前のように言われるが、防勢の魔術とは初めて聞く。
「魔力を遮る方法は誰も教えていなかったっけ?大口鯨虫の魔力とか障気とか辛いでしょ。魔力を薄ーく外に向けるだけだよ。ほんとにごめんっ!ずっと平気そうにしててなんにも気づけなくて」
また新しい単語が出てきた。
しかし、魔術のお陰で大口鯨虫の意味は伝わり、あの離れたところにいる変な頭の芋虫がそれだとわかる。
だが今は名前が分かったことなんてどうでもいい。
今も揺らぎの無い並外れた重圧で感じている疲労は大きい。
文句も言いたくなるが、先に言われた通り魔力を薄く外にやる。
すると、いままであった重圧と不快感が嘘のように消え去った。
「マルコス。イウノガオソイ」
「ごめんね。常識って思い込んでて忘れてた」
マルコスは頭を掻きながら言ったが真面目な声で反省した様子だった。
「なぁ、まだ大口鯨虫とやらはのんびりしてんで良さそうだが……早くぶっ倒しにいかねえか?」
マルコスに構って少し口論をしている間にも巨大な芋虫は悠然と、しかしあても無いように蠢いており、コゴブは気になるようでちらちらと視線を泳がせている。
その辺りよく見れば、芋虫の咆哮で事態に気づいた他のゴブリン達があちこちを駆け回り、何か曲がった棒と真っ直ぐ棒の道具を持って芋虫を囲むところだった。
「マルコス、あれの処理を済ませてから話は聞く。とにかく急ごう。あれが暴れてからでは遅い」
皆も頷いて走ろうとした矢先、巨大な芋虫に異変が起こった。
『ギギギギッギギギギギギギ!!』
体を曲げて空を見上げた芋虫はもう一度不愉快な咆哮を発し、砦に向けて頭を降り下ろして巨体を波打たせて猛進し出した。
「おいっ!マジでやべぇよおっ!!」
頭が砦を差したのを最も早く察知したコゴブも全身から煙を立ち上らせ、地表すれすれを飛ぶように疾駆する。
グァクバとローズマリーも追い付き、塊ながら全速力で後を追った。
巨体なだけ早く動く芋虫にも徐々に近づき、その分迫力も増してくる。
大きいと感じたコゴブでさえ三つ並んでも満たないほど巨体の芋虫に心の奥底で恐怖が湧く。
しかし、もうおよそ近くまで来たと思った頃、芋虫は更に滑らかに力強く走り始め、近づいていたはずが離されていく。
「僕はまだ余裕がある。先に行くよ」
マルコスはそう言うと魔力が膨れ上がり、一人で抜けて芋虫を追っていく。
誰も何も言う暇が無く、離れていくマルコスと芋虫を前に見て走っていた。
遠くではマルコスが芋虫に対してバチバチと閃光と轟音を放つ魔力の柱を打ち込むが、見た目に反して頑丈な芋虫の体はぐにゃりと歪んで柱を受ける。
何度も何度も懸命に柱を作るマルコスだが、芋虫には刃がたたずにむなしくも巨大な芋虫が砦に衝突し、壁を砕いた瞬間だった。
次には、ねじくれた毒々しい針が突き刺さり、口を木のようなもので縛られた大口鯨虫の、その理不尽に思えるその巨体が後ろに大きく吹き飛ばされる。
マルコスの攻撃が効かず、間に合わないで砦が壊されたと思っていただけに皆が足を止めてあっけに取られていた。
呆然とした空気でなぜかロデリックが手を上げて口を開く。
「あの位置の部屋なら間違いない。あれは俺たちの罠だ。ややこしく絡まっていたから直に消えるようにしていたんだかな」
功労者と言うべきか犯人と言うべきか、正体はグレタさんが解いていたロデリックとローズマリーが仕掛けた罠であった。
「おまえ罠仕掛けっぱなしとはどういうことだよ!」
コゴブの言うようにあの芋虫がひどい姿になるくらいだ。
何かの拍子に発動したら、被害者は芋虫よりも凄惨なものになるだろう。
「いや、よほどの衝撃と大量の障気が無ければ起動しないように上から抑えていたよ。丁度良く条件の揃った奴がいたが、むしろ助かっただろう」
「うーん、ありがとよ。あいつをぶっ倒そう」
コゴブも納得し、みんなで芋虫を倒すために先を進んだ。




