9.身から出た悪夢
太陽くん、ちょっと地球との間隔近いから、両手を広げて手と手が当たらない距離まで離れようか。
7月の西日が照りつけるなかを歩くのは拷問に等しい。白玉さんとマンションに着いたときには、太陽を擬人化させるほどには思考が飛んでいた。だから、部屋に入るとすでに空調が行き届いており、ひんやりとした風が火照った首を通り抜けたときには、思わず息を漏らした。
「ようこそ、真さん!今お茶ご用意いたしますので」
既に部屋にいたユリちゃんに案内されるようにテーブルについた。彼女はそのままキッチンに入っていくと、間もなくおしぼりと麦茶の入ったコップをおぼんにのせて持ってきてくれた。
ユリちゃんからもらったおしぼりで顔をがしがし拭いて、麦茶をごくごくと飲みほすとすっかりいい気持ちになって、心に余裕ができた。気をきかせて2杯目の麦茶を持ってきてくれたユリちゃんに僕は言った。
「その着物、似合ってるね」
「あ、ありがとうございます」
ユリちゃんが今着ているのは、若葉色の薄手の着物のようで以前の赤い着物よりも涼しげだった。色合いも顔の包帯の白と相まって調和がとれているように思える。ユリちゃんは照れてるようで、ほほの部分に手をあてて少し顔を隠すようにしていた。純情そうな子だ。
「あの、私のことはお気になさらず。どうぞ、お2人で」
ユリちゃんがさっと下がっていった。
僕は前に座っている白玉さんの方へ向き直る。白玉さんは僕の視線に気がつくと僕の顔をそのままぼんやりと見つめ返してきた。ゆりちゃんの気配りのおかげで学校のときよりも冷静で余裕がもてた。
「学校で聞いたときのこと聞いてもいい?」
白玉さんがうなずいたので、僕は続けた。
「まず、僕は夢鬼という形で悪夢をとってもらったのに、なんで今日も悪夢を見たんだ?」
「夢鬼はあなたが作ったものなの。夢鬼をとっても新しい夢鬼が生まれるの」
「ならどれだけ夢鬼をとっても悪夢はなくならないってこと?」
白玉さんが首を振る。
「夢鬼を作る原因があるの。原因をなくしたらいなくなるの」
「原因……」
それには心当たりがある。しかし……
「じゃあ、なんで君はその原因から断ち切らずに僕の悪夢だけをとってるんだ?」
それを聞いて白玉さんはとまどった気がした。しかし、まもなく言葉が返ってきた。
「ヤミトリで取れるのは夢鬼だけなの」
その言葉は以前にも聞いたことがあった。
「ヤミトリって?」
「イソウシが夢鬼をとることなの」
「イソウシって?」
「私なの」
「いや、そういうことじゃなくて。イソウシって何者?」
「ちょ、ちょっといいですか?」
後ろで控えていたユリちゃんがあわてたように声をかけたので振り返る。彼女はおずおずと手を顔の横で上げていた。
「あのさっきからお話を聞かせてもらってたんですけれど、真さんは、イソウシと、ヤミトリをご存知でなかったのでしょうか?」
「うん、知らなかったよ」
「えぇ!」
僕の言葉に驚きを隠せなかったらしく、包帯越しにでもわかるほど、顔をぽかんとさせていた。
「私、あの日に姉から聞きましたよ、真さんには全てを教えているって。これから何をするのかもって」
僕はあの日の彼女の言葉を思い出す。たしかに嘘はいってない。僕の体に夢がついていてそれを取り除く。報酬はその夢鬼で自分が獏だとは聞いている。そのことをユリちゃんに伝えると、彼女はそれを聞くやいなや白玉さんに詰め寄った。
「飛鳥様、ちゃんと教えてないじゃないですか!赤の他人に自分の正体まで教えたといっていたからイソウシの姿も平然と見せたんですよ!?なのにほとんど伝えてないじゃないですかぁ!だいたい獏って何を言ってるんですかぁ!?」
飛鳥様、という呼び名は気になったが、今聞いても答えてくれないだろうから黙っておくことにした。イソウシとしての自覚が云々とまくしたてるユリちゃんに対して、白玉さんは知らぬことのように明後日の方向を向いていた。こうしてみるとどちらが姉か分からない。
やがて言いたいことは言い終えたのか、落ちついたユリちゃんが白玉さんの隣に座って、代わりにイソウシについて教えることになった。彼女はどこからかシャーペンとメモ用紙を取りだし、「異操師」と書いて見せてもらった。他にも様々な漢字が当て字にされることもあるが、現在はこの字が一般的らしい。
「異操師というのはその名の通り、異なるものを操る人のことです。科学では解明できないような力や異常を取り扱う人間になります」
「漫画とかでよくある魔法使いとか超能力者みたいな感じ?」
「間違ってはないですけども、系統が少し違いますかね。真さんは陰陽師ってご存知ですか?」
「聞いたことがあるくらいかな。安倍晴明とか」
「元々はその陰陽師から派生したものが異操師とされてるんです」
拙い説明になりますが、と前置きをして、ユリちゃんは話し出した。
古来の日本では、差しせまる災いや病気や不幸を鬼神あるいは物の怪のしわざと信じられており、そういった厄災を鎮めるために呪術が使われていた。そういう力を扱っていた勢力の1つが陰陽道を扱う陰陽師であったという。時代の変遷により文明の発達や跡継ぎがいないなどの理由で陰陽道は廃れていった。
しかし、陰陽道で培われていた技術や力は、他の修験道や密教などの呪法と交わりながら、脈々と受け継がれていったのだという。白玉さんたちの先祖はそういった力のなかでも、悪鬼や妖怪、悪霊の類いを打ち払う陰の秘術を会得して受け継いでるのだという。陰とは何かと聞いてみると、
「陰陽には、良いことが起きるようにする陽の側面と悪いことをとりのぞくか、そもそも悪いことが起きないようにする陰の側面があります」
そう言うと、ユリちゃんは用紙に「-、0、+」と間隔をあけて書き込む。「-」から「0」、「0」から「+」へと矢印をつけると、「-」のほうの矢印の下に「陰」と書き、「+」のほうには「陽」と書いた。
「陰陽じゃなくても……例えば神社の絵馬の『恋愛成就』や『商売繁盛』は物事が良い方向へ転がるようにとするお願いなので陽。『家内安全』や『無病息災』は事故や病気から身を守ったり、起きないようにするためのお願いなので陰になります」
なるほど、分かりやすい。話の内容は嘘くさい話に聞こえなくもないが、実際に白玉さんが僕にしたことを考えたら、秘術と言われたりしても妙に納得できた。ちなみに白玉さんは退屈なのか、前に僕と遊んだ碁盤を出して
、1人で石を置いている。
「私が歴史としておおよそ知ってるのはここまでですね。異操師については他にも様々な逸話や諸説があるのですが、不勉強で申し訳ありません」
頬のあたりの包帯にしわをよせて、申し訳なさそうに頭を下げるユリちゃんに僕はいやいやと手を振った。
「ありがとう、ユリちゃん。とても分かりやすかったよ」
「本当ですか?ありがとうございます」
ふふ、と笑い声がもれるユリちゃん。いいな、僕もこんな妹が欲しかったなぁ。あ、でも妹として紹介するときは困るかなぁ。とか考えてたら、ユリちゃんの話が再開した。
「あとはヤミトリですね。これは陰の秘術のひとつとされています。飛鳥様──姉が言っていたように夢鬼をとるために使ったものです」
文字でそろそろ埋まりそうな用紙に「病(闇)取り」と書かれた。漢字の表記にぶれがあり、主に使われるのがこの2つらしい。
「さきほども説明したんですが、昔は病気といえば悪鬼悪霊のしわざとされてきました。そのために異操師が用いた治療法が病を引き起こしている怪異を取りのぞく病取りになります」
具体的な方法に関しては多種多様にある上に、それぞれの異操師の家系によって異なる技法や力を取り入れていたりするので、口で説明できるものではないと、懇切丁寧に言われたので、素直に納得した。あまり難しいことは理解できないし。
「百合、もういい」
ここまで口を出さなかった白玉さんがそう言うと、ユリちゃんはすぐさま返事し、急いで下がっていった。
「他に聞きたいことはないの?」
「うん、他には……ないかな」
白玉さんがなぜ夢の中に入れるのだとか気になることはまだまだあるが、少なくとも秘術といえるような代物を赤の他人に教えるわけもないし、これ以上深入りすべきことではないと感じた。彼女たちは巷にいるようなインチキ能力者ではない。本当に神がかった力をもっているのだ。
「あなたは何をすべきなの?」
どきっとした。自分が何をすべきか、わかっていない。
自分が悪夢を見ることになった元凶を断ち切らないかぎり、悪夢は続く。そして、その原因は分かっている。あの日にみた鬼の顔──中学生の同級生の鳴田。彼が間違いなく悪夢の原因であろう。ならば、どうする?僕の思考はそこで止まって前に進めないでいた。
「それなら鏡をみるの」
ふいに、彼女がそう言った。鏡?
「自分のことを見つめなおすといいの」
「鏡を見れば何かわかると?」
「心をうつす鏡があるの」
「そんなものがあるのか?」
「もし、あなたが自分のことを見つめたいなら、今日用意するの」
……それならば、一度見てみたい。
「白玉さん、その鏡見せてくれないか?」
「本当にいいの?」
どういうことだ。僕は困惑した。鏡を見るようにと言ったのは白玉さんからだ。なのに、まるでこれが最後の通告とでもいうような含みが感じられる。僕は少し迷ったが、首をうなずくことで答えを出した。
「うん、いいよ」
「わかったの」
発せられた白玉さんの言葉はどことなく重々しく、何やら寒気のようなものを感じた。空調の冷気がより強くなったように感じる。白玉さんがユリちゃんを呼ぶ。
「百合、水鏡の用意は?」
これが、白玉さん?彼女の口調の変化の強さにとまどっていると、ユリちゃんがまるで従者のようにかいがいしく頭を下げた。
「飛鳥様、申しつけられた通り、隣の部屋にて用意してあります。支度も少々お待ちいただければ。ですが……本当にやられるのですか?」
「同意は得た。これ以上いうことはない」
「は、はい」
白玉さんと話すユリちゃんはどこか不安げに顔をこわらばせていた。そしてこれはまずいかもしれないと思った。あの日の病取りでは積極的に協力していたユリちゃんが今回わざわざ確認をとっている。相当危険であるのではなかろうか。
「……白玉さん、やっぱりちょっと考え直してから──」
中断の申し出を出そうとする僕の口は、いつのまにかそばにいた白玉さんの手でふさがれる。声にならない声を出す僕ににらむように鋭い視線で刺してきた。そして、そのままはっきりと口に出した。
「白玉の名のもとに、心試しの儀を執りおこなう。取り消されることはない」
いや、なにそれ、聞いてないよ!?
僕の心からの訴えは白玉さんの手の中に葬られた。