5.悪夢はマンボウの後に見る
厚い雲に隠された空は朱に染まることなく、夏の6時前だというのに、すっかり暗くなってしまった。ふりしきる雨もなおさらその勢いを増すばかりだ。
「次はあなたの番なの」
「あ、ごめんごめん」
白玉さんに注意され、ベランダへ向けていた視線をテーブルの上の碁盤に戻す。盤面に置かれた石の位置を確認しながら、次に投じるべき一手を探る。
何個目かの石を盤上へ置いたとき、ふいに味噌汁の甘いかおりが鼻を通り抜け、おもわず喉がごくりと音をたてた。
振りかえると、ユリちゃんが、キッチンで湯気の出ているフライパンにヘラをせわしなく打ちつけながら、中身をかき混ぜていた。彼女の袖のそばから、深底の白い鍋が見える。おそらくあの中に味噌汁が入っているのだろう。
僕が顔に包帯を巻いた着物姿の少女を、ユリちゃん、と馴れ馴れしく呼んでいるのは、彼女が詩音の友達だと知ったからだ。
彼女と初めて対面したときは、その一般人とはかけ離れた見た目に、僕は声をかけることもはばかられた。
すると、その様子を察してか、彼女のほうから名前を尋ねてきたので、および腰に早川真だと言い、
「早川様とおっしゃるのですか。実はわたくしの通っている学校にも同じ名前の知り合いがいるのですが、ひょっとしたら、お知り合いかもしれませんね」
と、ほがらかに話す少女を、存外とっつきやすいように感じた僕は、世間話のつもりで通っている学校を聞いた。すると、そこで彼女が答えたのは、なんと、妹の通っている中学校であった。
まさかと思い、詩音という妹がそこに通っていると告げると、
「え、本当でございますか? ……ということは、早川様は詩音ちゃんのお兄さんなのですか! はあぁ、世間とは狭いものですねえ」
相当驚いたようで、彼女の包帯に囲まれた目は丸くなっていた。中学生の女の子が世間について語るアンバランスさはさておいて、先ほど言った知り合いが詩音のことだと分かった僕は、急に目の前の少女に親近感を抱いた。
それから僕とユリちゃんは妹の話で花を咲かせた。「ユリちゃん」という呼び方は、話が盛り上がったさなかにおのずと口から飛び出していた。
ユリちゃんと仲良くなっていくと、先ほどまでは異様だと思っていた顔も、不思議と愛嬌のように感じてきた。
実際、包帯の部分を除けば、ユリちゃんの顔立ちは全然悪くないと思う。かすかにさらけ出されている肌は白く透きとおっていて、鼻や顎の形もきれいに整っている。目もぱっちりと大きいし、素顔は相当な美人なのではないだろうか。
そんなユリちゃんと話し込んでいるうちに、空はすっかり暗くなり、それに気づいた彼女が夕食を作るとキッチンヘ向かったのである。
自分の分の料理まで作ってもらっている申し訳なさから、作業中のユリちゃんに何度か手伝いを申し出たが、そのたびに、
「わたし1人で大丈夫ですよ。真さんは姉とゆっくりしていてください」
とやんわり断られ、しかたなく白玉さんと座って待っていることにした。とはいえ、当然おしゃべりとは程遠い白玉さんとだと、どうしても時間を持てあましてしまい、とりあえずなにか暇を潰せるようなものが無いか、白玉さんに聞くと、
「囲碁ならあるの」
そう言い、タンスの引き出しから折りたたみ式の碁盤と碁石入れを取り出し、机の上に持ってきた。囲碁のルールを知らない僕は彼女に了解を得て、五目並べで遊ぶことにしたのであった。
退屈しのぎが目的の五目並べだが、勝負は思いのほか白熱していた。他の盤上ゲームよりも短期勝負になりやすく、紙一重の攻守で勝敗を分かつ接戦が多い。だからこそ、勝てたときは相手を出し抜いて石をそろえたという達成感が得られ、ひとしお嬉しかった。
白玉さんも楽しんでいるようで、勝ったときには口もとがかすかにゆるみ、負けたときにはそれをいびつにゆがませていた。石を置く音も、始めた頃はそっと静かだったのに、今ではパチン、パチンと小気味のいい音が鳴っている。
盤面に白い石を置いたあと、僕はまた後ろが気になって、振りむく。ユリちゃんがフライパンの中身を皿に移しかえているところだった。
「白玉さん、もうすぐ料理ができそうだから、そろそろやめようか」
対局の途中だが、自分の石を片づけようとすると、白玉さんに手で制止される。彼女は上の石を動かさないように碁盤をそっと持ち上げて、慎重に自分のそばへ移した。どうやら、今回の勝負は食事の後に持ち越すようだ。
「次は勝つの」
そう真剣な顔で宣言する白玉さんが妙におかしかった。
ほどなくして、お盆を抱えたユリちゃんがキッチンのほうから出てきた。彼女はテーブルにそれを置き、乗せていた料理を置いていく。ご飯、豆腐とわかめの味噌汁、豚肉とキャベツの炒め物。タコときゅうりの酢の物もある。
「おお、おいしそう」
思わずあふれそうなよだれを飲みこむ。くすくすとユリちゃんが笑いだした。
「そう言っていただけると嬉しいです。冷蔵庫に食材があまり無かったので、質素だと思われますが」
「全然そんなことないよ」
失礼だが、むしろこのモデルルームもどきの冷蔵庫の中身がこれほど充実していたことのほうが不思議である。
「あと、ユリちゃんはもう座りなよ。食器を運ぶくらいなら僕がやるから」
「いえいえ、真さんはお客様ですから。どうぞ座っておいてください」
申し出を遠慮するユリちゃんの頬には赤みが差していた。無理もない。見るかぎり、キッチンは空調が直接当たらない上に調理器具の熱がこもってしまうだろうから、あの中は相当熱く感じるはずだ。しかし、彼女は何でもないように着物の裾をひるがえして足袋を見せると、そこへまた入っていった。
無理に手伝おうとすれば、かえって邪魔になりかねないと考え、僕は尻に敷いていた座布団をユリちゃんが座るであろう机の一角に移して、大人しく待っていることにした。
なにげなく、白玉さんのほうを見ると、彼女は口をわずかに開けて碁盤をじっと見下ろしている。こうして見ると、白玉さんのほうがユリちゃんの妹のように思えてきた。
ユリちゃんの料理は期待以上だった。特に炒め物が絶品で、ひとたび噛むごとに甘くて濃いタレが豚肉とキャベツにからみながら、口の中で絶妙な具合になっていくのがたまらない。あまりのうまさに思わず鼻から笑みが漏れ出てしまった。
姉妹は上品な手つきで行儀よく食べていたが、僕の滑稽な反応にユリちゃんのほうはくすくすと笑っていた。
食事を満足して終えた僕は他人の家でふてぶてしくも心地良くなった。もしもこの家にソファーがあったら、つやのあるご飯にタレのかかった豚肉を乗せて頬張る悦楽を余韻にふんぞり返っていることだろう。
ユリちゃんはシンクで洗い物をしている。彼女が食器を持って立ち上がる際に、「真さんは姉の相手をしてあげてくださいね」と制されたため、今度もただ座ったままでいるしかなかった。
その姉は、床に置いていた碁盤をいそいそとまた机に戻し、五目並べを再開させた。満腹で頭に血が通っていないためか、彼女に四三を鮮やかに決められ、負けてしまった。
気を良くした白玉さんが口もとをゆるめながら道具を片づけはじめたので、五目並べはそこでお開きになった。
携帯電話の時刻は既に8時を回っていた。
「今から準備するの」
囲碁道具をタンスにしまった白玉さんは唐突に部屋の隅に置いてあった風呂敷を手に取った。元々ユリちゃんがここに来た際に背負っていたものだ。
そして、そのまま白玉さんは玄関へ向かい、外へ出ていってしまった。僕は呆けたまま、閉まる扉の音を聞いていた。
少したって、我にかえった僕は、キッチンから戻ってきたユリちゃんに聞いた。
「ユリちゃん、白玉さんが何か準備するってユリちゃんの荷物持ってどっかに行ったんだけど」
ユリちゃんは顔の包帯をさすってから、僕の左隣にある壁を指差した。
「姉ならおそらく隣の部屋にいると思いますよ」
「隣の部屋?」
意味が理解できずに眉をひそめる。はい、とユリちゃんがうなずき、座布団にきっちりと座った。
「イソウシの衣装を持っていったようですし、今夜のヤミトリのために、隣の部屋で準備をしているのではないでしょうか」
イソウシ? ヤミトリ?
「……あー、はいはい、なるほどなるほど。……ところで、白玉さんはどうして隣の部屋の鍵なんて持っているの?」
イソウシという謎の言葉も気にはなったが、繊細な脳みそにこれ以上負担はかけたくないので、まずは手軽な疑問から処理することにした。
「あれ、姉から聞いていませんでしたか? ここは白玉家が所有するアパートなんです。といっても、賃貸はしていないので、アパートという言い方は不適切かもしれませんけれど。
現在は、わたしたちが学校へ通うために使わせてもらっているんです」
「へー、そうなんだ。白玉さんからは『学校へ行くための家』と聞いていたけれど……まさか、この建物丸々が白玉さんたちのものだとは思わなかったよ」
「たしかに、それだと誤解してしまうのも無理がありませんね。……姉はなんというべきか、自分の中で話が完結している人なので、それを人に伝えるのが少し、苦手といいますか、人に伝わるようにする意識が、あまりないといいますか……」
包帯越しでも分かるくらい困った表情で懸命に言葉を探すユリちゃん。その顔から、常日頃の苦労がにじみ出ているように見えた。
もしかしたら、包帯と同じぐらい白い髪の毛もそういったことによる過労やストレスからきたものかもしれない。ストレスが増えると白髪も増える、とはよく聞く話だ。先天的に色素が薄いのかとも思ったけれど、そのわりに瞳は血の色を感じさせずにしっかりと黒い。十分にありえる。
僕はひとり納得し、あわれむようにユリちゃんを見た。それから、ふと、あることに気づいた。
「そういえば、白玉さんとユリちゃんの家族さんたちはどうしているの?」
そして、家族という自分の言葉でさらに気づく。妹に用事があれば連絡すると言っておきながら、まだしていない。ポケットから携帯電話を取りだして、画面を確認したときだった。
「わたしの家族は姉だけです……」
その声は静かで、震えていた。
思わず彼女のほうを見る。
少女の顔はうつむいていて包帯と髪しか見えない。脚に置いてある小さな手が着物を強く握りしめていた。
突然の彼女の変化に僕は何も言えなかった。
「……あ、なんでもないんです、気にしないでください」
彼女は顔を上げた。笑みを浮かべているが、どこか痛々しく感じた。
沈黙する僕たちの周りを無機質な冷気が渦巻いていた。
その後、白玉さんが戻ってくるのを待っていると、まるでなにもなかったように明るく振るまうユリちゃんに風呂を勧められた。僕はとまどいながらも空調で体が冷えていたので、案内されるまま洗面所に向かった。
ついでに、宿泊も一緒に勧められ、なりゆきで今日はこの部屋に泊まることになった。
洗面台で制服を脱いで入浴する。人の家の(しかも、女の子が使っている部屋の)浴室というのは妙に落ち着かなかった。シャワーの出が思ったより強くて水滴を顔面に打ちつけられた。
いつもと違うシャンプーの柔らかな良い香りに包まれて、僕は風呂場から上がった。用意されていたバスタオルで体をふく。バスタオルの下には、替えの服が置かれていた。紺色の袖が短い着物のような上着に半ズボン。夏祭りに着ていきそうな服だ。
とりあえず、自分の下着をはいてから、袖を通してみた。少し生地が固めでさらさらとしている。普段着と感触が違って多少違和感はあるが、風通しが良くて意外と悪くない。
歯みがき代わりに何度か口をゆすいで、僕は洗面所から出た。
「今日はこちらでお眠りください」
部屋へ戻ってきた僕に、ユリちゃんは手でベッドを示しながら言った。もう片方の手には白玉さんが持ち出していたはずの風呂敷が握られている。
その白玉さんはユリちゃんのそばに座っていた。僕が風呂に浸かっている間に着替えを済ませて帰ってきたようだ。こちらへ背を向け、ベッドのほうを見ている。
僕はベッドに歩み寄りながら、後ろから前へと、ガラスケースに入った精巧な模型を眺めるかのように、白玉さんを見回した。
彼女は黒い着物の上から白と黒のまだら模様をした袴を着けて、黒い足袋を履いていた。正面から見ると、袴は真っ白に見える。どうやらこの袴は膝から上が白、下が白と黒のまだら模様という配色になっているようであった。
奇妙な格好であるが、どこか白玉さんらしいようにも感じた。
僕はベッドに腰かけ、現状を改めて確認する。くだんの格好で膝をたたむ白玉さん。紅色の着物と白い包帯が映えるユリちゃん。夏祭り的衣装の僕。フローリングの部屋。
僕たちはいるべき場所を間違えている気がする。
「本当に僕がここ使っていいの? というより、本当に泊まっていいんだよね?」
無遠慮にベッドへ座りつつ、それでも念を入れて聞いてみると、ユリちゃんは目を細めてうなずいた。
「ええ、大丈夫ですよ。というより、今日はそのためにいらしたんですよね?」
「……あ、そうだね。うん、そうだ」
言葉を噛みしめるように、僕もうなずいた。
そう、僕は酷い夢を解消してもらうために白玉さんに着いてきてここに来たのだ。決して食事や五目並べを楽しむためではない。今日は色々あって、夢のことは気にならなくなっていたけれど、また同じような夢を見てしまえば、やはり深刻な気持ちになるだろう。
「真さんが眠っている間にヤミトリを済ませますので、安心しておやすみください」
ユリちゃんは頭を下げ、白玉さんから少し離れたところに座った。
彼女たちは眠っている状態の僕になにをする気なのだろうか。今日1日見たかぎりの様子では、少なくとも僕に危害をくわえたり、お金を騙しとろうとしているわけではないとは思うが、他人に無防備な姿を晒すのはさすがに躊躇を感じる。
しかし、白玉さんは無表情で、ユリちゃんは微笑みを浮かべて、僕の顔をずっと見ている。視線で穴が空きそうなほどだ。
彼女たちはこちらが眠らないかぎり、このまま座って待つ気だろうか。それはそれですごく困る。
迷いに迷ったが、彼女たちを信用して眠りにつくことにした。
ところが、いざベッドに体をのせて、目をつむって待ってみるも、頭はまだまだしゃきっとしていて、一向に眠りの波が押し寄せる気配は無い。
彼女たちからのプレッシャーにくわえて、少し前に確認した時刻はまだ9時を回ったところであった。寝具も他人のもので落ち着かない。しかも、ベッドからなんだか甘くていい香りがする。
これでは眠れなくて当然だ。一旦、目を開けて何気なく2人の顔を見た。
ユリちゃんが真顔になっていた。口を引き結び、こちらを凝視している。包帯ごしからでも強すぎる眼力が感じられ、僕は思わず足元にあった布団を顔にかぶせた。
怖かった。夢に出てきそうだ。暗やみの中で少しずつ鼓動が大きくなっていく。
「どうしました? 明かりがついていると、眠れませんか?」
優しげな言葉に、おそるおそる布団を取り払ってみると、ユリちゃんの口元には愛らしい笑みが形作られていた。
……さっき見たのは幻覚だったのだろうか。そうだ、そうに違いない。そうであるべきなんだ。僕は顔に力をこめて笑ってみせる。
「いやっ、明かりもなんだけど、最近はこんな時間に眠ったことがないからちょっと寝つきにくいかな」
「あ、そうですね、たしかに寝るにはまだ早いと思います。どうしましょうか」
ユリちゃんは上を見上げながら、考え込むように唇をすぼめている。この表情は大丈夫だ、怖くない。
「眠れないの?」
「のわっ」
鼓膜へ這いよる静かな声に心臓が跳ねる。
真横に視線を向けると、白玉さんがいた。いつのまにか枕元まで近づいており、僕の頭を覗きこむように見ていた。
白玉さんの顔を見つめたまま固まっていると、もう一度「眠れないの?」と彼女が聞いてきた。とっさにうなずく。
「う、うん。なかなか寝つけなくてね、どうすればいいものかな……」
白玉さんは少し黙ってから、唐突にこう言った。
「海を想像すればいいの」
「う、海?」
「海なの」
なんだか分からなかったが、とりあえず目を閉じて、彼女の言うとおりに海を思い浮かべることにした。
海藻や貝殻が乾いて入り混じった砂浜。空から照りつける太陽。その光を浴びてきらきらと輝きうごめく大海原。
「海の中なの」
場面が切り替わり、辺り一面が群青に満たされる。海の中はとても静かだった。
「魚がいるの」
群青の世界で魚たちがあふれて泳ぎかう。銀色の魚群。色とりどりの熱帯魚。なかでも目を引くのは――
「マンボウがいるの」
魚の群れより少し離れたところから、ぬっとマンボウが現れた。
「マンボウは回るの」
マンボウの体が縦に回転し、転がるように水中を進み出した。
「マンボウはあなたなの」
くるくる。映像が突如切り替わる。海底、魚群、海面、海泡。眼前の景色が次々と移り変わる。
「あなたはさらに回るの」
くるくるくるくる。目の前の移りゆく景色が加速する。
「もっと回るの」
そう言ったあと、規則的に続いていた彼女の声が途絶えてしまう。僕は激しく回る。体が回る。視界が回る。世界が回る。
「あなたは動きをゆるめるの」
しばらくしてから彼女の声が聞こえ、僕の動きがようやく落ち着きだす。回りすぎて気持ち悪い。
「あなたは疲れたの」
たしかに体が重たくて、動くのがつらい。どこかに休める場所がないだろうか。
「あなたは岩を見つけて寝そべるの」
回る視界で海底のほうをみると、岩があった。平たい岩だ。ゆるゆるとその岩に近づいて体を寝かせる。
「あなたは目をつむるの」
世界が暗闇になった。
「そして、あなたは眠る」
そこで僕の意識はなくなった。