3.悪夢は再びやってくる
あの後、トイレで用を足していたときも、教室に戻って裏切り者の友人の耳に口臭スプレーを吹きかけたときも、授業中のときも、そして、家に帰宅してからも、僕はずっと白玉飛鳥のことを考えていた。
自室の椅子に腰かけながら、僕は彼女に話しかけられた光景を思い出す。こちらを見透かすように見つめる大きな瞳。わずかに開かれた唇。あのときの会話は今でも鮮明に焼きついている。
白玉飛鳥は何者なのだろうか。僕の顔を見ただけで今抱えている苦痛を完全に見通されていた。
寝不足だけならば、目の充血具合や目の下のくまなどを見て判断することはできる。しかし、その理由が怖いものを見るからというのは、どう考えても客観的に判断できる要素がない。もちろん家族や友人などには幼稚だと思われるので、そのようなことを打ち明けたこともない。
そして、そのあとの彼女の言葉。
明日の夜には回収とはどういうことであろうか。
悪夢を食うというのは何なのか。
一体、彼女は僕に何をする気なのだろうか。
そんな風にとりとめないことを延々と考えていると、トントンと部屋の扉がノックされて開かれた。ノックの意味がない。
「お兄ちゃん、晩ご飯買いにいくんだけど何がいい?」
そう言って、妹の詩音が入ってきた。それを聞くためだけに入室してきた妹に、僕は諭した。
「詩音。部屋に入る前はちゃんと入っていいか聞くべきだよ。もしも、僕が手の離せない状況だったらどうするんだ」
その言葉に、僕の妹は、地毛の茶髪をいじりながら考え込むようにすると、何かに気づいたようで、とても嫌そうに眉をひそめた。
「あー、今度からは気をつければいいでしょ。……でも、この時間からすることはないかなとは思うし、最悪出くわしたとしても見なかったことにするから」
……妹よ、手の離せない状況というのはそういうことだけではない。あと男のリビドーに時間は関係ない。僕は嘆かずにいられなかった。
「いや、例えば大事な電話のときとかあるよね? そういうときに勝手に入ってこられたらお前だって困るだろ」
「……え、あ、そういうこと、だよね。だよねー。聞いて、お兄ちゃん。違うの、さっきのは違うの。そういうことじゃないから!」
妹は自分の思い違いに気づいたためか、何度も、違うの、と恥ずかしそうに叫んでいる。
そもそも妹はまだ中学2年生なのに、もうそんなことを知っているのか。昔はあんなに純真無垢だったのに。何だか僕の知らないところで妹がよごれてしまったように感じた。
とりあえず騒いでる妹をなだめさせるために、分かったから。それより、今夜はハンバーグが食べたい、と本来の話題に戻した。
「あ、うん、分かった。すぐに材料買ってくるよ!」
渡りに舟と言わんばかりに、妹は足早に部屋を出ていった。階段をかけ降りる音がけたたましく鳴り響いている。その様子に僕は苦笑いしか出なかった。しかし、同時に救われた気もした。
あのナノナノ転校生が何者で何を考えているのかなど、いくら自室で悩んでいたって結論が出るはずもない。結局なるようにしかならないのだから。とにかく今を生きて、明日を待つしかない。
妹の暴走のおかげで少し冷静になれた気がした。当然、意図した言動ではない上、本人にとっては早く忘れてほしいことだと思うので、感謝は心中のみで留めておくことにしよう。
「おにいちゃーん、ご飯出来たよー」
夜、隣の台所にいる詩音にそう呼び掛けられたので、やることもなくテレビを観ていた僕はソファーから立ち上がった。
「お兄ちゃん、お母さん今日は残業だって。深夜近くまでかかるから、外でご飯食べてくるって言ってる」
「そうなのか。母さんの分も作ってるならラップしとけよ」
「はーい」
台所へ向かうと、妹は既に椅子へ腰かけ、携帯電話を操作していた。テーブルの上には所望したハンバーグが、ごはんと味噌汁とサラダ付きで置かれていた。こんがりとした焼け目とたちのぼる湯気が食欲をそそられる。
「詩音。今からご飯食べるんだから、用が済んだらもう携帯はしまえよ」
「今いいところだからもうちょっとー」
どうやらゲーム中のようだ。僕は冷蔵庫から麦茶を取り出す。コップに注ぎ入れ、わざと何度も妹の携帯電話へぶつけるように差し出す。
はいはい、わかったよ、ちょっと、待ってよ、あー死んじゃうー、うわー、と妹は何かぶつくさ言いながら、ようやく携帯電話をしまった。恨めしそうにこちらをにらみつけている。
「お兄ちゃん酷い! もうすぐで記録更新してたのにー。
そもそもお兄ちゃんだってテレビ消してないよね! 人には携帯見るなって言っておいて、自分はテレビ見るのってずるくない!?」
「テレビはBGMになるだろ。携帯はそっちに意識してこぼしたりするから駄目だ」
本当は食事中にテレビを流すのも家族間で禁止されているのだが、今はこういうことに口うるさい母親はいない。わざわざ妹と、無音のなか粛々と飲食することもないだろう。
妹はふくれっ面で、まだ文句があるようだったが、僕が座って手を合わせると、渋々と同じように両手を重ねた。
いただきます。食事の挨拶を済ませたあと、僕は早速ハンバーグにソースをかけようとして、妹に怒られた。
「はじめはそのまま食べてよ! いきなり調味料かけちゃうなんて、作った料理人に失礼だよ」
料理人はお前だから失礼じゃないだろ、って言ったらもっと怒るだろうか。しかし、夕食を作ってくれたのは素直に感謝すべきことであるし、言っていることも道理にかなっている。
屈辱的だが僕は妹の言うことに従い、そのままハンバーグに箸を入れて、じんわりと肉汁が染みでた欠片を口の中へおさめた。
舌の上で肉片をほぐすと、口一杯に濃厚な肉の旨味を感じた。カリカリとした表面としんなりとした玉ねぎの食感が口を踊らせる。飲み込むのが名残惜しく、何度も咀嚼してしまった。
少し焼きすぎでパサパサとしているようにも感じたが、十分うまいといえる出来であった。そして、肉の旨味を引き立たせる刺激と口の中に残るさわやかな風味で気づいた。
「ん、これ、前に作ってもらったやつと味変わってるけど何か入れた? 前のはもっと肉の後味が重かったと思うんだけど」
「あ、分かる? 生姜をすりおろしてみたんだよー。お肉の臭みが消えて味のアクセントになるって精肉店のおじさんに教えてもらったの」
さっきまで不機嫌だったのに、料理について聞くと、嬉しそうな顔で説明する妹。表情がころころと何度も変わって忙しいやつである。
「なるほど、確かに前よりも断然美味しくなっているよ。正直、中学生が作ったとは思えない出来だと思う」
「えっ。お兄ちゃん、どうしたの? 頭大丈夫?」
手放しに誉めたら、何故か頭を心配された。
「急に何だよ。お前の作ったハンバーグだろ。何がおかしいんだ」
「だって、意地悪ばっかり言うお兄ちゃんが、素直に誉め言葉なんて言うはず無いもん。いつも『これで勉強もできればいいんだけどな』みたいな余計なこと言うじゃん」
「そんなこというわけないだろ」
せいぜい言ったとしても、『お前の知性を犠牲に得た料理の才能で作ったハンバーグ美味しいな』ぐらいである。
僕は妹をやり過ごし、改めて食べ進めようとして、ふと気づいた。
「詩音、このハンバーグの肉は当然さっき言ってた精肉店で買ったんだよな? それって商店街のところのか?」
「え、うん、そうだけど。何かあったの?」
「いや。……そのとき、店のおじさんに何か変わった様子はなかったか? あるいは何か言っていたでもいいけど。例えば僕のこととか」
「うーん、お兄ちゃんのことは何も言ってなかったよ。変わったところもそんなに良く見てないから分かんないけど、多分いつもと一緒だったんじゃないかな」
「そうか。だったらいい。大したことじゃないから」
「ふーん、変なお兄ちゃん。いつも変だけど」
もしかしたら、最近見ている夢に現実の精肉店の店主が関わっているのかと考えてみたが、流石に早計過ぎたようだ。
そもそも、夢に肉屋のおじさんが出てきたのも昨日だけであった。別の日に見た怖い夢には出てこなかったことを考えれば、ほぼ無関係と見ていいように思える。
それに、昨日夢の中で出てきたのは、肉屋のおじさんであって、精肉店の店主ではない。目も無かったので、完全に別人なのだろう。
何となしに納得した僕は、今度こそ食事を再開した。
食事を終えた僕は、ポットを沸かし、風呂に入って、寝間着に着替えた。詩音と世間話をしながらテレビを見ているうちに、時刻が深夜11時前になったので、自室へ戻った。
あとは、眠るだけである。
あとは、眠るだけである。
あとは、眠るだけである。
眠れない。
僕はベッドへ腰掛けながら、携帯電話を見た。時刻は既に1時を回っていた。眠ろうと決意して、既に約2時間も経っている。
その間は、高崎とメールでくだらないやり取りをして何とか時間を潰していた。しかし、とうとう奴も眠ってしまったようで、返信が返ってこない。僕は携帯電話の電源を切って、深く息をついた。このままでは、またしても4時以降に力尽きて眠ってしまうことになる。
正直、自分でも夢が怖くて眠れないというのは、情けないと分かっていた。しかし、その怖い夢が短い間隔で、1ヶ月も断続的に続いていると、流石に気が滅入ってくる。しかも、全部死ぬ夢である。
最近でも、昨日のほかに3日前や6日前にも見ている。
6日前の夢は、工場で氷漬けにされた僕が業者によって切り出され、巨大なかき氷器ですりおろされる、というものであった。ガリガリという音が迫ってきて、徐々に自分の体が削られていく恐怖は、今まで見た夢の中で一二を争うだろう。
3日前のものは、蜘蛛の糸に引っかかった蝶を助けてやったら、自分が糸に引っかかってしまい、身動きとれない状態で何千匹もの蜘蛛に襲われるというもので、全身を蜘蛛がうぞうぞと這い上がる感覚は夢でありながらリアルに感じた。
そして、昨日の肉屋に解体される夢。
もし、夢でも痛みを感じるのであれば、とうにショック死していただろう。
そして、それらの夢はただ怖いだけではなく、その夢を見た直後に目覚めると、必ず恐怖と共に空虚な悲しみを感じてしまうのであった。僕は夢で殺されるよりも、その起きたときの胸に穴が空いたような感覚が辛かった。
本来安息を得るための行為が最も心身を苦しめるとは、皮肉がききすぎてやしないだろうか。出来る限りは二度と眠りたくないとすら思えた。
しかし、もちろん全く眠らないというわけにもいかないし、今日を乗りきれば、きっと転機が訪れるであろう。それはもちろん、白玉飛鳥のあの発言である。
彼女はおそらく、次の夜には悪夢に対して何らかの対処をしてくれるのだろう。そう漠然と理解はしていた。しかし、その方法や目的などは何一つ分かっていないのが現状だ。
だから、何が起きてもいいように明日に備える必要がある。そのためにも、例え心は休まらずとも、体の方は少しでも休息を取っておきたい。
それに、仮に今日も悪夢を見るにしても早く寝たほうがいいだろう。今よりもさらに疲労した状態でそのようなものを見てしまえば、いよいよ心身ともに参ってしまいかねない。今から眠ることができれば、酷い夢を見ても明日までは何とかもつだろう。
それでは、眠るためにはどうするべきだろうか。しはらく考え込んでいるうちに、ふと、隣の部屋で眠っている詩音のことを思い出した。
昔、小学生低学年ながらも1人で眠るのが怖かった詩音は、よく父親や母親と眠っていた。ある日、両親の都合が悪く、一度だけ僕と一緒に寝たことがあった。妹としては、おそらく2人のように兄にも優しく寝かしつけてほしかったのだと思う。
しかし、その頃の僕は若かったものだから、共に寝床へいる無垢な妹を、1人で眠れないのかとからかったり、わざと様々な怪談話を聞かせて怖がらせたりしていた。
おかげで翌日は布団が黄色く湿ってしまった上に、泣いた詩音に僕の行いを告発され、それを聞いた母親に怒られるという手痛い仕返しを受けてしまった。
それ以降、詩音は僕と眠ることはなくなったが、先の行いに反省させられた僕は、これからは妹には優しくしようと心を入れ換え、現在の優しいお兄ちゃんが生まれたのである。
そして今、妹はもちろん1人でぐっすり眠り、兄は眠るのが怖くて漫然と時間を過ごしている。睡眠に関しては、立場がすっかり逆転してしまっているのだ。
この事実を知ったら、妹はどう思うだろう。やはり、若かりし早川真少年のように、からかってくるのだろうか。
そして、思いついた。
僕が眠られないことを知ってしまった詩音が、実際にどういう態度を取るか、頭に浮かべてみることにしたのだ。嫌みな妹を想像すれば、悔しさのあまり、幾分か眠る気になるかもしれない。さっそく僕は目をつぶってみた。
目の前には妹の詩音がいる。
想像の僕が『詩音、実は最近怖い夢を見るから夜眠れないんだ』と打ち明ける。
妹から言葉が返ってくる。
『え、お兄ちゃん、それ本当?……てか、マジ? チョーウケるんすけどー! マジありえなくねー!? つか、あたしのこと散々馬鹿にしておいて? 自分は夢が怖くて眠れないって! とーんだお子ちゃまなんでちゅねー! ハハハ。あー、なるほどぉ? だから、お兄ちゃまはぁ? 彼女も出来ないんだし、童貞なのか! そうなのか! キャハハハーー』
思わず僕は壁を殴った。殴った壁の向こうには詩音の部屋がある。安眠を妨害したくはなかったが、先に僕を侮辱した妹が悪いのだから仕方がない。
僕はこの仮想妹に馬鹿にされたくない一心で、ベッドへ飛び込んだ。眠ってやる、眠ってやる、眠ってやると強く思った。すると、始めは力んでいた体から、徐々に力が抜けてきた。まぶたが重くなる。思考が鈍くなる。
そして、意識が底に沈んだ。
そこは砂漠のようであった。辺り一面が黄色い砂でできていて、所々なだらかに傾斜がついていた。
見上げると、空が黒かった。月明かりはおろか、星の輝きすら見えない、墨を塗りたくったような空だ。光を一切感じない空色なのに、地面の砂は太陽を浴びているように輝いており、不思議である。
僕はその砂漠の中をさまよっていた。平坦な道を選ぶように足を踏み出し、素足にひんやりとした砂粒の感触を噛みしめていく。
服は着の身着のまま、荷物すら持ってない。目的すら分かっていない旅路は誰がために行くのだろうか。何も考えず、ただひたすらに歩む。
ふいに前方へ一本の木を見つけた。太くてたくましい木であった。僕はその根元へ腰かけた。木によりかかると、何だか妙にしっくりとして心地よい気分であった。
一息ついた僕は、目を閉じ、これまでの旅路を振り返ろうとした。そのとき、地面が急に動き出し、体が押し出されていく。体も微妙に傾いていた。
僕は目を開け、驚いた。目の前にはすり鉢状の巨大なくぼみができていた。中央の底へと流砂がどんどん押し寄せていった。
僕は砂が向かう先を見た。思わず息を飲んだ。
流砂の中心には巨大な穴があった。しかも、どうやらその穴は生きているようで、呼吸をするように脈動していた。
あれは危険だと悟った僕は、とっさに木に向かって駆け出し、勢いよくしがみついた。すると、巨木はすぽっと拍子抜けするように抜けて、そのまま後方へ飛んでいった。僕はしり餅をつき、転げ落ちた。
何とか途中でとどまり、僕はあの穴の方へと目を向けた。すると、先ほど抜けた木が穴に向かって飛びこんでいき、その中へ入っていくのが見えた。
バキリバキリと砕ける音が聞こえた。穴が木をせんべいのように噛み砕いているのだと、気づいた。
僕は戦慄し、慌てて立ち上がった。逃げるためにとにかくもがく。手足で砂を蹴散らしながら、必死に前へ進む。砂が口に入ったが、なりふり構わずにはいられなかった。
そして、砂まみれになりながら、ようやく流砂から抜け出した。僕はその場でひざまずいて休んだ。
すると、また地面が傾いた。体が前へと流され始める。見ると、そこには、うしろにあったはずのあの穴があり、砂の粒ごと僕を引き込んでいた。
僕はまた走って抜け出した。すると、そこでも地面がくぼみだし、穴が砂を飲み込んでいた。僕は逃げる。
何度も流砂が発生し、僕を穴にたぐりよせる。抜け出しても、穴は執拗に僕を引き寄せてくる。
抜け出しても、抜け出しても。終わらなかった。
そして、何度目かの誘引に、僕はとうとう逆らうのを諦めた。きっと逃げても無駄なのだ。
僕は倒れこんだ。疲れた。砂漠に居続けていたからか、心身ともに乾いていた。
背中が流砂に運ばれ、どんどん穴の方へ向かっていく。向こうもこちらが抵抗するのを諦めたと理解したのか、吸い寄せる勢いは緩慢としていた。
なんともいやらしい穴である。
中央へ近づくにつれ、砂粒が底へ飲み込まれる音がはっきりと聞こえてきた。ジャー、ジャーと米を精米しているような音だ。
やがて、穴は目の前にきた。僕の体よりも何倍も大きい。伸縮しながら、人間が来るのを待ちかねている。
そして、砂に運ばれ、足先が穴のなかに入った。乾いた体が噛み砕かれていく。パキ、ポキ。
パキポキパキポキ。足の感覚が無くなった。
パキポキパキポキ。膝の感覚が無くなった。
パキポキパキポキパキポキパキポキパキポキ。
穴に飲み込まれてゆく。パキポキパキポキ。
とうとう肩まで飲み込まれた。あとは、頭。もう逃げられない。
ふいに音が止んだ。まるで死刑を執行する前にやり残したことがあるか聞くように。
もし、これが最後ならば。僕は空を見上げることにした。
すると、どうであろう。漆黒の空には、かすかに穴が開いていた。そこから白い光が一筋見えた。希望の光だった。
僕は何だかおかしくなって笑った。笑顔も乾いていた。
そして、また音が鳴り始め、パキ、ポキ。