唯我独尊-ひとりよがり-
・壱・唯我独尊
桜が満開となった4月。
桜ヶ丘高校の入学式を終えて、校内をふらりふらりと歩いていた。
広い校舎、白い壁、水道付近に生けられた花。中学とは、まるで違う校舎を迷いなく進む。
「 あ、泉谷くん。先生が呼んでるよ。 」
声をかけてきたのは、同学年であろう女子生徒だった。クラスメートだろうか。
「 ……あぁ、うん。ありがとう。 」
担任の名は、笹原 紫季。
この学校の中で、一番若くて格好いいと女子生徒に人気な教師だ。黒縁メガネに黒いスーツ、青いネクタイをしていて、それに加え、長身である。
僕も182cmと長身なのだが、それより高い190cm近くある教師だ。本当に日本人なのかと、疑いたくなる。
「 …用件は何ですか。」
溜め息混じりに言った。それはもう面倒臭そうに。
「 おいおい、そんな嫌そうな顔するなよ。 」
まるで、近所のおじさんのように話しかけてくる。だが、それには理由がある。彼は、僕が小さい頃から会っていた義理の叔父なのだ。母の義弟で、家によく顔を出していたのがきっかけで、すっかり近所のおじさんのようになってしまった。
一応言っておくが、僕の家は複雑だ。何しろ家族が多い。母のように結婚して、名字が変わった人もいるし、養子や従兄弟なんて何人いるかわからない。
中には、一度も会ったことのない人だっている。
僕には弟と妹がいるし、祖父母も健在だ。実家に全員集合なんてしたら、大騒ぎになる。
「 で、何ですか? 」
「 あぁ、俺もなぁ、まだ新米教師だろ?色々と雑用…あ、いや、俺のパートナーとして学級委員がいるだろ? 」
嫌な予感がした。なんとなく、言われなくてもわかってしまった。
「 それをお前に任せようかと思ってなぁ。 」
予想的中。当たり前か。
「 嫌です。先生にパシられたくないんで、他をあたってください。 」
「 いやぁ、馨なら色々と楽そうだし…。 」
「 お断りします。もう帰っていいですか。 」
また、だんだん眠くなってきた。早く教室に戻って寝たい。小さい頃からよく寝ていたし、話していると眠くなるのだ。欠伸が今にも出そうで仕方ない。
「 ……わかった。じゃあ、学級委員になれば教室に枕を持ってきてもいい。 」
「 やる。 」
即答に決まっている。
中学の時、休み時間に寝ようと枕を取り出したら「 何を持ってきてるの!これは没収します! 」と、言われてしまった嫌な記憶がある。(枕は死守した。)
つまりだ。交換条件に、そんな僕の神アイテムを出されたら、断れるはずないだろう。
しかし、やっぱり引き受けるんじゃなかった、と後悔していた。
枕の誘惑に負けてしまった自分を悲しく思いつつも、これから始まる快適な日々を想像すると、わくわくしている僕がいる。
「 じゃあコレ、配っておいてなぁ〜。 」
文字通り、雑用をさせるこの紫季先生は、優しそうに見えるだけのドSだ。昔から全く変わらない。
「 ……ちょっと用事が。 」
「 ま・く・ら♡ 」
「 ゔ…、わかった。 」
これからもこうして、紫季のパシリにされると思うと、先が思いやられる。
サボろうか、とも思ったが、何しろ枕がかかっている。そんなこと出来やしない。
仕方なくプリントを教室へ運んでいると、窓の外をじっと見つめている人影が目に入った。
遠目からでもよくわかる。そこに居たのは、紛れもなくあの嘉景 百合だった。
もう、会うことなんてないと思っていた。
彼女がこの学校を受験していたなんて、知らなかった。
「 ………なんで、ここに…。 」
ポツリと呟いた一言は、誰の耳にも届くことはなかった。だけど、誰かの耳に入っていたとしても、答えが返ってくることはないと、わかっていた。
1年A組と1年F組は、アルファベット順だと離れている。それにも関わらず、教室が近いのは、この学校の所為だ。
A組とF組は、それぞれ端に位置する。1学年は6クラスあるから当然だが、この学校は、ひとつの階をぐるっと一周できる造りになっている為、A組を出て真っ直ぐ廊下を歩けば、F組なんて目の前だ。F組の隣は理科室だし、移動教室のときは嫌でも近くを通る。
彼女は僕に気づいているのだろうか。
僕が同じ学校にいることを知っているのだろうか。
気がつけば、彼女のことを考えている。無意識に、F組の方を見ている。そんな彼に、周りはニヤニヤしながら話しかけてきた。
「 どーした、どーした。最近F組の方ばっか見てるじゃん。もしかして…恋わずらい!? 」
「 は?そんな訳ないだろ。 」
「 隠すなよ!な、誰?F組、美少女多いよなぁ。 」
「 だから違うって言ってんだろ‼︎ 」
バンッと大きく机を叩いた音が、教室中に響く。話しかけてきた男子生徒も、他のクラスメートも、驚いたようだ。
僕は声もそんなに大きくないし、怒ることも笑うことも滅多にない。そんな僕が、大きな声で怒鳴るなんて、考えてもみなかったのだろう。実際、自分でも驚いている。
「 ……ちょっと、図書室行ってくる。 」
この場から、一刻も早く立ち去りたかった。
皆の視線が痛い。まだ、高校生活は始まったばかりだというのに。
うつむいたまま、図書室のある2階へ行こうと、階段を下りていたとき、誰かが前を通った。その人物も図書室へ行くようだ。本を持っている手がチラリと見えて、その手に注目した。綺麗な手だった。別に、フェチという訳ではなくても、その手に釘付けになってしまった。
サッと階段を下りて、彼女を追いかけようとした。
そこで気づいた。白くて綺麗な手、長い茶色の髪。そんな女なんて何人もいるだろう。だが、僕にはわかったのだ。彼女が、嘉景 百合だということが。
彼女と背格好の似た女と彼女が、仮面をつけてじっとしているだけでも、どちらが本人かわかってしまう気がした。それくらい、彼女のことを見ていたのではないか。
嫌いな人を唯一見分けられるとして、落胆する人はいても、喜ぶ人はいないだろう。
なのに何故、彼女を見つけると、こんなにも心が捕らわれてしまうのだろう。
その答えを、僕はまだ知らない。
時間が過ぎるのは早いもので、気がつけば桜は散っていた。
あんなに静かで過ごしやすかった季節は終わり、気温が上昇し、ジメジメとした梅雨の季節となった。
外は雨が降っていて、昼間なのに薄暗い。
一人で静かに読書をしていても、雨の音は止まることを知らない。
6月はジューンブライドと呼ばれ、結婚する人が増えるが、雨の所為でせっかくのウェディングドレスも、綺麗にセットした髪も台無しになる。大人の気持ちは理解不能だ。
「 …雨、止まないな。どうしようか。 」
今日に限って朝、傘を壊してしまった。これでは、びしょ濡れになってしまう。
風邪は引きたくなかった。僕はどちらかというと、風邪を引きやすい。こじらせてしまうと厄介なことになる。だからといって、いつまでも学校にいても仕方ないのだが。
「 …もしかして、馨くん? 」
後ろから突然声がした。僕には、女友達と呼べる人はいないのだけれど。
「 そうだけど、何か…。 」
言いながら振り返ってその姿を見たとき、息が止まった。何か用か、と聞こうとしたのに、声が出ない。
「 あ、覚えてないかな?中学のときも一緒だった嘉景だけど…。 」
覚えてる。キミがこの学校にいることも知っていた。声をかけられるとは思ってなかったけど、F組にいることも知っていた。
「 ………覚えてる。 」
それしか言えなかった。言いたくなかった。
「 よかった…。あの、傘ないんでしょ?私の貸してあげる。 」
いきなり何を言い出すのだろう。
「 でも、キミは…。 」
「 大丈夫。友だちに入れて貰うから。馨くん、中学のときも雨に濡れて風邪引いてたでしょ? 」
そんなこともあった。でも、彼女がそんなことを知っていたなんて気付かなかった。覚えているとも思わなかった。
「 ……やっぱり、嫌いな子の傘なんて、いらない? 」
「 え? 」
黙っていた僕は、嫌そうな顔でもしていたのだろうか。そんなこと、考えていなかったのに。
「 別に…。傘は、ありがとう。 」
彼女は、ホッとしたように笑った。こういう笑顔は嫌いじゃない。…いや、だからといって、好きって訳じゃないけれど。
「 あれ…? 」
なんでこんなこと考えているんだろう。なんで頬が熱くなっているんだろう。
「 …?どうしたの? 」
「 …なんでもない。 」
顔が熱い。風邪を引いてしまったのか。まだ、雨に濡れた訳ではないのに。
「 じゃあ、傘、借りてく。 」
一言だけ言うのが精一杯だった。彼女の返事も聞かずに、雨の中を駆け抜けた。
「 おい、馨。お前最近、変だぞ。 」
「 …え? 」
相変わらず、紫季の仕事を手伝わされていた僕は、確かに変かもしれない。
「 何か悩みでもあるのか? 」
「 別に…。 」
紫季は、小さく溜め息をついた。そして、遠くを見つめながら言った。
「 唯我独尊という言葉を知っているか?お前にぴったりな言葉だ。 」
「 …知ってるけど、僕はそんなんじゃないよ。 」
「 お前は昔からよく一人だったし、友人も少なかっただろ。無意識に一人になろうと距離を作るのは、お前の悪い癖だ。 」
確かに友だちは少ないし、一人でいることも多い。けど、それが何か悪いことなんだろうか。
「 お前は、良い意味でも悪い意味でも、ひとりよがりだ。自覚してない分、タチが悪い。もっと人を頼れ。 」
「 ………俺を頼れ、とは言わないんだ。 」
心が軽くなった気がした。もしかしたら僕は、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
そのとき、自分では気づいていなかったが、滅多に笑うことのない僕は、今までにない最上級の笑顔で笑っていた。