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作者: のおと

「ねえ、今年も実家には帰らないの?」

 彼女が僕にそう尋ねた時、スクランブル交差点の信号が青になって、僕達は人ごみに押されながら横断歩道を歩き出した。十二月も半ばを過ぎた週末、夜の渋谷は人であふれていた。街はクリスマスのイルミネーションに彩られている。

 彼女の質問に対する言葉を僕が探していると、不意に懐かしい香りがした。海の香りだ。僕が生まれ育った、広くて優しくて輝いている海。僕は立ち止まって振り返った。見えるのは急ぎ足で歩く人達の姿。僕の後ろを歩いていた男が迷惑そうに横をすり抜けていく。

 その香りがどこから運ばれてきたのかは分からなかった。ほんの一瞬だったけれど、それは僕を生まれ故郷の海岸へと連れて行った。

波の音、友人や家族の顔を僕の脳裏に蘇らせた。

「どうしたの?」彼女が言った。「いや、なんでもない」僕はまた彼女と歩き始めた。

 彼女には、正月だからと言って帰る実家も故郷もなかった。東京で生まれ育ち、両親とは五年前に死別している。僕と彼女が付き合い始めてから二度、正月がやって来たけれど、二度とも僕達は東京で一緒に過ごした。彼女は僕に、実家に帰って両親に元気な姿を見せてあげな、と言ってくれるのだけれど、僕は帰っても話すこともやることも特にないからと言って、彼女と過ごすことを選んでいた。

「帰ろうかな」僕は言った。「海が見たくなった」そう言うと、彼女は嬉しそうな顔で僕を見上げた。

「ほんとに?」

「うん」

「じゃあちゃんとお父さんとお母さんに元気なところ見せて来なよ。喜ぶよきっと。」彼女は嬉しそうに笑ってそう言った。

 また、海の香りがした。

 今度は振り返って確かめたりしなかった。やっと気が付いた。広くて優しくて輝いている故郷の海と同じ香りがどこからしてくるのか。自分の鈍さにあきれかえり、気付いた嬉しさで僕は笑った。

「なあに?」彼女が不思議そうに尋ねる。

「海、見たくない?」

「えっ」

「行こうよ一緒に。生まれ育った海、見せたいんだ」

 彼女は驚いた顔をして立ち止まった。僕も止まる。彼女はうつむいて何か考えている様子で、それからそっと僕の手を握った。

 僕は彼女の手を握り返した。また二人で人ごみの中を歩き始めた。

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