舞台裏のイレイザー
剣と魔法。
夢と現実。
理想と幻想。
人間と魔物。
様々なものが存在する、想像の物語として語られる世界。
これもそんな物語の1つ。
夢物語に語られる主役やその仲間たち。
彼らは華やかな舞台にあがり、山あり谷ありの様々な苦難を乗り越え、そしてクライマックスを迎え、華々しくその物語を閉じていく。
剣と魔法がぶつかりあう、手に汗握るような戦いに心を熱くさせる。
文明が現代のような発展をしていないからこその、密接な人と人とのコミュニケーションに感動する。
時には身分を超えた恋愛に心を刺激され、時には何気ない日常に傷んだ精神を癒される。
それは「陽」
物語における日の当たる世界を抽出し、それを綴ることで見えてくるもの。
表舞台にあがる主人公という役者、観客はそれを眺めることだけが得ることのできる権利。
だが忘れてはならない。
何事も、「陽」があるのであれば「陰」があることを。
役者が舞台にあがるためには、その裏で様々な準備がされているということを。
決して日が当たる場所には出てこず、どれだけ素晴らしい仕事をしても褒められることもない。
手間隙をかけ、時間を浪費して大変な苦労をする。
しかし注目は全て役者に集中し、手柄はまるで役者が全てをやったと言わんばかりに持っていかれてしまう。
それでも、「陽」があれば「陰」がある。
これは華々しい勇者や英雄と呼ばれる主人公と、その仲間達が織り成す冒険の物語などではない。
それは日の当たらない世界で、誰も知らない冒険の物語。
光が強ければ強いほどに暗くなっていく「陰」の世界に生きた者たち。
しかし彼らがいなければ、勇者という役者が舞台にあがることはなかっただろう。
その事実でさえも、今となっては誰も知ることのない物語……
――――――――――
始まりはある若く美しい女性が、この世界ではさして珍しくもない奴隷を買いにきたところから始まる。
彼女はある事情を抱えた冒険者であり、自らの戦闘スタイル故にどうしても前衛が必要だった。
ゆったりとしたローブは体の中心部分が見えるように大きく開いており、魔法効果を持たせる刺繍が施されたノースリーブのシャツと膝まであるスカート。
目のような模様が描かれたとんがり帽子に、オレンジ色をした温かみのある不思議な力を感じる宝石がついた杖。
白い肌には黒い刺青のようなものがあちこちに描かれており、わずかに見える肌に刺青の無い部分は1箇所としてない。
つまり彼女は、魔法使いだ。
魔法は万能な力ではない。
魔力さえあれば誰でも使えるものの、使いこなすには才能がいるし、それを戦闘に用いるまでの強さに引き上げるには弛まぬ努力が必要だ。
肉体的な強さを手に入れる時間を作り出すことなどできるはずもなく、出来たとしてもそれは肉体年齢が絶頂期を過ぎてから。
魔法がどれだけ強くなろうとも、魔法使いは体が弱い。
そして強力な魔法を使おうとするならば、それが強ければ強いほど準備に時間がかかる。
長い詠唱、必要な魔力を正しい形で操作する技術、戦闘中にそれを行えるだけの精神力。
発動さえさせてしまえば、それは強力な、強力すぎる攻撃手段となる。
例えば準備から発動までかかるのと同じだけの時間、その間に例えば剣士がずっと攻撃しつづけていたとしても、それを余裕で上回る破壊力を持っているのが魔法という攻撃手段だ。
だから、魔法使いは一人で行動したりはしない。
魔法を発動させるまでの間、守ってくれる誰かが必要なのだ。
彼女が魔法使いである以上、どんなに強力な魔法を扱えるとしても、その理から逃れることはできない。
だから彼女には、前衛となる誰かが必要だった。
別にその前衛が奴隷である必要は無い。
同じ冒険者をやっている者は、全員が魔法使いというわけではない。
前衛という括りにしてしまえば、それはもう大量の冒険者がいる。
中には魔法を全く扱えないものもいるだろうし、そんな冒険者から見れば彼女は非常に有能な部類だろう。
見た目がいいことも加えれば、彼女からの誘いを断る人間のほうが少ないくらいだろう。
彼女がそれをせず、奴隷を買うという手段に出たのはもちろん理由がある。
「なるほどなるほど、仲間に強姦されそうになったんですかい。
そりゃひでぇ目にあいましたなぁ」
普通に話しているだけだというのに、どこかイラつかせる声と口調で男が女に話しかける。
「まあな、女で魔法使いだと舐められていたようだ」
話しかけられた女もイラついたのだろう、その感情を隠そうともせずに男に返事をする。
最も、イラついた原因は強姦されそうになった時のことを思い出したからなのかもしれないが。
「へっへっへ、そういう意味じゃあ奴隷が一番ですぜ。
なんせこいつらはオレらがきっちり『調教』してありますからなぁ。
何より契約を結んじまえば、こいつらは主人に悪いこたぁできませんぜ」
品というものを感じさせない話し方、さすがにこれ以上イラつきたくはないと思ったのか、女は話を先に進めようとする。
「そんなことはわかっている。
御託を並べるより早くモノを見せたらどうだ」
「へっへっへ、わかってますって。
そんじゃあこっちへどうぞ」
何の変哲もない普通の家のように見える建物の中にあって、場違いなほどに重厚な鉄でできた扉へと向かう男。
鍵束をじゃらじゃらと鳴らしながら、そのドアに鍵を差し込んで開き、奥へと入っていく。
どうぞと入ってくるように促されるが、男の下品な顔で言われると奥の部屋で襲われるのではないかと不安になってくる。
とはいえ、冒険者でも何でもないただの奴隷商人に襲われたところでどうとでもなる。
それだけこの世界では、冒険者とそれ以外の間にはっきりとした壁があるのだ。
女は不安が表情に出ないよう気をつけながら、カツカツと靴を鳴らして扉を潜るのだった。
――――――――――
蝋燭さえ灯されていない薄暗い部屋。
石を敷き詰めて作られた頑強な作りの床と壁。
壁には等間隔に格子尽きの穴があり、そこからわずかな光と新鮮な空気が入り込んでくる。
石は安宿の1部屋程度の感覚で壁となっており、事実それは部屋なのだろう。
部屋は部屋でも、牢屋と表現したほうが正しい部屋だが。
女が入ってきた方向に壁は無く、そこには鉄製らしき素材でできた格子状の柵がある。
柵の向こう側には、汚らしい最低限の部分だけを隠すように巻きつけられた布を身につけている生き物達。
1部屋に1人の場合もあるが、大体は2~3人が種族毎に分かれて入っているようだ。
人間であったり、獣人であったり、ドワーフやエルフ、肌の所々に鱗があるのは恐らく竜族の劣化種族であるリザードマンだろう。
女性の比率が高いが、買うならやはり女性のほうが需要があるということだ。
統一性の無い彼らではあるが、共通しているのは首に付けている黒いドッグタグのようなもの。
チェーン部分も同じ黒色で、首のサイズほぼぴったりに作られているので抜けるようにして外すことはできなくなっている。
……もう1つ、全員に共通しているものがある。
それは視線。
懇願するような、自分をアピールするかのような、縋るような視線。
目は口ほどに物を言う。
痛いほどの視線が女に突き刺さり、それが彼らの環境を物語っている。
ここの奴隷たちは、この環境から抜け出したいと思っているのだろう。
そこまで思わせる理由が何なのか、女にはわかるはずもないし、わかってやろうと思ってはいけない。
奴隷はいなくなることがない。
色んな理由で、色んな連中が毎日奴隷になっている。
その全てを救うことなんてできるわけがない。
彼らを可哀相だと思うのは勝手だが、救ってやることなど1個人で出来ることではない。
今の彼女にできるのは、自分の求める条件を提示し、その条件に合うものを選び出すという「選択」だけだ。
だから、奴隷達は視線を送る。
自分は条件に合っている、自分は役にたてる、自分ならば、自分だけは、だから自分を見てくれと。
その視線が、逆に買い手から興味を失わせているということに気づかないまま。
冒険者の間に伝わる諺に、「逃亡三度」というものがある。
1度逃げることを覚えたヤツは、必ずまた逃げ出す、逃げた先でも何かあればまま逃げる、そうやって逃げた先にあるのは、結局のところは「死」でしかない。
だったら逃げ出すのは三度までにして、少しでも抵抗したほうがまだ可能性がある。
そういう意味の諺だ。
しかしこの諺は、正しい意味とは別の意味で使われることのほうが多い。
その意味は「1度逃げたヤツは3度までならすぐ逃げ出す」というもの。
この世界に仏の顔も三度まで、という諺は存在しないが、この諺があるので普通の奴隷に対してそうなっても仕方がない、という発想は存在する。
彼女にしてみても、家事や身の回りの世話をさせる程度ならそのくらいは許してやるくらいの度量はある。
最悪自分のところには戻ってこないことになろうとも、あと2〜3人程度ならばすぐに補充するくらいの資金的余裕はある。
しかし冒険者にとっては、3度どころか1度でも洒落にならない。
彼女を例にしてみれば、モンスターを前に逃げ出されてしまえば残るのは攻撃するのに時間がかかる貧弱な魔法使い。
彼女がどれだけ強力な魔法を使えたとしても、魔法使いという括りから外れることがなければその結果が変わることはない。
だから、1度でさえも逃亡する可能性がある者を選びたくは無い。
では彼等はどうなのか。
ほとんどの冒険者や、奴隷を買いに来る人間にとって彼等の姿はこう映る。
彼等は、この環境から「逃げ出したい」だけなのだと。
今の環境が嫌だからと、この生活をしたくないからと、買い手に縋るのだ。
奴隷はいなくなることがない。
色んな理由で、色んな連中が毎日奴隷になっている。
中には本当に理不尽な理由で奴隷になった者もいるのだろう、中にはアピールの手段を知らないから、能力はあるのに同じ手段をとるしかない者もいるのだろう。
だが、彼女はもちろん奴隷を買いに来る人間は、その違いを見極めるだけの能力も知識も持ってはいない。
だから、彼女達はその知識と能力のある人間に言うのだ。
「……奥のを見せろ」
送られてくる痛いほどの視線に気づいていないフリをして、彼女達はそう言う。
例えその視線が親の仇を見つけたかのような、憎しみさえ感じ取れるほどの鋭いものになったとしても、彼女達は気づかないフリをするのだ。
「へっへっへ、わかりやした」
やたらとゆっくりとした口調でそう言う男、たったそれだけのことでさえ遅く感じてしまう。
右側に伸びる通路の奥にあるドアに向かう、それについて歩き、カカトがカツカツと鳴る音が響く。
音が鳴るたびに、背中に針を刺されたような悪寒がしてくる。
意識をドアの向こう側にいるであろう別の奴隷に向けることで、悪寒の正体を考えないようにする。
焦る気持ちを表情と態度に出さずにすんでいるのは、冒険者として生きてきたプライドが支えになっているからだ。
何かの拍子に支えを失ってしまえば、逃げ出すのは自分のほうだ。
女がそんな考えをしてしまうほどに、この空間に満ちているものは負の感情に包まれていた。
そう考えさせることで、奥にいる奴隷をさっさと買って二度と来ない、という考えまでさせようという奴隷商人達の策略だとは気づかない。
鍵を差込み、扉をあけて先に入れと促してくる男。
ほんの数歩の距離であるというのに、遥か遠くにあるかのように見える扉へ向けて女が歩き出す。
そしてその扉を潜り抜けようとした瞬間のこと。
「……ンゴッ」
「んご?」
「あんのバカ……」
鼾のような、この空間において暢気とも言える不思議な音が響いた。
「奥には飛び切りのヤツがいますぜ。
ささ、中へどうぞ」
「あ、ああ……」
男は何事も無かったかのように奥へ入れと促してくる。
不思議な音がしたな、程度のこととして片付けるつもりのようだ。
それでも不思議そうな顔をして、音の発生源はどこかと首を回す女に男は声をかける。
「あー……冒険者さん、あいつのこた気にしねぇほうがいいですぜ」
「いや、気になっただけ……」
「フゴッ」
「「……」」
これはもう誰かが寝ていて、その鼾だとしか判断することはできない。
ありえない。
客が来ているというのに、寝ている。
他の奴隷達のように、少しでも買われる可能性を高めようとする行為を一切しない。
この鼾からして、買われることに全く興味が無いのではないかと思わせるような態度だ。
超がつくほどに高級で、能力もあるような奴隷であれば確かにそういうのはいるかもしれない。
しかしここは下級もいいところの、奴隷の中でも底辺にあたる奴隷達がいれられている部屋だ。
そこでそんな態度をとっていれば、殺されてしまうことだってありえるのではないか。
そんな予想さえどうでもいいと言わんばかりの鼾は、今も響き続けている。
それだけ響く鼾の発生源を見つけることは、女でなくても難しいことではない。
扉のある壁に隣接している部屋。
二人の人間が入れられているその部屋の奥に、藁のようなものが積み上げられている場所があった。
柵の向こう側からでは藁の裏側を見ることはできないが、端のほうから人間の足らしきものが飛び出ている。
音の発生源からしても、そこにいる男が寝ているのは間違いないことだった。
「……」
案内の男を睨みつけ、顎をクイッと動かす。
その動作に男はため息をつきながら、部屋の奴隷二人に「命令」を下した。
「おい、そこのバカを叩き起こせ」
男の言葉に二人の奴隷は焦ったように立ち上がり、藁を掻き分けてそこにいた男を起こす。
揺り起こすなんていう優しいものではなく、文字通りに顔を「叩いて」起こすという荒っぽいやり方だ。
「いでっ、いでででで!
なにしやがるコラッ! わかった起きる、起きるからやめろや!」
そして、藁の裏側から男が立ち上がる。
その男の姿に、女は息を呑んだ。
「あ~、ったく。
いい気分で寝てたってのになんだってんだよ」
「客が来てんだ、寝んなこのバカ」
「あん?」
身長190センチを超えていそうな大柄な体。
奴隷とは思えないほど筋骨隆々のがっしりとした肉付き。
何故か他の奴隷のように黒いドッグタグではなく、頑丈そうな分厚くて両手を鎖で繋いだ黒の手錠。
素材こそ他の奴隷と同じようなものだが、かろうじて服と呼べるような形状をしたもの。
明らかに他の奴隷達とは扱いが違う。
そんな体の上に乗っている頭。
筋肉に覆われて太くなっている首。
固まって変色した血のような赤黒い色をした髪の毛と、それが剣山のように逆立った髪型。
顔つきは恐らく頑強で強面なヤクザのような顔をしているのだろうが、正直に言えばよくわからない。
なぜなら、顔の印象を決める最大の要因である「目」が見えないからだ。
彼は、アイマスクのようなものをつけて目を隠していた。
「な、なんだそれは……?」
そのアイマスクを見て、思わず女は呟く。
案内役の男がチッと舌打ちをするが、女にはそんなことに気づく余裕も無かった。
黒い布に、白い模様で複雑な紋様が描かれている。
ある部分は魔方陣のように円を描き、その中にびっしりと文字と幾何学模様が刻みこまれ、幾何学模様の一部が円を飛び出し、飛び出した先で別の模様と繋がっている。
それがいくつも続き、アイマスクの表面をびっしりと隙間なく埋め尽くしていた。
彼女でなければ、気づくことは無かったかもしれない。
そこに刻まれているのは、お洒落用の模様などではない。
その全ての模様に意味があり、その全てがある1つのことをするために収束していく。
その全ての模様が、高等技術を用いて描かれた魔法である。
そして、何かを「封印」するためだけに、その技術の全てが使われているということを、彼女は気づいたのだ。
スンスンと奴隷の男が匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。
「……あぁ、なんだ女かよ。
しかも魔法使いとか相性最悪じゃねーか、奥にいるヤツでも買ってけよ。
嬢ちゃんに俺は刺激が強すぎらぁ、カッカッカ」
奴隷の自覚など欠片も無いような発言に、女は唖然としてしまう。
ついでに軽く馬鹿にされたような気がするが、それに気づくだけの余裕はまだない。
「っつーわけで俺は寝る」
「寝んなバカ、少しくらいは愛想振りまけこの売れ残りが」
「そりゃ無理だぜ、俺はここの生活が気に入ってんだ。
年がら年中寝てりゃいいなんて中々できることじゃねぇぜ?」
「はぁ……、ったくこのバカが。
すいやせんね冒険者さん、こいつぁこの通りガタイはいいんですがこの性格でね。
あまりに買い手がいねぇもんだからこの下級部屋に入れてるんですわ。
悪いこた言わねぇ、あんたもこいつだけはやめといたほうがいい。
さ、さ、奥へ行きましょう」
「あ、おい」
男が焦るようにして背中を押してきたため、ろくな話もしないまま奥へと連れ込まれる女。
彼女が再び奴隷の男を見たとき、彼は藁の上にゴロンと寝転がるところだった。
不思議な、奴隷とは思えない男だった。
――――――――――
それから時は流れ、場所は変わる。
女は一本一本が人間の両手を広げた長さよりも太い木々の生える巨大な森の中にいた。
「燃え尽きろ!」
楕円のような形をした、直系3メートルほどもある炎が女の頭上に出現する。
面の大きい部分を正面に向けて、彼女が認識している敵へと向けてその炎を放つ。
向かっていく先にいるのは、4本の腕とトカゲの尻尾が刃物になったようなものを持つ熊型のモンスター「バーサクベア」だ。
熊と侮ると意外な機敏さに翻弄されあっという間に近寄られてしまい、5つの武器を使ったラッシュの前に散らされてしまう凶悪モンスターだ。
その手数は脅威であり、前衛を務めるベテラン冒険者でさえも苦戦は必死、魔法使いである彼女では一撃を防ぐことさえできはしない。
単独でこのモンスターに挑むのは推奨されないという高ランクのモンスターだ。
女が放った炎の魔法は大人が走る程度の速度で飛んでいくが、バーサクベアにとっては避けられない速さではない。
当然のようにこの魔法を避けようとするバーサクベアであったが、動物特有の直感はその行動をキャンセルさせることになった。
バーサクベアの後方から何かが高速で迫る。
金と銀と緑が残像となり、光の軌跡を残して衝突しようとしている。
その光の正体は、女性だった。
咄嗟に尻尾で薙ぎ払おうと、バーサクベアの刃物付尻尾が振るわれる。
光にぶつかったかと思われた瞬間、その尻尾はスッパリと切れた切断面を残し、宙を舞っていた。
「はあっ!」
掛け声が響くと同時に、バーサクベアの胸に剣が突き刺さり、貫通していた。
しかしその程度で死ぬようなモンスターではない。
ジタバタと暴れ、なんとか後ろにいる何かから距離を離し、目の前に迫る炎から逃れようともがく。
しかし後方から緑色の淡い光が放たれたと思った瞬間、人間とは比較にならない体重を誇るはずのバーサクベアの肉体が持ち上げられた。
地面から足が離れ、ふんばりのきかなくなったバーサクベアは炎に飲み込まれ、絶命するのだった。
「……ふぅ」
戦闘が終わり、周囲を警戒して他のモンスターがいないことを確認した女は一息つく。
バーサクベアは強敵であるため、彼女は少なからず緊張していたようだ。
「お疲れ様でした、ご主人様」
そう言いながら近寄ってくるのは、先ほどの剣を持っていた女だ。
女性の耳は長く、先がとがっている。
つまるところ、彼女はエルフという種族だ。
シルクのようにさらさらとした金色の髪。
熊をこの腕が持ち上げたとはとても信じられないようなスレンダーな体型を、緑を基調とした葉っぱをモチーフにしている軽鎧が包んでいる。
手に持つ剣は銀色に輝いており、ぼんやりと光を放っている。
ニコリと首を傾げながら笑い、水の入った袋をさりげなく渡してくるエルフ。
この笑顔だけでも普通の男性なら胸を撃ち抜かれたであろう、それほど見事に整った顔立ち。
「ああ、うん。
ありがとう」
「いえ、当然のことですから」
エルフは踵を返し、バーサクベアの死体を収納する一時的な異空間を作り出す魔法の準備に入る。
このキビキビとした動きを見ていると、女はいい買い物をしたと思わずにはいられないのであった。
紹介されたこのエルフの金額はかなりの高額だった。
しかしその内容を聞いてみればそれも納得できる。
冒険者でこそ無かったが、モンスターとの戦闘経験があって剣を使う回避系の前衛向きスタイル。
魔法も自己強化や簡単な治癒系、補助系が使える。
時間さえかければ魔法使いと同レベルの威力を持った魔法も使えるという、実践には耐えられないレベルの時間がかかるそうだが。
そこにスタイルのよさと見た目の美しさがあって、しかも女性となれば自然と値段も高くなる。
さらに今の戦いのように、下手な冒険者より強いのだからそれはもう普通の奴隷とは比べものにならない
この調子で資金を稼いでいければ、決して高い値段では無かっただろう。
収納を終えたエルフと共に帰路につくころには、あの牢屋で出会った不思議な奴隷のことなどすっかり忘れてしまっていた。
――――――――――
「よォ、久しぶりだナぁ」
二人は街に戻り、冒険者組合と呼ばれる依頼斡旋所兼素材換金所に来ていた。
そこで仕留めたバーサクベアを提出し、依頼の達成と共に素材の換金をしていた時、アゴが噛み合っていない人物が無理矢理声を出しているかのような言葉が聞こえてくる。
女が振り返った先にいるのは、ブがつく細工を創造の神に施されたかのような男がそこに立っていた。
口が裂けたかのように頬についている傷が痛々しく、肉の一部が消失して常に歯が見えており、醜悪な笑顔を浮かべているようにも見える。
その男が視界に入った瞬間から、女の表情は汚物を見たかのようなものになっていた。
「……何の用だ」
口を開くのも嫌だと言った感じに、短く手早く言葉を出す。
「ツレねぇこと言うなヨ。
こっちはおめェがいなくなって苦労シてんだ。
また一緒にヤろうぜ、昔のこたァ水に流してヨ」
ブ男はひどく聞き取りづらい声を出しながら、女に向かってゆっくりと近寄ってくる。
剣を振れば届くかと思われる間合いにまで近づいた瞬間、女とブ男の間にある床から爆発音が響いた。
「……近寄るな」
床は黒く焦げ付き、僅かではあるが煙を生み出していた。
小規模な爆発の魔法を女が床にぶつけたのだ。
もう2~3歩でもブ男が前に出ていたら、焦げていたのは彼の足だっただろう。
「あんなことをしておいて水に流せだと?
どのツラを下げてそんな言葉が言えるんだこの不細工が」
汚物を見るような表情が、怒りを全面に押し出したものへと切り替わる。
この男こそが、女が以前共に行動していた冒険者だ。
共に戦い、共に依頼をこなし、そして襲われそうになった相手なのだ。
魔法を至近距離で放たれ、しかもその使い手に怒りを向けられている。
普通であればこの時点で萎縮し、逃げるという判断をしてもおかしくはない。
一人前の域に達していない冒険者であれば、この時点ですぐに退いていただろう。
「てめェ、ヤろうってのか?」
だが、このブ男はその一人前の域に達している冒険者だった。
実力だけを見ればベテランのそれと大きく差は無い。
共に行動していたことで、その強さは理解しているだけに女は焦り始めていた。
「てめェが俺に勝てると思ってんのかヨ」
勝てない。
それが女の知る事実。
襲われた時も、逃げ出すだけで精一杯だった。
この場には奴隷であるエルフがいるが、それはブ男も同じこと。
魔法を放った瞬間から、ブ男の向こう側にある丸テーブルに座っていた男達が立ち上がって戦闘体勢をとっている。
かつてブ男と一緒に依頼をこなした、頼もしかった4人の仲間達がそこにいる。
逃げた時でさえ、1対1だった。
エルフも男達と同じように戦闘体勢に入っているが、恐らく勝ち目は無いだろう。
ならばこの場はとっとと逃げ出そう、どうやって逃げればいいだろうか。
逃亡手段を考え始めた瞬間、ブ男が言い出した言葉にその思考が止まってしまった。
「『願いの宝珠』なんて本気で信じてるヨうなお嬢様が、俺に勝てルと思ってんのかって聞いてんだヨ!」
凄みを増して圧力さえ感じられるほどの殺気を放つブ男。
だがそれ以上に、放たれた言葉の意味を理解できずに女は硬直していた。
「……どういう、どういう意味だ」
「あァん?」
ブ男の後ろにいたかつての仲間たちが声をあげて笑いだしていた。
その単語を聞いた関係のない冒険者達も、声こそ出していないが笑いを耐えているのが女の視界に写る。
「ケヒヒ。
おめでてェ頭してるよなァ、てめェの頭ん中はよォ。
ありゃ伝説の魔道具なんかじゃねェんだヨ。
人間が考えた偽もンの、存在しねェ魔道具のことなんだヨ!」
その言葉を聞いた瞬間、女の表情は絶望に染まる。
彼女の目的は、正にその魔道具だったのだ。
「な……なん……」
「ケヒヒヒヒ!
何でも願い事を叶えてくれるなンて都合が良すぎると思わなかッたのかヨ!
ああ、そういやてめェにゃちゃんと説明したことナかッたっけなァ?
てめェが宝珠宝珠言うたびに笑いを堪えるのが必死だッたゼ!」
馬鹿にしたブ男の高笑いが響く。
仲間たちもそれに同調するように笑い始め、その場が馬鹿にした笑い声に包まれていく。
それにつられたのか、全く関係の無い者たちでさえ小声で内容を話し合い、失笑するという行動を繰り返していた。
しかし女には、その全てが聞こえない。
何も聞こえない、何も耳に入ってこない。
願いの宝珠が必要だった、そのために冒険者になった、そのはずだった。
彼女の視界には、もはやブ男でさえも見えていない。
未来に続くはずだった希望の光が閉ざされた、真っ暗で何も無い空間、それが彼女の視界に写る全てだ。
「わ、私は……『願いの宝珠』を手に入れて……」
「おォ、そんで生き返らせるんだよなァ?
憎い憎い魔族にブッ殺された、愛しい愛しいお父様とお母様をなァ?
生き返ったお父様の息子にしゃぶりついて、お母様のおっぱいちゅーちゅーするんだよなァ?
ケヒヒヒヒヒヒ!」
下品な言葉でさえ、この場では笑いのタネにしかならない。
そんな言葉を耳に入れたというのに、女の頭にはそれが情報として処理されることはない。
ただの空気の振動が、彼女の体を震わせるだけだ。
「私……は……」
何か言おうとしていた口は、空気を震わせることは無かった。
なぜなら唐突に、彼女の体の内側から重厚な年越しに鳴らされる鐘のような音が響いてきたからだ。
それも1度ではなく、2度3度と一定のリズムを持って連続的に響く。
「ナんだ!?」
「これは、城からの緊急事態警報!?」
「……あ」
「クソがッ!
モンスター共の襲撃かヨ! てめェら、行くゾ!」
ブ男とその仲間達は事態を理解したのか、手に武器を持って建物をすぐに出て行く。
他の冒険者達も同様に、飛び出すようにして建物を出て行った。
残されたのは、慌しく動き回る建物の職員たちと、未だに放心している虚ろな目をした女。 そしてその奴隷であるエルフだけだった。
「ご主人様……」
エルフの言葉に、女の目に少しだけ光が戻る。
「……すまない、私たちも行こう」
「……はい」
フラつきながらも、緊急時には参加することが義務付けられている冒険者のルールに従い、女は建物の外へと歩き出す。
その足取りが、その背中が、その気配が、死場を求めてあるく幽鬼のようで、エルフは最悪自分が犠牲になってでも、そんな覚悟を一人決めるのだった。
それが、あの地獄のような奴隷屋から自分を選んでくれた主人への、せめてもの恩返しになると信じて……
――――――――――
「城門が破られンぞォ!」
「数が多すぎる!
なんでこんな近くに来るまで見つけられなかったんだ!?」
「魔法使いどもは何やってんだ!
さっさとでかいのぶっ放せ愚図ども!」
城門付近、モンスター達が押し寄せてきている場所は混沌としていた。
人間が十人横にならんでも余裕がありそうで、高さに至っては5メートルはありそうな巨大な木製の城門が閉じられている。
その門から出た草原では、人間とモンスターの軍勢が大乱戦の真っ最中だ。
沸いて現れたかのような大量のモンスター達はすでに結構な数が城門に取り付いており、人間を遥かに超えるパワーや炎の吐息などで城門を破壊しようと攻撃を加えている。
人間達もそれを引き剥がそうとなんとか奮闘しているが、次から次へと現れるモンスターの数に押されている状況だ。
進入を防ぐために門を閉じてしまったため、騎士団や冒険者達は別の門まで迂回せねばならず応援が遅れている状況だ。
一部の状況を予想していた指揮官や冒険者の集団が城門の前に集まり、城門が打ち破られることを前提に戦闘態勢をとっている。
そしてそれが効果を発揮するまでに、そんなに時間はかからないだろう。
女とエルフが現場に到着したのは、彼らが戦闘の準備をちょうど終えたところだった。
「……」
城門にドンドンとノックをするような衝撃が加えられ、巨大な門がその度に歪み、軋む。
誰もがその光景に興奮と緊張、勇気と恐怖を感じて様々な感情を含んだ表情になっていく中、女だけは無表情な顔に虚ろな瞳を崩すことが無かった。
何か言葉をかけなければならないとエルフが考えた瞬間、事態は動く。
炎の出ない爆発が、城門を吹き飛ばした。
破壊された城門が、城門に使われていない素材と、赤い色をした何かと共に空中を舞う。
それは城門の外で戦っていた冒険者達の装備品と、冒険者自身の肉体が千切れたかつて生物だった物体。
飛び散る破片が地に落ちるのも待たず、破壊された城門からは大量のモンスター達が雪崩のように流れ込んでくる。
外にいた冒険者達の生存は、絶望的だろう。
「おら行くぜモンスターどもがぁっ!」
「な、なんだよこの数!?
お、俺は逃げるぞ、逃げるからな!?」
「臆病者はとっととひっこみやがれ、邪魔だ!
俺が英雄になるチャンスだイヤッホーーーゥ!」
「嫌だ嫌だ嫌だ、俺は死にたくない!
俺は死にたくないっ!」
ある者は喜び勇んで戦場に飛び込んでいき、或いは予想以上に多いそのモンスターの群れに恐怖し逃げ出す。
指揮系統も何もない冒険者達の行動に、騎士団は集団行動を邪魔されて中々行動に移れないでいる。
この場も混沌とした状況になるのに時間はかからなそうだ。
前線から少し離れた場所にいた女とエルフのそばに、ビチャりと水の滴る雑巾が落下したような音がした。
「……あ」
そこに落ちていたのは、先程まで生きていたあのブ男だった。
胸から下が何かに食われたかのようにごっそりと無くなっており、その顔には苦悶の表情が浮かんでいる。
「……う……あ……」
人の死を見たことがないわけではない。
間近で誰かが死ぬ瞬間を目撃したことだってある。
この世界の命は安い、金で買えるほどに。
だというのに、ブ男の死はなぜか彼女の心を強く揺さぶった。
ブ男に特別何かの感情を持っていたわけではない。
負の感情こそ持っていたものの、それがこのブ男の死を悲しむことに繋がりはしない。
彼女の心が揺さぶられた原因は、その死にかた。
彼女の脳裏に、かつての悪夢がフラッシュバックする。
彼女が冒険者として生きることになった瞬間を、彼女の両親が殺された瞬間を。
彼女がドアを開いた瞬間に飛んできた、胸から下を食いちぎられた父親。
その部屋の奥で、犯されながら肉体を食われていた母親。
入ってきた自分を見て、ニヤリと笑う魔族の姿。
「うあ……う……ぁ……」
ブ男の死体と、父親の死体の映像が重なる。
城門から溢れてくるモンスター達が、あの時の悪魔の姿に重なる。
たまたま目に映ったモンスターの一体が浮かべた笑いが、悪魔の浮かべていた表情に見える。
彼女は、その瞬間にキレた。
「うあああああああぁぁぁぁぁっ!」
爆音と共に、彼女の周囲から炎が立ち昇る。
その炎が彼女の頭上に集まり、次々と球体になっていく。
それらはすぐに飛び出すことをせず、彼女の頭上を2度3度と旋回した後で、一箇所に集まって合体していった。
10個ほどが合体を終えた時、そこに出現していたのは小さな家ならば飲み込んでしまいそうなほど巨大な炎の塊。
「死ね、死ねえええええぇぇぇ!」
彼女が手を振り下ろし、その炎をモンスター達が入ってくる城門へと向かって放つ。
「ダメですご主人様!」
エルフがその行動を制止しようとするも、炎はすでに彼女の手を離れた、もはや止めることはできない。
炎はその巨大さからは想像できないほど早く、投げられたボールのように飛んでいく。
モンスター達が溢れ出る門に向けて。
まだ戦っている冒険者のいる場所へ。
炎が城門の残骸と接触する。
その巨大さに比例するかのような、大爆発が門のところで起こる。
城門の残骸はかつて門がそこにあったことさえわからなくなるほどに跡形もなく破壊され、周囲にいたモンスター達はほとんどが消し飛んでいる。
だが、消し飛んだのはモンスター達だけではない。
そこで戦っていた冒険者達も、同様に消し飛ばされていた。
「チッ、錯乱しやがった」
「おい! あいつの前に立つな!」
「誰かあいつを殺せ! キレた魔法使いなんかモンスターより厄介だ!」
被害に合わなかった人間達が揃って道を開け、彼女の直線上からいなくなる。
誰だって死にたくは無いし、モンスターと戦って死んだならまだしも、仲間であるはずの人間から殺されるなんてことはしたくない。
彼女の周囲からも人は離れ、エルフ以外は誰もいなくなった。
「くっ」
エルフは剣を抜き、自らに身体強化の魔法をかける。
破壊された門の向こう側から、まだまだ数の減らないモンスター達が押し寄せてきているのが見えたからだ。
それは女も同じだったらしく、さらに炎の魔法を使い始める。
「死ね、死ね、死ネ、シネえええぇぇぇェェェッ!!!」
今度は炎を一箇所に集めず、球体になったものからすぐにモンスター達に向けて放ち始める。
連続して放たれる炎に命を刈り取られていくモンスター達。
しかしその圧倒的なまでの数を殲滅するには至らず、徐々に門から内側に入り込んできている。
モンスター達は少しでも広いほうへ、自由に動けるほうへと移動していく。
そして冒険者や騎士達は、彼女の魔法の巻き添えになることを恐れて左右へと分散していた。
それは自然と左右へ向かおうとするモンスター達を押しとどめ、彼女の方向へと少しずつ数を増やしながら進んでくる。
「ぜぇー、ぜぇー……はぁ、はぁ、はああぁぁぁっ!」
噴出していた炎を全て彼女の前方に集め、巨大な炎の壁となったそれを押し出すように放つ。
津波のようになって襲い掛かる炎の波。
モンスター達の軍勢に襲い掛かり、無慈悲な死という結果を撒き散らす魔法という技術。
しかし、その魔法は前線にいた僅かなモンスターを焼いたところで、唐突に消えた。
「はぁっ、はぁっ」
魔力切れではない。
魔法は一度放たれてしまえば、例え術者が死のうともその効果を発動し続ける。
誰かが、その魔法に正面から魔法をぶつけて相殺しない限り、だ。
炎が消えた場所には、表面がつるりとした真っ黒な球体が浮かんでいた。
「ほう、人間にしては中々できるヤツがいるではないか」
球体の輪郭が崩れ、巻きつけられていた布をめくるように剥がれていく。
それと共に周囲に濃厚な魔力が漏れ始める、しかも人間にとって有害な瘴気を含んだ魔力が。
それは魔族。
人間とは比較にならないほど強力な肉体と魔力を持つ、モンスター達の祖と呼ばれる存在。
時にそれは王を名乗り、魔王と人に呼ばれるモンスター。
球体から全ての布が剥がれた時、そこにいたのはその魔王だった。
「ぜっ、ぜっ、はっ」
短い呼吸、焦点の合わない視界。
女は魔力の使いすぎによって、限界を迎えようとしていた。
これ以上魔法を使うことは、彼女の命にさえ関わる。
「フッ、しかも女とはな。
どれ、俺が直々に『食って』やろうか、ククク……」
「うおおああぁぁっ!」
それでも、彼女は魔法を放った。
先程までの魔法とは比べるべくもない、弱々しいバレーボールほどの大きさしかない普通の炎魔法を。
それでさえ、打てるだけで彼女の魔力量の多さに驚くほどのものではあるのだが。
炎が魔族に迫り、接触する。
そして、魔族は何でもないかのように軽く手を振り、火球を明後日の方向に弾き飛ばす。
「フン、それだけ魔法を使ってなお魔法を放つか。
根性だけは大したものだが……所詮人間ではその程度が限界だろう」
ゆっくりと歩き出す魔族。
その姿をしっかりと見つめる女。
エルフが構えた剣で、せめて一矢だけでもと飛び出そうとしていた瞬間だった。
「貴様が……」
魔力切れでフラフラとしながらも、女は尚強く魔族を睨みつけ、力強く立っている。
「貴様がっ! 貴様があああああぁっっ!」
女は、持っていた杖を強く握り締め、魔族に殴りかかった。
それは魔法使いとしてありえない暴挙、肉体の強さが伴わない魔法使いとして、絶対に行ってはいけない行動。
「ほう……」
関心したような表情の魔族が立ち止まり、あえて受け止めてやると言わんばかりに全身を無防備にする。
「貴様が、貴様がっ!
私の父上と母上をおおおっ!」
「ご主人様っ!」
「ふむ」
魔族がニヤリと笑う。
弱いものを甚振ろうとする者特有の、濁った瞳で女を見つめる。
女は視界が霞んでいるためなのか、怒りで我を忘れているためなのか、その表情に気づく素振りもなく真っ直ぐに突っ込んでいく。
女の杖が魔族の頭にぶつけられる直前に起こったことは、3つ。
1つはエルフが女と魔族の間に入り込み、女の体を無理矢理止める。
1つは魔族の体から大量の魔力が放出される。
そして最後の1つ。
放出された大量の魔力が衝撃波となり、周囲を破壊する。
魔力の爆発。
魔族だけが行える、原始的でいて圧倒的な魔力の保有量があるからできる芸当。
中心地である魔族の周囲はクレーター状にえぐれ、近くにいた彼女達はもちろんのこと、冒険者達もモンスターでさえも、周囲にあった家でさえも吹き飛んでいた。
「がはっ」
「ぐっ、くぁ……」
近くにあった石製の家の壁にぶつかり、その勢いを止めた二人。
エルフはその衝撃で気絶してしまったらしいが、それでも女をかばうようにして覆い被さるように倒れ、その腕を女から離そうとはしなかった。
「あっ、ぐぅ……」
女のほうは、魔力切れと疲労に加え魔力の衝撃によって大ダメージを負ったらしい。
瘴気を含んだ魔族特有の魔力にあてられたのか、体も満足に動かせそうにない。
「クックック。
魔力の多い人間にエルフ、しかも両方女と。
やはり直接出てきて正解だったようだな」
ゆっくりと歩いてくる魔族の姿が女の目に映る。
ひどくゆっくりとした歩調も、警戒も何もしていないその姿勢も、油断しきっている。
油断しきっていて、今であれば一矢報いるくらいは簡単にできそうな状況だ。
そんな状況であるのに、その一矢を行う手段が存在しない。
彼女の視界はもはやぼやけ始め、意識を保つことさえ難しくなってきている。
このまま何もできなければ、待っているのは死だろう。
彼女の母親と同じように、犯されながらにして腹を裂かれ、首を噛み千切られ、女としての尊厳をズタズタに引き裂かれながら殺されるのだろう。
知らず彼女の頬を涙が流れる。
自らの死を恐怖したから流れたものかもしれない、彼女の母の死に様を思い出して流れたものかもしれない、何の関係もないこの優しいエルフを巻き込んでしまったことを悔いて流れたのかもしれない。
なぜ泣いているのか、正確な理由を彼女は言葉にすることはできない。
それでも、それでも1つの言葉にするならば、悔しかった。
何もできなかった、強くなったのに、何もできなかった。
結局のところ、何もかもが無駄だったのだ。
願いの宝珠なんて無かった。
魔族を倒すなんてできなかった。
自分が生きてきた意味なんて、無かった。
それを、目の前で証明されてしまった。
何の価値もない人生を歩んできて、誰にも知られずに死んで、魔族に傷をつける程度のことでさえできなかった。
彼女の人生は、その程度だった。
魔族の目が、そう言っている気がして、彼女は泣いていた。
「いんや、間違いだろ」
涙で滲み、朦朧とした意識の中では視界もしっかりとしない。
それでも、その瞬間だけはなぜかはっきりと彼女の視界に映った。
「なっ、ぐぶぁっ!?」
それは、人間同士であれば何でもない普通の光景。
冒険者でも何でもない、その辺の一般人でも起こりえるもの。
ちょっと酒に酔った勢いで起こってしまうことだってありえる、ありふれた状況。
それでも、魔族を相手にそれができる者はそうはいない。
殴られた。
ただそれだけのことが、彼女の目の前で起こっていただけだ。
スローモーションでその光景を見ていた女は、時間が元に戻った瞬間に殴られた魔族が高速で吹っ飛ぶのを見て驚愕していた。
殴られたその光景も驚きだったが、何よりそこに立っていた殴った張本人に見覚えがあったからだ。
そこにいたのは、奴隷屋にいた奴隷らしくない変人だった。
「……あ」
「あん?」
あの時と何も変わらない服装と、無骨で分厚い鎖でつながった両手の手錠。
相変わらずのアイマスクをしているのに、実は見えているのではないかと疑いたくなるほど正確に、奴隷は女のほうへ顔を向ける。
「あぁ、なんだあん時の嬢ちゃんじゃねぇか。
こんなとこで何やってんだ?」
緊迫した空気などまるで感じさせない、相変わらずの暢気な調子で奴隷は話しかける。
その声の調子がどこかズレていて、なぜか安心できて、彼女は不思議な気分になっていた。
なぜかはわからないが、もう大丈夫なような気がして。
魔族が近くにいるというのに、この奴隷がなぜか勝ってしまうような気がした。
「まぁいいや、俺は俺の……」
言葉の途中で、魔族が吹き飛んだあたりから土煙が噴出し、再び周囲のものを全て吹き飛ばす。
「貴っ様ぁぁぁああ!」
頬に殴られた跡が若干残っている魔族が、怒りに身を震わせて飛び出してきた。
「人間風情がっ、この俺様の顔を殴りやがったな!」
「おぉ殴ったぜ、てめぇみてぇな馬鹿は殴んなきゃ治んなそうだからな」
「死ね!」
何の技も無い、ただ魔力を込めただけの拳が振るわれる。
ただの人間であれば、それだけでも避けるべき現象だ。
例えカスっただけでも体を抉り取られ、致命傷が生まれてしまうような攻撃だから。
「あぶなっ……!」
無駄だとわかっていても、女は声を出さずにはいられない。
言葉をかけることで、少しでも死の危険から遠ざかってくれると信じて。
しかし、奴隷は予想外の行動に移った。
魔族の拳に対して、左腕を使ってすくい上げるようにその拳を逸らし、上空へとベクトルを無理矢理変更させる。
同時に右腕を握り締め、魔族の顎に向けて――――
「あがっ!?」
――――強烈なアッパーを叩き込んだ。
魔族相手に肉弾戦など、はっきりいって常軌を逸している。
強力な魔力を常に纏う魔族の肉体は、それ自体が武器といってもいい。
あらゆる物質に悪影響を及ぼす瘴気を含んだ魔力は、弱い人間であれば触れただけでも少なくないダメージを負ってしまうのだ。
最低でも魔力を持った武器がなければ、ダメージどころか触れることさえ適わない。
それが彼女の知る魔族であり、冒険者の常識であり、そして魔族にとっても常識だった。
「ふんっ」
アッパーを叩き込んだ勢いのまま、男は両手をそれぞれ反対方向へと大きく広げる。
その結果起こった現象は、彼の両手を繋いでいた鎖があっさりと引きちぎられ、四肢の自由を得るというもの。
彼は、その気になればいつでも鎖を外すことができたのだ。
「終わりかよ、お坊ちゃん」
ニヤリと口角を持ち上げ、魔族を挑発する奴隷。
その狙いが隙を作るためなどであれば誉められた行動だったかもしれないが、本当にただ挑発しただけのようだ。
「ぐっ、この、このっ!
人間程度に、人間程度にっ!」
魔族の怒りが高まるのと共に、彼の周囲に撒き散らされていた瘴気を含んだ魔力が凝縮されていく。
限界を超えて圧縮されていく魔力は膨張と収縮を繰り返し、空気を、大地を震わせる。
地鳴りと暴風吹き荒れる中で、女はその魔力が解き放たれただけでも周囲一体を塵にできるのに、さらに魔法に転化して威力をあげていることに気づいた。
もしこの魔法が完成してしまえば、周囲一体どころかこの街そのものが消滅してしまうだろう、というほどに強力なものだ。
「――――っ!」
すぐに止めるようにと叫ぶが、風が酷すぎて音が奴隷に届かない。
男はどれだけ恐ろしい魔法が発動しようとしているのか気づいていないようで、余裕の笑みを浮かべたまま動こうとしない。
なんとかして止めなければと、彼女が少しでも大きな声を出せるように息を吸った瞬間。
「もういい!
この国も『願いの宝珠』もどうでもいい!」
魔族が放った言葉は、彼女にはっきりと聞こえた。
存在しないはずの、人間が作り出した偽者の魔道具の名前が、この魔族の口から出てきた。
その言葉がどれだけの信憑性があるかもわからないというのに、彼女の動きはその瞬間に止まった。
その一瞬生まれた間を、彼女は死ぬほど後悔することも知らずに。
「消えろ人間がっ!」
放たれる魔法、魔族から噴出する真っ黒なエネルギー。
それはやはり衝撃波となり、彼を中心とした大爆発を生み出す。
過程は同じでも、生み出される結果はさっきとはまるで違う。
恐らくは、何もかもを飲み込んでいき、何もかもを消滅させてしまうのだろう。
女も、エルフも、奴隷も、冒険者も、騎士も、モンスターでさえも。
絶望という言葉が彼女の頭に浮かぶ。
黒い絶望が、形を持って迫ってくる。
何も変わらず、奴隷に声をかけることさえできなかったことが、彼女を激しく後悔させる。
変えられたかもしれない未来を、私情によって生み出された僅かな隙のせいで、変えられなかった。
結局、何も変えられなかったことを、彼女は後悔した。
それが、無駄な後悔だとこの時点で気づくことはできない。
「へっ、だから坊ちゃんだってんだよ」
大爆発が迫る中、空気が押しのけられ、大量の押しのけられた空気が肺を圧迫している。
まるで息を止めているかのような状況だというのに、彼の声はよく聞こえた。
爆発がやけにゆっくりと迫ってくるように見える光景の中、奴隷のその行動がはっきりと女には見えた。
アイマスクを引っ張るようにして外す。
未だに目を閉じていたが、その顔は驚くほどに整っている。
その硬く閉じられていた瞳がゆっくりと開けられていき、完全に開ききった瞬間に状況は一変した。
白目の部分が黒く、瞳孔は赤く、そしてその両方に金色の文字で魔方陣が描かれ輝いた瞬間。
消えた。
爆発が、瘴気が、膨大な魔力の奔流が。
全て、唐突に消えた。
魔族の起こした現象だけに限った話ではない。
普通であれば空気中に、道端の石ころでさえ僅かに宿る魔力が、全て消失していた。
いや、「していた」という過去形でさえ無い。
わずかに残り、少しずつではあるが回復していたはずの女の魔力でさえ、現在消失している「最中」だ。
何の脈絡も予兆もなく、唐突に理由もなく消えていっているのだ。
「ぐぁあああっ!?
き、貴様それはあぁっ。
なんで、なんで貴様がっ、なんでこんなところにいるんだ『消滅させる者』!」
「それに気づかねぇから、坊ちゃんだってんだよ」
膨大な魔力を保有する魔族。
肉体のほとんどに魔力が宿り、魔力があることが前提で肉体が存在する魔族という種族。
それはつまり、魔力が消えてしまえば生きることさえできなくなってしまうということを意味していた。
魔族は体が急激なスピードで目に見えて痩せ細っていき、苦悶の表情を浮かべて体を抱きしめるようにしてもがき、苦しんでいる。
「い、イヤだ。
死にたく……な……い……」
やがて力尽き、地に倒れてしまう。
その姿が灰のような砂へと変わっていき、着ていた服だけが地面に残る。
「……てめぇが殺してきたヤツらも、そう思ってたんだぜ?」
服が風にさらわれ、空を飛ぶ。
奴隷はアイマスクを再びつける。
その瞬間から魔力の不自然な消失が止まり、女の魔力も回復を始める。
「……」
何か言葉を、そう思うのと、彼女が意識を失うのは同じタイミングだった。
旅立った夢の世界で、彼女は無き父と母が笑っているのを見ることになる、しかし彼女がそれを覚えていることは恐らく無いだろう。
――――――――――
「勇者現る……か」
モンスターの襲撃が終わり、破壊された街並みの復興作業にたくさんの人間が右に左に走り回っている。
未だ戦いの跡が残る街道を歩き、魔族と相対した場所に女は向かっていた。
その手には新聞が握られており、今回の襲撃のことを大きく報じている。
特に大きく描かれているのが、大量のモンスターを前に剣を構える片手剣を持った男と、それに並ぶ数人の男女の後姿。
「大活躍だったみたいですね。
あの大軍勢を勇者一行だけで押し留めたとか」
「……そう、なんだろうな」
女はその光景を直接見たわけではない。
恐らくその状況になったのは、女が気を失った後なのだろう。
彼女が覚えているのは、肝心の勇者達が来る前に起こった出来事だけだ。
もし、あの魔族が倒されていなかったら、そう考えると女は素直に勇者達を讃えることができない。
あの魔族とモンスターの大軍勢と、どちらが脅威だったかと言えば女は間違いなく魔族だったと答えるだろう。
単体でこの街を崩壊させるほどの力を持っていたのだ、当たり前の感想だろう。
最後に放たれた攻撃を防ぐことができなければ、勇者達でさえ何もできずに死んでいたのではないだろうか。
そう思わせるだけの力が、あの魔族にはあった。
はっきり言ってしまえば、あの奴隷が魔族を倒してくれたから、勇者達が活躍できたのだ。
だというのに、新聞には魔族が出現したことさえ描かれていない。
まるで全ての手柄が勇者達のものであるかのように、勇者達をひたすら褒め称える内容になっている。
それに釈然としない気持ちを抱えてしまっているのは仕方がないことだろう。
「ふぅ……」
溜息を吐き、少し前方を見る。
気がつけば大分歩いていたようで、あの時気絶したあの場所に来ていた。
未だ破壊の爪痕ははっきりと残り、魔族の作り出したクレーターや無残に破壊された家が手付かずのまま残っている。
「やっぱり残ってない……な」
「……?」
だが、それだけだ。
魔族が出現すれば、その場には必ず瘴気が残される。
呼吸するように自然に瘴気を生み出す魔族にとって、それは意図して残すものではない。
だからこそ、魔族が出現したということを証明するためには、瘴気が残っているかどうかが決め手の1つとなる。
しかし今、その場には破壊の爪痕こそ残るものの、瘴気らしきものは欠片も残ってはいない。
いっそのこと、悪い夢でも見たのではないかと思いたい。
魔族なんて出現しなかった、奴隷も最初からいなかった。
きっと魔力の使いすぎで弱っていたところを適当なモンスターに襲われ、エルフと一緒に気絶してしまっていたのだろう、そして都合のいい夢を見たのだ。
そう信じてしまおうと、あれが夢であったと思い込もうとする。
その証拠に、この場所には何も残ってはいない。
そう思い、自分が倒れた場所へと視線を向ける。
「……っ!?」
何か、見覚えのあるものが視界に映る。
それが何なのかは咄嗟にはわからないというのに、なぜか妙に気になるものが。
黒い色をした、鎖の欠片のようなものが。
「……これ……は?」
「それがどうかしたんですか?」
これは証拠だ。
ここに、魔族が出現した。
そしてあの奴隷も確かに存在していた。
その瞬間を、確かに目撃した。
あの時、奴隷が引きちぎった手錠の一部だ。
「……行こう」
「?」
「……あいつを探すんだ」
あの奴隷はここにいた。
魔族を素手で殴るような阿呆で、魔力を消し去る力を持っているあの奴隷が。
魔族に「消滅させる者」と呼ばれていた理由はわからないが、もしかしたら「願いの宝珠」のことも知っているかもしれない。
もし、知っているのなら。
もし、願いの宝珠が偽者などではないのだとしたら。
それを聞くためだけでも、彼にもう一度会いたい。
彼女の意思は、決まった。
「行こう」
彼女は再び歩き出す。
モンスターの攻撃と、自らの魔法によって破壊された城門へ。
焼け焦げ、黒く煤けた城門の向こうには大地が広がる。
モンスターの大群によって踏み鳴らされ、木々が押し倒され、踏み潰され、均された大地が。
無限に続くように見えて、何も道標が無いように見えて、目的地がどこなのかもわからない。
それでも彼女は一歩を踏み出す。
向かう先が、決して日の当たらない「陰」の世界であることなど考えもしない。
それでも彼女は、自ら選んでその世界へと進んでいく。
その歩みに、迷いは無かった。
これは、表舞台にあたる「陽」の世界の物語ではない。
これは、舞台の裏側でひっそりと幕を開け、そして閉じていった「陰」の世界の物語。
今となっては、そんな物語があったことさえ誰も知らない物語……
―――完―――
この作品に関してはリンク・流用・コピペ等の行為に関してフリーとさせていただきます。
一部転用・全文コピペして名前だけ変更・この話を元に連載作品化させる等、ご自由にお使いください。
ただし以下のご注意をお守りください。
・自分の作品にしたから公開を停止しろ等の要望。
・自分のほうが先に考えていた、パクるな等という連絡。
・その他作者の執筆を妨害するような行為。