渇望
「お前が逃がしたのか?」
吹雪のような冷たい声が、背後からかけられた。
きたか、と、シエネは短く息を吐いた。
これから起こるであろう事を考えるだけで、身がすくむ。レオンは残忍ではないが、冷酷な男だ。人を、物を、切り捨てることに、何ら躊躇いがない。
彼にとっては、利用価値があるか否かだけが重要なのだ。そして、裏切り者の烙印を自ら進んで押してしまったシエネは、間違いなく利用価値の無いものに含まれるだろう。
「……逃がしたわ。私が」
自分でも驚くほど落ち付いた声で、シエネは答えた。
勝手に逃げたのよ、と、しらを切ろうかとも思ったが、レオンはそれが通じるほど甘い相手ではない。悪足掻きはするだけ無駄に違いなかった。
「何故だ?」
「あんたが、他の女の子にちょっかい出すのが、気に食わなかっただけよ」
「あの娘は人質だ。あの娘を使って奴を誘き寄せることも出来た」
「やめなさいよ。みっともない」
言ってから、しまった、と我が身の浅慮を呪ったが、もう遅い。
レオンの手が伸びてきて、シエネの胸倉をつかんだ。そのまま、近くにあった寝台の上に押し倒す。下が石の床だったら、昏倒では済まないくらいの勢いだった。
「もう一度言ってみろ」
声は相変わらず静かなものだったが、それだけに尚更不気味だった。抑えた怒りが爆発に変じたときが、一番怖い。
泣いて許しを請うたら、大目に見てくれるだろうか。
ああ、でも、その方がみっともないなぁ……。シエネは気丈に微笑んだ。
「何度でも言うわよ。みっともないって言ったの」
レオンが、純粋に銀の魔女のことが好きで、素直に彼女が欲しいと言えば、邪魔をする気などなかった。応援は出来ないが、見て見ぬふりをしただろう。
だが、憎い男の恋人だから、滅茶苦茶にしてやりたいと、その聞き苦しい言い訳が気に入らない。
「好きなら好きって、はっきり言えばいいのよ。別にふられたって構わないじゃない。そんなの気にしていたら、生きていけないわよ」
それに、と、シエネは、更にレオンの怒りを煽るようなことを口にする。
どうせ殺されるなら、その前に全部ぶちまけてしまおうと、半ば開き直った心境になっていた。
「ウォルターって人のことだって。憎い敵なら、小細工しないで真正面から打ち負かしてやればいいじゃない。あんたは魔法使いなんだから。ただの人間のウォルターより、今のあんたの方が何倍も強いはずよ」
シエネの胸元を押さえつけていた手が、首の方へと移動した。ひやりとした指の感触に、忘れかけていた恐怖心が湧き起こる。
「余計なお喋りは、俺には無用だ」
冷たい長い指に、力が入った。咽が潰され、肺から一気に酸素が搾り取られる。新たな空気を吸い込むことも出来ない。
そのまま首の骨をへし折られるのではないかという、凄まじい力だった。シエネの命を奪うのに、魔法すら必要ないということか。
微かな抵抗もすぐにやみ、レオンの腕を掴んでいたシエネの手が、するりと落ちた。
あと少し力を入れ、あと少し長くこの状態が続けば、間違いなく絶命するだろうという時に……。
レオンの手が、離れた。
「…………!!」
シエネは激しく咳き込んだ。身をよじり、首を、胸を、押さえ、喘いだ。涙が止まらない。
だが、朦朧とした意識の片隅で、信じられない事実に驚きもしていた。
自分は死んでいない。
自分は殺されなかった。
あれほど手酷い言葉を投げつけたにも関わらず……レオンは、最後の最後で、手を引いた。
レオン、と呼びかけようとしたが、声が出なかった。
喋れないシエネに代わるように、傭兵が口を開く。
「次に裏切ったら……その時は殺す」
「…………」
「俺が怖いなら、このまま出て行け。お前は今まで十分に役に立ってくれた……。一度は見逃してやる」
レオンは、シエネが望むような「持ち主を選ばない命の石」など作る気はない。
彼が彼女を仲間に引き入れたのは、単にシエネの持つレテの知識が欲しかったからだ。
二十歳を過ぎるまでレテに閉じ込められていたシエネは、実際、レオンにレテの様々なことを教えてくれた。彼女は力無き魔女ではあったが、その力の無さを補おうとするかのように、非常に博識で博学だった。
「あんたは、何がしたいの」
ようやく声が出るようになったシエネが、問いかける。
それは、彼女が初めてレオンに会った時から感じていた、変わることのない一つの疑問だった。
支配者になりたいわけでもない。
憎い男を殺すことも、惚れた女を手に入れることも、所詮は経過の一つにすぎず。決して、それが目的ではない。
「わからないのよ。あんたが。結局、何がしたいの」
「何も」
レオンは答えた。
感情のこもらない声だった。
「俺は、ただ、解放されたいだけだ。この、どうしようもない……飢餓感から」
いつも何かが足りない。
いつも何かが欠けている。
金を手に入れても、女を抱いても、自由に大地を駆け巡っても、駄目だった。ならば、権力でも得れば満たされるのかと考え、隣国の女王の情夫になって、人が羨む地位に就いたこともあったが……やはり飢えは止まらなかった。
虹石の模造品の力により、死が遠ざかった今でさえ、乾きは常に彼の心を苛み続ける。
終わらない……。
「わかるなら教えてくれ。……人は、どうすれば、満足できるものなんだ」