敵陣3
(駄目よ、ウォルター。ここには来ないで。貴方の町を滅ぼした傭兵は、もう人ではない。その力も、心も、人のものではなくなっている……!)
小さな窓から差し込む落日の光が、全てを赤く染め上げていた。
冬の日没は早い。間もなく辺りは闇に包まれて、長い夜が始まるだろう。
夜になれば、あの傭兵がこの部屋に踏み込んで来る。それは身震いするほど恐ろしかったが、それよりもユリアの心を占めていたのは、確実にザカリアに近付いているであろうウォルターのことだった。
(駄目よ。貴方の敵は、もう剣も槍も通じない相手かもしれないの……!)
こうしている間にも、レオンは実験と称して屍の兵士を増やしていることだろう。
そう……兵士なのだ。
屍たちは、誰彼かまわず襲うくせに、レオンの言う事だけは忠実に守る。意思などない木偶の坊に近いが、死体だけあって、刺しても斬ってもその歩みを止めることは出来ない。
「意外に落ち付いているわね」
扉が開いた。姿を見せたのはシエネだった。
レオンでないことに心底安堵しつつも、ユリアは固い表情を崩さなかった。シエネに対しては、敵の仲間、程度の認識しか持っていなかった。
「怖くはないの? 次にあいつが現れた時、自分が何をされるかわからないほど子供ではないでしょう」
「……怖い、です」
ユリアは素直に呟いた。
「でも……もっと、怖い事が……あります」
何も知らないウォルターが、単身、ここに乗り込んで来ることが、一番怖い。
レオンがウォルターに良い感情を抱いていないのは、すぐにわかった。それは、憎悪であり、嫉妬であり、どこまで行っても捻じれの位置でしかあり得ない、交わらぬ宿命のようにも思えた。
冷酷な傭兵は、屍の兵を動かして、容赦なく騎士を嬲り殺しにするだろう。騎士がいかに戦神から祝福された剣技の持ち主であろうとも、所詮は多勢に無勢。一度に百の、千の刃が殺到したら、防ぎきれるものではない。
「馬鹿みたい。この期に及んで誰の心配しているの」
無意識のうちに泣いていたのだろう。鬱陶しいと言わんばかりに、シエネがユリアの顔に何かの大きな塊を押しつけた。
慌てて顔をのけ反らせると、どさりと音を立てて床に落ちたのは、ユリアの旅の荷物だった。
「……え?」
「逃げたいんでしょ。さっさと行けば」
「で、でも」
「何よ」
「私を逃がして……貴女は大丈夫なのですか」
シエネはまじまじとユリアを見た。力なき魔女は力ある魔女が嫌いだったが、この娘は何か憎めないな、と、思った。
「人の心配よりも、自分の心配しなさいよ」
「あの、貴女も一緒に逃げませんか」
「はぁ?」
「だって……あの人、普通じゃありません。もし、貴女も、あの人に捕まっているのなら……」
「違うわ」
シエネは薄く笑った。
「あんな悪魔か悪霊のような男でもね……。惚れてしまう馬鹿な女はいるものなのよ」
それ以上、ユリアは何も言わなかった。荷物を拾い上げると、突然、その荷物ごとシエネに抱きついた。
「ありがとう……」
シエネは大きく目を見開いた。銀の魔女の体を押し返す。
やっぱりあんた馬鹿でしょ、と、皮肉っぽい言葉が口をついて出た。
「私があんたを騙しているとは思わないの」
「思いません」
あまりにもはっきりと言われ、次に続けようとしていた嫌味も、たちまち引っ込んでしまった。
「……わかったわよ。行きなさいよ。あいつに気付かれないよう、夜まで時間稼いであげるから」
何度も何度も振り返りながら、銀の魔女は、その場を去った。
「ありがとう……か」
大変なことをしてしまったとの自覚はあったが、なぜか、シエネの心は軽かった。レオンへの恐れも感じない。
「想い想われ……。いいわねぇ」
自分がそうなる事はない。
それどころか、彼の逆鱗に触れて、縊り殺されかねない状況だ。
「まぁ、いいわ。さすがのレオンも……自分を愛して、自分が殺した魔女のことは、忘れないでしょうからね」
ユリアは走った。走り続けた。
シエネが時間を稼いでくれている間に、少しでも遠く離れなければならない。
力ある魔法使いであるレオンは、近くにいれば、ユリアの気配を辿って追跡をかけるようなことも可能だろう。二度捕まったら、今度こそ助かる術はない。
(ウォルター……)
ふっと体が軽くなった。体中に纏わりついていた薄い膜のようなものが、さあっと溶けてゆくのを感じた。
(封じられていた魔力が……戻った)
彼の力が及ばない距離まで、逃げ切ることが出来たのだ。
ユリアはようやく足を止めた。酷使した全身が、緊張感が解けたことで、たちまち苦痛の悲鳴を上げ始めた。その場に倒れ伏してしまいたいほど疲れ切っていたが、また急かされるように歩き始める。
(もっと……もっと遠くへ)
転移の魔法を使おうか。
危険な、けれども魅力的な考えが、脳裏を過ぎる。
今度は転移先の座標を細かく指定しなくとも良いので、難度は確実に下がるはずだ。その距離も、前回と比べ、格段に短くて済む。
いつ追いつかれるかと、冷や冷やしながら遅い歩みで進むより、多少乱暴でも一息に飛んだ方が、良い結果をもたらしてくれるような気がした。
(……こんな事なら、レテにいる時、もっとちゃんと魔法を習っておけばよかった)
子供のころ、ユリアに魔法を教えてくれたのは、父だった。母はユリアが物心付いた時分には既になく、祖母は、どうしても探し出したい人がいるからと、遠く離れた王都に一人住んでいた。
父にとって、ユリアは決して良い生徒とは言えなかった。
真面目に勉強するよりも、ユリアはレテの野山を駆け回って同じ年頃の子供たちと遊ぶ方が好きだった。父もまた穏やかな気性の人で、それを咎めるようなことはしなかった。
ゆっくり学べばいい。父はいつもそう言っていた。
だが、そんな父が、ユリアが十二歳の時、流行病であっけなく逝った。父の知識の全てを継承するには至らず、またその頃には祖母も既に亡き人となっていたため、極めて中途半端な魔女のまま、ユリアは世間に放り出されたのだった。
(スウェンさんから学び直そうかしら……。アレクと、私と、二人も生徒を持ってしまったら、スウェンさん、大変かしら)
ついに歩くのをやめ、ユリアはその場にぺたりと座りこんだ。
ぽつ、と、冷たい何かが、額に当たった。
(雨……)
雨の帳は姿を隠すのには丁度良いが、このまま打たれていたら、すぐに体力を奪われてしまうだろう。
歩き続けようか、魔法を使おうか、迷っていたユリアに、急な天気の変化は一つの決断を促した。
(転移、してみよう。せめて雨を凌げる場所に……)
ユリアは目を閉じた。
冷たい雨が、容赦なく、華奢な魔女の身を叩き続ける……。




