敵陣2
こめかみに鈍い痛みが走った。
ユリアはそろそろと重い目蓋を持ち上げた。初めは視界が霞んでいたが、何度か瞬きを繰り返すと、やがて物の形がはっきりと認識できるようになってきた。
柔らかく差し込む光が、朝の訪れを教えてくれる。どうやら一晩まるまる眠り込んでしまっていたらしい。
ユリアはゆっくりと体を起こし、辺りを見回した。
狭い部屋だった。隅の方に、古い椅子とテーブルがある。ユリア自身は、床の上に敷かれた毛布の上に横になっていた。窓は決して大きくはないが、壁の上の方に位置しているので、室内は明るい。
不意に、目の前にある扉が、開いた。
現れたのは、金髪の若い男だった。深く鮮やかな紫色の瞳が、鋭い光を宿して、魔女を見つめていた。
彼の姿を見た途端、上から押さえつけられるような強い圧迫感を、ユリアは覚えた。
魔法使いだ、と、直感する。
それにしても、初めて会った気がしない。どこかで……。
「あ、貴方は……」
顔よりも、その気配に覚えがあった。だが、あまりにも記憶の中の色彩と違い過ぎて、現在と過去の二つの像が、すぐには結びつかなかった。
「久しぶりだな、銀の魔女。……俺がわかるか?」
男が一歩を踏み出し、魔女は無意識に後退さった。背中に冷たい壁の面が当たると、唐突に、逃げてはいけない、という戦う意思が、怯える心を凌駕した。
「金の髪に、紫の目。スウェンさんが言っていた……模造品の命の石を持っている傭兵……貴方だったのですね」
ふらつく足を励まして、立ち上がる。背筋を伸ばして真正面から対峙しても、相手の男の方が遥かに背が高く、やはり見下ろされる状況に変わりはない。私も男だったら良かったのにと、ユリアは我が身を歯がゆく思った。
目の前の男が、怖い。
怖くてたまらない……。
「名前は、レオン。私から、命の石を奪おうとした人」
ユリアは高い窓の方に視線を向けた。あの向こうに、揺り動かされた死者たちがいる。この明るい光の下でも、彼らは未だ彷徨っているのだろうか……。
「なぜ、こんな酷い事を。七年も前に滅んだ町の人たちをこんな風に貶めて、何が目的ですか」
「別に。俺は試していただけだ。実験台にたくさんの死体が必要だったから、昔滅ぼしたこの町が、お誂え向きだっただけだ」
「昔……滅ぼした……?」
何を言っているのだろう、この人は。
ユリアは、息をするのも忘れたように、ただ呆然として男を見つめていた。
滅ぼした。目の前のこの人が。ウォルターが住んでいた、大切な故郷の町を。
滅ぼした……?
「う、うそ」
「嘘など言っても始まらん。所詮は薄汚い傭兵どもの浅知恵。戦も起きず、徒労に終わったがな」
「や、やめて……」
では、男は、七年も前にこの町を滅ぼし、そしてまた七年後、悪霊のごとく舞い戻り、自分が殺したであろう町の人々の亡骸を、土の下から呼び覚ましたというのか。
そして、悪びれる様子もなく、試しただけ、と嘯いて……。
「貴方は……っ!」
ユリアは素早く呪文を唱えた。誰かを魔法で傷つけても構わないと思ったのは、初めてだった。
だが、力は発現しなかった。圧倒的に大きな何かに阻まれ、形を成す前に霧散した。
封じられている……! ユリアは目の前の男を凝視した。先程から感じていた恐怖の理由は、これだった。
彼の方が、強い。
彼の方が、上だ……!
「残念だったな、銀の魔女。お前では俺は止められない」
傭兵が魔女の腕を掴んだ。ユリアはもがいて何とか腕を外そうとした。
触れられるのも汚らわしかった。この男とはまともに話し合いなど出来そうもない。感覚が違いすぎる。亡くなった人にも家族がいて、その家族が未だ亡き人を偲んでいるなど、考えたこともないのだろう。
哀れな人だ。そう思った。人の心を知ろうともしない。人の姿をしているけれど、もう、この男は人ではない……!
「こんな事をして貴方は楽しいの? 満足なの? 今すぐやめて! これ以上、町の人を苦しめないで!」
「うるさい女だな……」
「貴方は可哀相な人よ! 狂ってるわ! こんな事、普通の人は絶対に出来ない。その力があったとしても、やらないわ! 人の痛みを知っているなら……!」
「黙れ!」
殴られると思った。顔に受けるであろう衝撃と痛みに備え、ユリアは反射的にきつく目をつむった。だが、そのどちらも襲っては来なかった。
無防備な唇に、何か温かいものが押し付けられる。男の気配を、息遣いを、間近に感じた。
「レオン!」
逞しい体をユリアから引き剥がしたのは、ユリアの悲鳴でも、ましてや男自身の良心でもなかった。
大股で踏み込んで来た女性……シエネが、険のある声で再び傭兵を呼んだ。
「レオン! 何してるの!?」
傭兵が渋々と魔女を離す。ユリアはその場に崩れ落ち、両手で自分の口を覆った。涙目になって何度も手の甲で唇を拭う。その様子を、面白そうにレオンは眺めていた。
「殴るより効果がありそうだな。……この方が」
傭兵は、冷たい口調の中にも隠しきれぬ熱を帯びた声で、ユリアの耳元に囁いた。
「今夜、二度と俺にそんな口がきけないようにしてやる。……覚悟を決めておけ」
血相を変えてシエネが飛び込んできたので、何事かと思ったら、用事は、高い棚の上にある物を取って欲しい、だった。
馬鹿馬鹿しくて怒る気にもなれない。言われるまま取ってやると、それは古い薬箱だった。
「七年前の物だぞ。中身が残っていたとしても、使うのはやめておけ」
「そうね」
取って、とわざわざ呼びに来たわりには、シエネは蓋を開けようともしない。初めから興味など無かったかのように、薬箱を床の上に置いた。
「くだらん事でいちいち俺の手を煩わせるな」
釘を刺して、捕虜の魔女のもとに戻ろうとする。シエネが、その進路を塞ぐように素早くレオンの前に回り込んだ。
「レオン……あの娘が好きなの?」
「なに?」
「ユリア……だったわよね? あの娘のことが好きなの?」
レオンは眉を潜めた。シエネの質問の意図がわからなかった。
好きか嫌いかという話ではないのだ。銀の魔女は、黒騎士の想い人。身も心もずたずたに引き裂いて、最後には黒騎士の前に晒してやれば、さぞや胸がすくだろうと思っただけだ。
「お前にも言ったことがあるだろう。ウォルターという名の黒騎士……。俺は、奴を、思いつく限りの惨たらしい方法で、血祭りにあげてやりたいだけだ」
あの時、生まれて初めて、敗北というものを味わった。
完敗だった。惨敗といってもいい。敵に背を向け、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。後ろから、とどめの一撃を繰り出されないのを祈りつつ。
それは、常に強者の称賛を浴び続けてきた傭兵には、耐えがたいほどの屈辱だった。
「ウォルター……ね」
むろん、シエネもその名を知っている。レオンから何度も何度も聞かされたからだ。
他人に執着しないはずの傭兵が、唯一、こだわり続ける男の名。二言目に出てくる台詞は、決まって「奴は必ず俺が殺す」だった。
シエネには、それが、自分に気付け、自分を見ろ、と言っているように聞こえてならなかったのだが……。
「じゃあ、あの娘のことは、何とも思っていないのね」
「当たり前だ。あれは奴の女だ」
「ウォルターって人の恋人だから、傷つけてやりたい……それだけなのね」
「くどいぞ」
それ以上の説明は無用とばかり、レオンは去った。
遠ざかる背中を見送りながら、シエネは小さく溜息を吐いた。
「嘘つき。あの娘を見る目、全然違うじゃない……」
疲れたように、壁にもたれかかる。閉じた瞼が、じわりと熱くなった。
「綿菓子を前にした子供みたいな顔してさ。欲しくてたまらないって……そう言ってる」




