敵陣1
ユリアは、その見た目ほどお淑やかな娘ではなかった。
十代のうちに二度も王都とレテを往復しただけあって、行動力はかなりある。
意外に健脚で、一日に三十カルム(一カルム=約一キロ)を歩き続けることも苦ではない。
だが、根本的に、彼女は田舎娘なので、乗馬の技術はまるで無かった。レテにいる馬と言えば、畑を耕す農耕馬ばかりで、そもそも馬は乗るものではなく引くものだった。
(乗馬……習っておけばよかった)
ザカリアに向かう手段も、だから、隊商に同行するか徒歩しかない。恐らく馬で駆けて行ったウォルターに正攻法で追いつくなど、不可能だった。
そのウォルターといえば、商団に捕まってしまい、これまた予想外に手間取っているのだが……それはユリアの知るところではない。
ユリアが王都を発ってから二週間が経ったが、やっと長い道のりの半分程度来ただけだ。それでも、途中隊商に拾ってもらったおかげで、徒歩よりは遥かに早く進んでいた。疲労感もない。急ぐ旅でなければ、むしろ快適なくらいなのだが……。
(駄目。これじゃあ、ウォルターに追いつけない……)
早くザカリアに行かなければ。
出来れば、ウォルターより先にザカリアに着いてしまいたい。
動く死体の正体が、何となく、ユリアには既にわかっていた。誰かが、精霊を、亡骸に憑り付かせているのだ。レテの正統な魔法にそんな禍々しいものは無いが、レテの外の術ならば……あるいは可能だ。
(私なら、憑いた精霊を払える。でも、魔法が使えないウォルターには……防ぐ手段が……)
深夜になって、ユリアは隊商を抜け出した。世話になった分の路銀を、少し多めに置いてきた。
月の光すら避けるように、より闇の深い方へと歩き続ける。整備された街道を外れ、躊躇わず森の中へと踏み込んだ。
(転移……するしかない。今まで、試したことがないけど……。それしかもう方法が)
豊富な知識と高い魔力を兼ね備えた祖母ですら、生涯で二、三度しか使ったことのない、非常に難度の高い術だ。失敗すれば、膨大な魔力のみを消費して、結局どこにも行けずその場に取り残されてしまう。
それならまだ良いが、恐ろしいのは、移動できた先で気を失ってしまうことだった。転移先が川や海であったりしたら……まず間違いなく助からない。
(ウォルターの正確な居場所がわかれば……彼の元に飛べるのに)
何度も気配を探ったが、駄目だった。ユリアが現在いる位置よりも西に、確かに存在を感じるが、それを目標に定めることが出来るほど、はっきりとは見えない。
古に虹石を生み出したとされる大魔女メディアなら、何ら労することなく見通していただろう。……全てを知り得るという「万里の瞳」を持つ彼女なら。
ユリアは、メディアの血を継いではいるが、万里の瞳を持つには至らなかった。メディアの直系子孫として、多少、他の魔女たちよりは強い力を持っているだけだ。
(古の魔女メディア。貴女の遠い娘に、どうか力をお貸し下さい。六年前の……あの日のように)
万里の瞳を持たないユリアは、それまで、死の影を見たことがなかった。見たことがなかったから、祖母の死も、父の死も、予知することが出来なかった。
それが、何故か、六年前のあの日だけ、見えたのだ。
オーブを買いに来た少年……ウォルターに対してだけは、見えたのだ。
後に、絶対に失いたくない人になると、本能でわかってしまったから……あの時だけ、メディアの力が宿ったのだと、ユリアはそう信じている。
(ザカリアへ……!)
ユリアは目を閉じた。
一陣の風が巻き上がった次の瞬間には、魔女の姿は、その場から消えていた。
強い魔力の閃きを、レオンは感じた。
すぐ隣には、裸のシエネが眠っている。彼女が目を覚ます気配はない。
結局、シエネとはなし崩しにそういう関係になった。常に一緒に行動しているのだから、無理もない話なのかもしれない。
ただ、愛情があるのかと問われれば、答えは、否、だ。
これまで、レオンは、一人の女性に特別な感情を抱いたことはない。そもそも、性別にかかわりなく人に興味を抱いたことがなかった。
だから、シエネに対しても、自分に協力してくれる都合の良い人間……という認識しかなかった。
彼の方から手を出したわけでもない。差し出された据え膳を、何となく食べただけだった。
シエネを起こさないように寝台から抜け出すと、手早く着替え、レオンは外に出た。
廃墟の町の、比較的被害の少ない建物を、レオンは宿代わりに使っていた。しばらく歩き続けると、彼が色々と試した魔法の結果が……つまり死体が所在無げに歩き回る一角に出た。
墓場から這い出てきた時そのままに、ほとんど骨だけの者もいれば、生前と変わらぬ姿の者もいた。憑りついた精霊の違いによるもののようだが、正直、なぜここまでの差が出るのか、はっきりとした理由はわからない。
レオンが求めるような、生者の知識思考を持つものは、まだ見たことがなかった。それどころか、どうも生きている者に無差別に襲いかかる傾向があり、何度かシエネが危険な目に遭ったのには、参った。
(……あれは)
儚い月明かりに照らされて、煌めく何かが地面に落ちている。
それが、人の髪だと気付くのに、さして時間はかからなかった。
銀の髪、抜けるように白い肌、たおやかな美しい魔女が、死体の彷徨う廃墟の町のただ中に、ひっそりと横たわっている。
生者の気配を察したらしい死者の一人が、ゆっくりと、魔女に近寄った。
彼女は気を失っているらしく、ぴくりとも動かない。
朽ちた手が、きらきらと輝く髪に触れようとした瞬間に……。
「汚い手で触れるな!」
レオンが怒鳴った。死者が怯えたように手を引っ込める。
レオンは反射的に口を片手で覆った。自分がなぜこれほどまでに腹を立てたか、彼自身、よくわからなかった。
(銀の魔女……名は、ユリアと言ったか)
あの忌々しい黒騎士が想う娘。今にも崩れ落ちそうな炎の館の中に、躊躇いもなく飛び込むほどに。
(なぜ、ここに……)
華奢な娘を抱き上げる。特に外傷はなさそうだった。ただ、魔力が極端に枯渇していた。
このような状態になるのは、二つの場合だけだ。
強い力から身を守るために、全魔力を盾にして使い果たしたか。あるいは大きな慣れない魔法を行使して、力尽きたか。
(目が覚めたら、聞けばいい)
目が覚めたら、きっと、悪魔のように恐れられるか、蛇蝎のごとく忌み嫌われることだろう。
こんな風に、大人しく腕に抱かれていてはくれないはずだ。
だからという訳ではないが、レオンは、魔女の絹糸のような髪に顔を寄せた。
ふわりと、微かに、良い香りがした。




