蟲の女王3
(翅だ。翅を何とかしないと)
致命傷を与えようとしても、すぐに空に逃げられる。予想以上に動きが速い。緑色の胴は、凄まじい弾力を誇る皮膚に覆われて、生半可な攻撃では剣先が弾かれてしまう。
(それに、あの鎌!)
緑色の胴から、蟷螂のような一対の鎌が伸びている。本来は体を支えるだけの前足にあたる部分が、敵と認識したものを葬り去る自衛の刃となっているらしかった。
大切な卵を抱えるうちに、異様な進化を果たしたのかもしれない。鎌の破壊力は凄まじく、樹木が紙きれのように切り刻まれるのを目にすると、豪胆な少年でも悪寒を禁じ得なかった。
ウォルターは、女王と対峙したまま、そろそろと移動した。ひときわ目立つ大木の前に立つと、その硬い幹に背を預け、懐からオーブを取り出す。
「解呪!」
封じられていた魔法は、氷。
真冬の寒気に包まれて、女王は一瞬怯んだが、体を蝕む寒さにかえって怒りが増したようだった。鎌が、ウォルターを遥かに見下ろす高い位置から、斜めに振り下ろされる。
何もかも薙ぎ倒してきた鋭い攻撃は、だが、巨木の幹に阻まれた。がっちりと食い込んで、そのまま切り倒すことも、抜くことすらも出来ない。
女王は気づいていなかったが、冷気の魔法で、一時的に極端に力が落ちていたのだった。むろん、偶然ではなく、それを狙っていた者がいた…………ウォルターは鎌を足場にして、動けない女王の体の上に飛び乗った。
そのまま、渾身の力で、抜身の剣を無防備な翅に突き立てる。胴の装甲に比べ、翅は柔らかく、驚くほど簡単に切り裂けた。
(……逃がさない!)
女王が悲鳴を上げた。声にならない声が、森の夜気を震わせた。鎌がようやく抜けたが、翅はもう飛べる状態ではなくなっていた。しかも、まだ小僧が背中に取り付いている。
振り払おうと無茶苦茶に暴れたが、少年はなかなかしがみついて離れない。
鋭い痛みが、幾つも幾つも背中に走った。翅と同じく、翅の付け根も防御が甘いことに、少年は気付いたようだった。
「……ウォルター!」
他の黒騎士たちが来た。
逃げなければ、と、女王蛾は本能で思った。この腹の中にいる、可愛い可愛い子供たちのためにも、生き延びなければ。
だが、翅は使えない。ずたぼろに切り裂かれて、既にほとんど原型を留めていなかった。少年を振り払うことにはついに成功したが、遅かった。
遅すぎた。
立ち尽くす女王蛾の体に、幾本もの刃が殺到する。硬い体に、屈強な男たちも手こずっているようだ。
女王はうるさい蠅を追い払うように、何度も鎌を振り上げた。騎士たちの装束は真っ黒で、普通の虫とは違う視力を持つ女王には、ひどく見えにくかった。
だから、ぽつん、と、真っ白な美しい姿が見えたとき、女王はそれを迷わず攻撃の目標にした。
白い対象物は人間で、少年で、その怯えた表情を見たとき、蟲の女王は、とても嬉しかった。
「うわあぁぁぁ!」
「ライオネル!」
鋭い鎌が、少年の体を貫いた。驚愕に目を見開く金の髪の少年と、信じられないことにそれを庇って飛び出してきた、黒い髪の少年と。
どちらを貫いたのだろう。どちらもか。黒い髪の少年だったら、なお良いと、薄れゆく意識の中で、女王は思った。
黒い髪の少年は、女王の自慢の美しい翅を、見るも無残に引き千切ったのだから。
「ウォルター!」
金の髪の少年が、泣いているのが見えた。
女王は満足だった。蟲に人のように笑うための器官はなかったが、その場にいる誰もが、女王の笑い声を聞いただろう。
幾つもの刃を体に埋め、巨体を揺らし、高らかに、蟲の女王は歓喜の咆哮を上げていた。
やった。やった。
子供たちを守ることはできなかったけれど。
私は、黒い髪の少年を、確かに殺すことができたのだ。