騎士の選択2
「スウェン! 良かった。早く……」
逃げましょう、と言おうとして、エメラインは言葉を飲み込んだ。
医学の知識などまるでない彼女から見ても、魔法使いの傷は深く、とても立ち上がって走れるような状態ではないのが、すぐにわかった。
「スウェン……嫌よ。しっかりして!」
彼に触れようとすると、頑なに拒まれる。乱暴に押し返され、エメラインは尻餅をついた。
自分自身の流した血溜まりの中に身を起こし、早く立ち去れと、スウェンは敬うべき主人を激しく怒鳴りつけた。これほど激高した彼の姿を見たのは、エメラインは初めてだった。
「嫌……嫌よ! 私一人で逃げるなんて、絶対に嫌!」
令嬢は怯まなかった。いつもの彼女のように冷たい微笑も、非礼に対する叱咤もせず、ただ無我夢中で魔法使いの青年にしがみついた。
不思議だった。いつも何かに急き立てられ、追い詰められていたような、あの苛立ちを、怒りを、今はまったく感じない。白い光に包まれた瞬間に、黒く澱んでいたものが、彼女の中から全て抜け落ちていったかのようだった。
枷からも鎖からも解き放たれて、満ち足りた感覚に従えば、迷うことなく大切なものが見えてくる。
(私は、この人が好き)
若くして結婚した亡き夫には、恋をしていた。
だが、いま愛しているのは……目の前にいるこの傷ついた青年だと、自信を持って、胸を張って、断言できた。
「一緒じゃなければ嫌よ……!」
彼が動けないのなら、自分も動かないまでだ。エメラインが出した結論は呆れるほどに単純で、明快だった。
「馬鹿ですよ。貴女は……」
スウェンがようやく抵抗をやめた。
魔法が使えない自分には、彼女を助けてやれる手段がない。せめて一人で逃げて欲しいのに、令嬢は、炎すら恐れずに、微笑みさえ浮かべてその場に居続ける。
「観念して、二人で逝きましょう、スウェン。最後の最後に目が覚めて、良かったわ」
「誰が最後だって?」
いっそ潔いエメラインの言葉に、よく通る男の声が重なった。
彼女が何か言うより早く、いきなり現れた男は、軽々とスウェンを担ぎ上げた。
「ウォルター……」
それは、かつてのエメラインが、気が狂ったように求めていた青年だった。
スウェンにとっては一番会いたくない、一番顔向けできない人物でもあった。
「何を……」
スウェンを背負ったまま、青年が駆ける。煙をかき分け、炎を掻い潜り、時折、火の粉からエメラインを守りながら。
スウェンはもがいた。こんなのはおかしい。こんなのは正しくない。
「私よりもユリアを……っ!」
この炎の建物の中に、まだユリアがとり残されている。助けるべき対象が違うだろう。なぜ自分なのだ。
なぜ、自分のように一番に命を落とすべき人間が、貶めようとした騎士に背負われて、ユリアよりも先に出口に向かっている……!
「ユリアを! 私よりも彼女を!」
「黙れ!」
騎士が一喝した。
「先に見つけたのが、お前たちだった。……置いて行けるわけないだろうが!」
屋敷を飛び出すと、騎士はスウェンを草の上に下ろした。駆け寄ってきた兵士らに手当てを命じ、また間髪入れず建物の中に戻ろうとする。その腕をスウェンが掴んだ。
「二階に……! 東角部屋から、二番目の、あの部屋に!」
熱い空気と煙を吸い込んだせいだろうか、咽が、肺が、ひりひりと痛む。それでも何とか声を絞り出すと、騎士が、初めて、ほんの僅かに笑みを覗かせた。
「ユリアはあそこか。場所さえわかれば……。助かる。ありがとう」
「何、言って」
スウェンは無意識に草の地面を掻き毟った。ありがとう、だって?
「違う。私は……! 私が、ユリアを。あの子を……」
スウェンが言わんとしている事に、あるいは気付いてしまったのか。騎士は、それ以上喋るなとでも言いたげに、魔法使いの言葉を遮った。
「ユリアは俺が必ず助ける。心配するな」
ウォルターは身を翻した。
呆然としているスウェンの手を、エメラインが、そっと握り締めた。
「彼に任せましょう。彼ならきっと……」
一階は火の海だった。火神が傍若無人に暴れ回り、その逆鱗に触れずして人が入り込める余地は既にない。
ウォルターは一階からの侵入を諦めた。屋敷に近い樹木にまずはよじ登り、渾身の力で幹を蹴って、宙に飛んだ。
ベランダの柵に手が触れた瞬間、しなやかな猫科の獣のように身をひねり、鉄棒の要領でくるりと回る。あっという間に地上から二階の住人になった騎士は、掃き出し窓を叩き壊し、建物の中へと滑り込んだ。
「ユリア!」
一階ほどではないが、二階にもかなりの火の手が回っている。
ユリアの居場所がわかるのが救いだった。スウェンが最後の力を振り絞って告げてくれた部屋に転がり込むと、果たして、ユリアはそこにいた。
「ユリア……!」
魔女は、意識はあるが動けないようだった。が、懸命に首を動かして、ウォルターの方に視線を向けた。
震える白い指先が、助けを求めるのではなく、寝台を指した。この状況には極めてそぐわない安らかな寝息を立てて、子供がベッドの上に横たわっていた。
「子供!?」
ユリアと子供と、どうやら二人を助け出す必要がありそうだ。
一階の玄関が使えれば何て事はないのだが、脱出するには二階から直接降りるしかない。カーテンを割いてロープでも作ろうか。忙しく思考を巡らせている間に、突然地鳴りのような音が足の下から響いた。
床が大きく斜めに傾いた。二階を支える柱の一部が、ついに崩れ落ちたようだった。
迷っている暇はなかった。ユリアを肩に担ぎ、子供を脇に抱えると、ウォルターはベランダから身を躍らせた。
自分の体で守るように、二人を胸に抱き込んだとき、何か大きな力が背中を押し上げた。
地面に激突する寸前、ほんの一瞬、確かに彼らは宙に浮いた。落ちる加速が完全に削がれた体は、衝撃も痛みもなく、静かに地面に下ろされた。
「ユリア」
呼びかけたが、魔女からの返事はない。彼女は既に気を失っていた。意識がないのに、眉間に皺を寄せ、ウォルターの上着の一部をきつく握りしめていた。
「……もう大丈夫だ」
安心させるように髪を撫で、頬に触れ、額に口付ける。
無意識下でも何かを感じ取ったのだろう、ユリアの手から、やがて力が抜けていった。
とりあえず一段落。
全員を無事救出です。
あと二話で二章終了です。
もう少しお付き合いください^^




