闇の中に蠢くもの2
大きな寝台の傍らに椅子を置き、ユリアは眠り続ける少年を見守っていた。
先ほどからレテの言葉で呼びかけてはいるが、少年の内側に潜むものからの返事はない。無視されているというよりは、そもそも全く通じていないような、奇妙な壁を感じていた。
(もう少し……反応があると思っていたのだけど)
はるか昔この地に降り立ち、取り残された精霊は、狂いし者などと呼ばれてはいるが、まったく意思が伝わらないわけではない。長いあいだ人の世界の悪意に晒され、疲弊してはいるものの、彼らはやはり根本的なところでレテの民の友だった。
(お願い、応えて。あなたを在るべき場所に戻したいだけなの)
少年の額に手を添えて、ユリアは目を閉じた。
もともと精霊は肉体を持たず、大気の中に紛れ込んだ自然の意思の欠片のようなもので、それを明確に視認するには、極度の集中が必要となる。その代わり、ひとたび姿を見ることが出来れば、ぐっと話は通じやすくなるはずだった。
まずはしっかりと対峙しなければ……。
少年の意識の奥底に入り込み、彷徨いながら、ユリアはそこに巣くう異物を探した。
呼びかけても出てこないのならば、こちらから出向いて引っ張り出すしかない。
(あれ……は……)
何かが蠢いている。ユリアは、茫洋と漂っている自分自身を、そちらに向けた。
何かがいた。人の形も動物の形も、それどころか生きているものの形すら取ることのできない、何かが。
(なに……これ)
腕があり、足があった。鳥の嘴があり、獣の頭があった。
それは、全体で見ると、とてつもなく巨大な軟体生物のようだった。ぶよぶよと震える塊の中に、ありとあらゆるものを投げ込んで、一つに溶かし、纏めたような……。
「……う」
ユリアは口を押さえた。むかむかと吐き気がした。ここにいてはいけないと、少年の意識の底から逃げ出した。
あれは何? あんなものは見たことがない。あれが精霊? そんな馬鹿な……!
態勢を整えなければ。レテの言葉で語りかけて、自由を奪われているならそれを解いて、ただ還してやれば良いと思っていた。だが、そんな単純な話ではない……!
「スウェンさん!」
ユリアは目を開けた。途端に、視界に暗闇が飛び込んできた。少年の精神世界を彷徨っていたのは刹那の間にも感じたが、実際には外では予想外に時が経過しているらしかった。
椅子を蹴るように立ち上がり、扉に飛びつく。
スウェンに知らせなければ。この呪いは異常だ。普通ではない。彼と一緒に対策を考えよう。とても一人では負いきれない……!
取っ手を握り締めた時、不意に、生臭い風が背後から吹きつけてきた。
(な、に……?)
見てはいけない。魔女の本能が、彼女自身を守るために囁いた。
振り返るな。気にするな。このまま扉を開けて、一刻も早くこの場を離れるのだ。
少年を救えなかったとしても、それはユリアのせいではない。力が及ばないことなど、珍しくもない話だ……。
魔女といえども生きている人間なのだから、全てを思い通りにすることなど、決して、出来ようはずがない。
(でも、私は、助けるためにここに来たの)
震えながら、取っ手を離した。強張る足を励まして、体ごと、向きを変えた。ただそれだけの動作に、恐ろしく時間がかかった。
「あ……」
見た。目の前にあるモノを。
見てしまった。
少年の心の世界にいたものが、そっくりそのまま、現実に存在していた。
膝から力が抜け落ちるような感覚に、よろめいた。とん、と、背中が堅い扉の面に当たる。
ず、ず、とゆっくりと、緩慢に、それはユリアへと向かってきた。
腕とも足とも判別できないものが、何の器官かもわからない突起が、救いを求めるように、魔女の方へと差し出された。
「いやあぁぁぁ!」
一部始終を、スウェンは見ていた。瞬きも忘れたように。
彼自身は同じ建物の全く別の部屋におり、椅子に座り、テーブルの上に肘をついて両手を組んでいた。 テーブルの上には大きな水の塊が浮いていて、その水の面がまるで滑らかな鏡のように、一つの映像を映し出していた。
(ユリア……)
化け物を造ったのは自分だ。目を逸らすわけにはいかない。化け物を実体化させ、ユリアを襲わせたのも自分だ。何もかも、予定の通り。
ただ一つ、予定と違うことがあるとするならば、訪ねてきたその日に殺すつもりはなかったという事だ。その前に、密かにレテに帰るよう説得するつもりだった。騎士の青年からとにかく引き離せば、後はどうにでもなると思っていた。
だが、スウェンの甘さを見抜いたかのように、伯爵令嬢は傭兵を連れて現れ、しかもあの男に彼女を乱暴させるという。
(あの子を汚したくない……)
あの娘は、堕ちる前の自分なのだ。夢があって、希望に満ちていて、人の悪意など微塵も疑ったことのなかった頃の……少年だった頃の、自分。
「さようなら、ユリア」
化け物が、ついに魔女に牙を剥いた。
何かの突起が彼女を引き倒し、そのどろどろした塊が上に覆いかぶさった。
あっという間に魔女の全身が見えなくなり、かろうじて外に伸びていた白い手が、微かに抵抗を続けたかに見えたが……やがて、それも、呑み込まれて消えた。
(終わったか……)
次の瞬間。
光が、爆発した。




