闇の中に蠢くもの1
その館は、森の中にひっそりと隠れるように佇んでいた。
森のように見えたが、森ではない。実際にはそれは庭だった。全く手入れをせず草木の伸びるに任せたところ、現在のような姿になったらしい。
ただ、荒れ放題の庭に比べ、建物の方は驚くほどきちんと管理がされていた。そこに行き着くまでの道も、馬車が通れるほどの幅があり、石畳の上には枯葉一枚落ちていない。
もともと、この建物はオスカレイク家の別邸であった。王城に近い本邸の方が増築されると、住処としては無用となり、そのまま取り残されたのだ。
(ここに通うようになってから、もう六年か……)
スウェンは、レテの内側の正統な魔法よりも、どちらかと言えば、長い間に変質してしまった外側の魔法こそを中心に研究していた。
彼が最終的に求めているのは、持ち主を選ばぬ命の石であり、レテの縛りを無くすることだった。
その夢物語の研究のためには、莫大な資金と、広大な場所が必要となる。そのどちらもオスカレイク伯爵令嬢は与えてくれた。単に美しい魔女に魅せられているのではなく、彼には彼の狡猾な計算が、確かにあった。
エメラインへの離れがたい想いと、彼女と未来の夫に対する強い背徳感と、利用しているのはお互い様だという打算に、時々、気が狂いそうになる。
根本的なところで、スウェンはひどく純粋だった。彼に限らず、魔法使いたちは思い込んだら一途にひた走る直情的な気質が、少なからずあった。
「ここに、呪いをかけられた人がいるのですか?」
あれこれと取り止めも無いことを考えていたスウェンは、ユリアの言葉に現実に引き戻された。
「はい。十歳の男の子です。ある方が保護しまして、こちらでお預かりしています」
スウェンは、ユリアにはオスカレイク家について一切話をしていなかった。その必要が無いからだ。
ユリアもまた余計なことは聞かなかった。建物の所有者を調べれば依頼の出処はすぐにわかることだったが、それをしようとも思わなかった。
「ご案内します。こちらにどうぞ」
屋敷の中は無人だった。これほど大きな建物にも関わらず、人の気配がない。
広いホールを抜け、階段を上がると、スウェンは廊下をまっすぐ進んだ。似たようなドアが幾つもあり、自分が館のどの辺を歩いているのか、ユリアは早くもわからなくなっていた。
(騎士様の宿舎ほどじゃないけど……広い……)
そして、陰気だ。貴族の持ち家なだけに、調度品も建具も洒落た作りになっているのに、なぜか華がない。
大きな窓からは十分に光が差し込んで来る。それなのに……暗い。
(ああ……いるからだ。ここに。この先に。……呪いの主)
スウェンが一つのドアの前で止まった。彼は自分で扉は開けず、ユリアに先を譲った。
恐る恐る、ユリアは取っ手に触れてみた。ひどく冷たい。材質が金属だからという訳ではなく、肌をぴりぴりと刺すものが、板一枚隔てた向こう側に存在しているからだ。
扉は、抵抗もなく、すんなりと向こう側に開いた。
広い部屋だった。視界の真正面に、天蓋付きの寝台があった。小さなテーブルと、椅子と、化粧台があった。壁紙は象牙色で、淡い緑のカーテンが絶えず揺れていた……窓も開けていないのに。
「この子……が」
「はい。眠ったまま、目覚めません」
スウェンが答えた。ユリアの隣に立ち、眠る子供を見下ろす。
「私の手には負えませんでした」
すらすらと嘘が口から流れ出た。
スウェンこそが、子供に呪いをかけた張本人だった。しかも、レテの外で身に付けた魔術、いわゆる外法を駆使して、複雑に幾重にも術を施した。
恐らくユリアには自分の術は解けまい……レテの正統な魔法に造詣が深ければ深いほど、外の歪んだ魔術には極めて無防備なのだ。
子供に憑り付かせた精霊は、実は一体ではなかった。取り残されて漂っていたものを、手当たり次第に掻き集めて無理やり一つにまとめた、融合体であった。
それは既に精霊ですらない……精霊だったもののなれの果てだ。もとの形を完全に失ったものを還すなど、不可能に決まっている。
「わかりますか、ユリア。……感じますか」
「何か……いるのはわかります。でも……少し、時間を頂けますか」
紫色の瞳が、不安そうに揺れていた。スウェンはことさら優しげに微笑んだ。
「それはもちろん。部屋はたくさんありますし、何日でも滞在して構いませんよ。解呪に必要な道具などがあれば、遠慮なく仰って下さい。可能な限りすぐに取り揃えますので」
ありがとうございます、と、ユリアが礼を述べた時、戸口の方で、さらりと衣擦れの音がした。
その女性を初めて目にした時、なんて綺麗な人だろうと、ユリアは思った。
艶やかな漆黒の髪に、翡翠の瞳。肌は抜けるように白く、紅を差した形良い唇に、ぞくりとするような色香が漂う。
ほっそりとした華奢な体つきにも関わらず、大きく開いた胸元から覗く膨らみは肉感的ですらあった。 神々が丹精込めて作り上げた精巧な人形のような非の打ちどころのない美に、常ならばうっとりと見惚れていたことだろう……だが。
(なに……あれ)
ユリアを驚かせたのは、その圧倒的な美貌などではなかった。高貴なはずの令嬢から滲み出る負の影、その妖艶な肢体を包む血の気配に、気が遠くなるほどの恐怖を覚えた。
(まさか……どうして。この人は)
口の中がからからに乾く。助けを求めるようにスウェンを見たが、レテの同胞は微動だにしない。
それがまた、ユリアをいっそう慄かせた。
気付いていない。スウェンほどの魔法使いが。
ただ眠るだけの少年などよりも、よほど性質の悪い呪いの主が、ここにいるのに……!
(呪いの気配……この女性から……。スウェンさん、気付いていないの? どうして……)
じっとりと汗ばんでくる掌を後ろ手に隠すと、令嬢が口を開いた。
「貴女がユリア?」
逃げ出したくなる両足を必死に諫めて、ユリアは何とかその場に踏みとどまった。
「は、はい……」
令嬢が一歩前に進み出た。
ユリアの怯えを敏感に感じ取ったのだろうか、エメラインを取り巻いていた呪いの影は、瞬く間にかき消えた。もう何も感じない。そこにいるのは、見目麗しいだけのただの貴族の女性だった。
「私はエメライン。貴女をこの場に呼んだ者よ」
「エメライン様……。まさかこちらにお出でとは」
ユリアを残し、スウェンは令嬢を連れてすぐに部屋を出た。最近のエメラインの奇行には、目を覆いたくなるものがある。長い間、ユリアと接触させたくなかった。
スウェンの気苦労などどこ吹く風で、令嬢は楽しそうに声を立てて笑った。幼子のような無邪気さすら匂わせて、スウェンの腕に自らの腕をからめる。
「だって、とても嬉しい事があったのよ。早くお前に知らせたくて」
「嬉しいこと?」
「うふふ。レオンにユリアを見せたのよ。そうしたら、あの娘ならいい。望み通りにしてやるって」
「な……!」
スウェンは思わず立ち止まった。令嬢の前で舌打ちをせずに済んだのは、奇跡に近いことだった。
「好みの娘だったのかしらね。……まぁ、別にどうでもいいけど。楽しい見世物になりそうよ」
一瞬のうちに、美しい貌から笑顔が消えた。翠の瞳が魔物めいた邪気を孕み、ぎらりと光る。
「……滅茶苦茶にされればいい」




