騎士の宿舎にて1
(ウォルターさん、いるかな……。いたとしても、見つけられるかどうか)
目の前の巨大な白亜の建造物を見上げ、ユリアは嘆息した。そうして彼女がアウレリア城の雄姿に圧倒されている間にも、広い橋の上を、たくさんの馬車と人が忙しなく行き交い続ける。
王都アウラの中心、アウレリア城には、王と王一族の住居、執政者たちの執務室、彼らを守る武官の控えの場など、ありとあらゆる機能が全て一所に集められている。内部は何度足を運んでもとうてい覚えられそうにない複雑な構造を擁しているが、ユリアが会いたい騎士の居室は、幸い、開け放たれた外門付近の比較的わかりやすい位置にあった。
この外門のすぐ内側の広間までは、平民でも自由に出入りできるので、運が良ければ騎士らに会える。ヴァルトに用件がある時などは、ユリアはここで兵士によく取次ぎを頼んでいた。
「黒騎士ウォルター卿は……今日は出ていませんね」
取次ぎを頼んだ兵士の言葉が、それだった。
黒騎士は近衛警備の役割も担っているので、当然夜勤や当直があり、勤務時間は不規則だ。どうやら今日は、休暇か出向か、ともかく城にいないらしい。
運が悪かった……仕方なくユリアが立ち去ろうとすると、背後から呼び止められた。
「ユリア?」
通りかかったのは、黒騎士フィオルだった。旅人殺しの村の一件以来、互いに顔を知る間柄になっていた。
楽器でも持って長い法衣を着ている方が似合いそうな青年だが、今は黒衣の騎士装束で隙なく身を固めている。その姿で佇むと、優男的な風情はなく、いかにも武人らしい不思議な威圧感があった。
「ウォルターに会いに来たのかな?」
「はい。でも、今日は勤務ではないと聞きまして」
「勤務じゃないけど、いるよ。部屋に。当直明けだからね。まだ寝てると思うよ」
「あ、そうなのですか。……それなら、邪魔しない方が良いですね。また出直します」
「ああ、遠慮はいらないよ。一日くらい寝なくても死なないから。案内するよ、おいで」
「えっ? でも」
「あいつの部屋に直接連れて行ってあげるよ。まぁ、寝起きの不機嫌極まりない顔を見て幻滅しないように、覚悟は決めておいた方がいいけどね」
「いえ、あの……」
夜勤明けで疲れている人を起こしてしまって良いのだろうかと、ユリアは気が気でなかったが、フィオルはなぜか楽しそうだ。ユリアの手を取ると、一瞬、とてつもなく人の悪い笑顔を見せて、強引に彼女を引っ張った。
フィオルに連れられて、ユリアは初めて騎士らの住居に足を踏み入れた。
それは三階建ての堅牢な建物で、幾つもの棟が廊下と中庭で煩雑に繋がっている、風変わりな形をしていた。優雅さはないが、十分な広さと部屋数があり、食堂、鍛錬場、大浴場など、必要な設備はすべて備えられている。
騎士らには、続き間で二つの部屋が与えられ、住み心地は良さそうに見えた。
「……休日は、みんな朝から晩まで外出しているけどね」
仕事だから普段はここに待機しているが、休みの日まで閉じ込められたくないと、フィオルは言う。ユリアが考えているよりも、集団生活というものは気苦労が多いのかもしれない。
「大変なんですね……。ウォルターさんはそんなこと一言も言っていませんでした……」
「彼は俺より大変だと思うよ。俺は実家があるから、休日は家でゴロゴロしていられるけど、彼にはここ以外行くところがないからね。外で適当に時間つぶしているみたいだけど」
訓練場も兼ねている中庭を通り抜けた辺りから、ユリアは、自分にちくちくと視線が突き刺さってくるのを感じていた。騎士の住居に女が迷い込んでいるのだから、不審がられているのかもしれない……フィオルが横にいたとしても。
「違うよ。来訪者はそんなに珍しくない。あのすごい美人は誰だって、みんな見ているんだよ」
「えっ?」
「牽制しておいた方がいいかなぁ。ウォルターに無断でユリアを見せびらかせてしまったし」
「??」
ちょうど数人の騎士が、興味深げな眼差しを向けてくる。戸惑うユリアの隣で、フィオルは殊更に大きな声を出した。
「あー。言っておくけど。この娘は俺の妹とかそんなんじゃないから。ウォルターの彼女。……もう目に入れても痛くないってほど可愛がってる感じ? 手出したら殺されるよ」
「フィ、フィオルさんっ……!」
慌てふためくユリアを楽しそうに眺めやりつつ、フィオルは複雑な建物の中を縫うように歩き続ける。やがて、一つの扉の前で止まった。
「さぁ、どうぞ。ここがウォルターの部屋だ」
フィオルがまずはウォルターを起こし、彼が身支度を終えて出てくるのを、ユリアは廊下で待つつもりだった。
いきなり訪ねてきたのはユリアの方で、ウォルターにしてみれば自分は招かれざる客に違いない。まして当直明けなら尚更だ。
「そろそろ起こしてやった方がいいかな。いま寝すぎると夜に眠れなくなるし」
フィオルはユリアを部屋に入れ、自分は入らず扉を閉めた。
まさか一人取り残されるとは夢にも思っていなかったユリアは、完全に反応が遅れた。眠っている部屋の住人を起こさないよう、そっとドアを開けて廊下を確かめたが、フィオルの姿は既にない。
(そ、そんな……フィオルさんっ! 私、私、どうすれば)
扉に張り付いたまま、恐る恐る辺りを見回す。
カーテンが引かれていて、薄暗い。室内は意外に綺麗に片付いていた。整理整頓されているというよりは……極端に物がないのだ。
その物の少ない部屋の中、不自然に大きな書棚だけが妙に存在感を放っている。どんな本を読むのだろうと好奇心がむくむくと膨れ上がり、ユリアは足音を忍ばせて棚の前に移動した。
(医学書……?)
ほとんどが医学書だった。薬草学についての本も多い。少しだが魔法書もあった。レテと命の石についての記載もある。
騎士の仕事の傍ら、勉強していたのだろうか。医術を……レテを。
(あれ。この本……)
書棚の一番下、一番隅に、隠れるように、一冊の古い本がある。ユリアは知る由もなかったが、それは既に失われたとされている幻の原書で、精密な人体解剖図を描いた貴重な資料でもあった。
だが、そんな珍しい書物であるにも関わらず、触れるのはひどく躊躇われた。焼け焦げているのだ。装丁が金属と皮で丈夫に造られているため、辛うじて原形を留めているが、既に三分の二以上が読める状態ではない。
まるで、火の中に置き去りにでもされていたかのような……。
「……誰だ!」
背後からの鋭い怒鳴り声に、ユリアは竦み上がった。
「え……あ……ユリア!? なんで……」
振り向くと、呆然としているウォルターと目が合って、ユリアはたちまち霞のように消え去りたい気分になった。
(これじゃ、私、夜這いしているみたい……っ! フィオルさんの馬鹿!)




