伯爵令嬢2
幼いころから、エメラインにはよくない性癖があった。
彼女は人のものを欲しがった。手に入りにくい物を好んだ。
たとえば、使用人が大切に飼っていた賢い犬。父親が、もっと血統の良い、もっと毛並みの良い、もっと若い犬を飼ってやると言っても、彼女はその犬が良いと言う。
仕方なく、伯爵は使用人から犬を取り上げ娘に与えたが、賢い犬は、賢いゆえに決して令嬢に懐かない。元の飼い主を慕って、何度も脱走を試みる。令嬢はそれでも犬を慈しもうとしたが、二年が経った頃、ついに懐かない犬への憎しみが歪んだ愛情を凌駕した。
令嬢は犬を殺し、その殺した犬の死体を、元の飼い主に埋めさせた。
懐かない犬が悪いのよ。懐かせない元飼主が馬鹿なのよ。
彼女は笑顔でそう言った。
だが、これは、スウェンがオスカレイク伯爵邸に来る前の話だった。伯爵は、可愛い一人娘の奇行が決して外に漏れ出ぬよう、箝口令を徹底した。
だからスウェンは知らなかった。多少気位が高いが、美しく愛らしい普通の貴族の娘だと思っていたのだ。
……六年前の、あの日までは。
冬に入る手前の、冷たい雨の降る夜だった。あまりに底冷えする空気に耐えかねて、部屋着を二枚も重ねた上に毛布を被り、スウェンは自室の机に向かっていた。
市で手に入れた魔法書を検証していたのだ。圧倒的に紛い物が多いが、中には本当に有効な術を記したものもある。使えそうなものがあれば、それを正しいレテの古代語に直して、新たな本に纏めていた。
さすがに疲れてそろそろ休もうかと時計を確かめたとき、何の前触れもなく、扉が開いた。
「お嬢様?」
そこに立っていたのはエメラインだった。この寒いのに夜着姿で、剥き出しの肩には防寒具の一枚も掛けていない。髪は何の飾りもなく背に流し、化粧気のない素顔をさらしていた。
「どうしました。こんな夜分に」
冴え冴えとした月明かりに浮かび上がる白い貌は、化粧などなくても十分に美しかった。彼女が一歩足を進めると、艶めかしい若い肢体を隠すには明らかに不十分な薄い布地が、さらりと流れた。
「……寂しいの」
と、彼女は言った。
夫が亡くなって、まだ一年も経っていない。愛する人を思い出して気分が塞いでいるのだろう、と、こんな夜更けに尋ねてきた理由を、スウェンは努めて好意的に解釈しようとした。
「眠れないのですね。何か温かい飲み物でも作りましょう。応接間の方でお待ちください」
令嬢は、出歩くには相応しくない格好をしていたので、スウェンは自分のマントを棚から引っ張り出し、肩に掛けてやった。部屋の外に連れ出そうとしたが、なぜか令嬢はその場を動こうとせず、マントも邪魔だと言わんばかりに脱ぎ捨てた。
「エメライン様?」
「エメラインって呼んで」
令嬢はさらに一歩前に進み出て、扉を後ろ手に閉めた。鍵をかけた。スウェンの首に腕を回し、その柔らかな体を押し付ける。
スウェンは慌てて引き剥がそうとしたものの、うまく力が入らなかった。温かい吐息を耳元に感じ、一気に体温が跳ね上がった。
「ねぇ、スウェン。あなた、私のこと好きでしょう?」
ぎゅ、と、心臓を鷲掴みにされたような衝撃だった。違います、と答えようとしたが、口が強張って声が出なかった。嫣然と微笑む令嬢から目が離せず、不器用に黙り込む。
「私のこと見ていたでしょう? 知っているのよ」
見ていた……そう、確かに見ていた。エメラインが十五歳、スウェンが十四歳で、初めて出会ったその時から。
だが、恋慕ではなかった。どちらかと言えば、それは崇拝に近かった。美しく自信に満ちた伯爵令嬢は、ずっと彼の憧れだった。彼女が結婚した時も、だから相手の男に嫉妬などしなかったし、彼女が寡婦となった時も、次は自分がなどという野心を抱くことはなかった。
彼女は女神だったから、遥かに見上げて当然だった。しかし今、その女神は下界に降りて、一人の生身の女として彼の腕の中にいる。
「ねぇ、スウェン。……寒いの。温めて」
何かがおかしいと、魔法使いの本能が囁いた。
関わるな、逃げろ、と。
「スウェン……。抱いて。あなたのものにして」
「エメライン様……」
本能の警告を、スウェンは無視した。
堕ちてもいい。死んでもいいとすら、思った。
ゆっくりと重なった二つの体は、やがて、もつれるように寝台に沈み込んだ。
六年間、この奇妙な関係は続いた。
亡き夫に似た若者を見つけ、彼こそが次の夫だと息巻いても、エメラインは以前と変わらずスウェンの部屋を訪れる。
ある日とうとう背徳感に耐えかねて、もう来ないで下さいと魔法使いが訴えると、伯爵令嬢は笑いながらそれに答えた。
「気にすることはないのよ。お前は人ではないのだから、数のうちには入らないわ」
「人ではないって……」
「そうでしょう? 火を操り、水を統べ、風を起こす。そんな恐ろしい力を持ったモノが、人であるはずがないでしょう」
令嬢は、スウェンの体にしな垂れかかり、いつものように彼を寝台の上に押し倒した。
「お前は、私が手に入れそこねた賢い犬なの。私の言うことを黙ってきいていればいいのよ」
体の上を這い回る女の手を感じながら、スウェンは、この時はっきりと、自分が堕ちるところまで堕ちたのだということを、悟った。
「私のことが好きなのでしょう? 私もよ。大好きよ。大切な大切な…………私のスウェン」
魔女がいた。
どこか頼りなげな、たおやかな銀の魔女とは比べようもない、本物の魔女が、目の前に。
魔法使いの自分が、魔力よりも強い何かに絡め捕られ、逃げられない。もがけばもがくほど、深みにはまる。
泥沼にどっぷりと首まで浸かっているのを自覚しながら……それでも、この美しくも恐ろしい魔女と共に在りたいと、願ってしまう。
「私から逃げようなんて思わないで、スウェン。お前は私のもの。私だけのものなのよ」
R指定とか必要でしょうか……もしかして。
具体的な描写はほとんど出てこないものの、何というか雰囲気が(汗)




