白き追跡者
(誰か……誰か追ってくる)
牢を破って間もなく、不穏な気配を感じていた。
獲物を狙う蛇にも似た、息の詰まる視線。怨念か、執着か、蜘蛛の糸のように体に纏わりついてくる。
(嫌……嫌だ……)
一緒にいたら、アマンダたちまで狙われてしまいそうだと離れたが、果たして間に合ったかどうか。
(大丈夫。私を追ってきている。私だけを……)
疲労で足が幾度となくもつれた。地表を這い回る木の根に爪先がひっかかり、体がくらりと傾く。
倒れると思った瞬間、横から伸びてきた逞しい腕が彼女をさらった。
驚き見上げたその先に、見知らぬ男の顔がある。
「あ……」
幽霊めいた血の気のない肌色に、色素の抜け切った白い髪。顔立ちは端正と言っても差支えがないだけに、一層、そのねじれた調和が不気味だった。
灰色の瞳は、まるで真冬の曇り空のようだ。男がそこにいるだけで、気温が急激に下がったような錯覚すら覚える。
(この人……!)
視線の主。絡み付く蜘蛛の糸。足元から一気に悪寒が這い上がり、体が震えた。魔法を使わなければと頭ではわかるのに、喉の奥に氷塊のような何かがつかえ、声が出ない。
「魔女……」
男が笑った。こんな残忍で酷薄な笑みを、ユリアはかつて見たことがなかった。
「命の石を渡せ。持っているだろう。それを寄越せ!」
男は、ユリアの襟元をつかみ、硬い木の幹に押し付けた。猫の子でも摘まむような何気ない動作なのに、人ひとりの体が容易に持ち上がる。足が地面から離れ、宙を泳いだ。
「やめ……苦し……」
「石はどこだ?」
「知らな……」
「石を渡せ!」
「いや、です。あなたなんかに……っ!」
ありったけの敵意を込めて、ユリアは男を睨みつけた。
か弱く見える娘の予想外の反応に、男は、一瞬、虚を突かれたようだった。だが、ユリアが呪文の詠唱を始める前に、男はその大きな掌で魔女の口を塞いだ。
「魔法が、魔法使いの専売特許だと思うなよ」
男もまた、古代語を紡いだ。ユリアが知るものとは少し発音が違うような気がしたが、確かに失われた古の言葉だった。
ざわざわと足元の草が蠢き始める。草の芽の中から幾つもの蔦が伸び、ユリアの足を這い上がった。腰に巻きつき、腕を捉え、声が出せない程度に魔女の首に絡まると、蔦はそこでようやく成長を止めた。
まるで磔にされた生贄のごとく、ユリアは樹木の幹に縫いつけられていた。
(魔法……どうして!? なぜ使えるの。この人はレテの魔法使いなの!?)
だが、魔法使いならば他人の虹石など欲しがらないはずだ。奪った虹石では何の力にもならないことを、レテの民は当然知っている。
魔法使いが自らの意思で与えて初めて、命の珠は奇跡の力を具現化できる。この人を守りたいという強い願いがそこになければ、石は、硝子玉ほどの価値もない。
レテの者ならば常識とも言えるその事実を、目の前の男は知らないのだ。なぜ? なぜ? それに、変則的な古代語の魔術。レテの魔法に近いけれど、どこか異質なものを拭えない。
忙しく思考を巡らせて、ふと、ユリアは、一つの可能性に行きついた。
(はぐれ……)
血の継承に関わりなく、通常、魔法使いはレテにしか生まれない。レテの大地が、大気が、魔法使いという存在を生み出すためだ。
だが、ごく稀に、本当に希少な確率で、レテの生まれではないのに魔力を持ってしまう子供がいる。
彼らは「はぐれ」だ。力はあるのに、知識が無い。闇に出回っている魔法書などを読めば、中途半端に魔法を使えるようにはなるが、それは幼子が毒の剣を手に入れるようなもの。制御も出来ずに力に呑まれ、破滅する者すらいるという……。
(駄目。駄目よ。使っちゃ駄目。虹石も持たないのに、レテ以外の場所で、魔法を使うなんて……)
首に食い込む蔦の力が、徐々に強さを増してくる。お願い、喋らせて。ユリアはもがいた。魔法で攻撃なんてしない。ただ、伝えたいだけなの。このままでは、貴方は……!
目の前が霞む。指先が冷えてゆくのがわかる。木に叩きつけられた時、もしかしたら頭を打っていたのかもしれない。
死ぬのかな、と、ぼんやりとユリアは思った。どうせ死んでしまうなら、最後に、もう一度だけ、会いたい人がいるけれど……。
「ユリア!」
意識が途切れる寸前、懐かしい声を聞いた気がした。




