魔女の工房
「ここ……か?」
古ぼけた木の扉の傍ら、ほとんど文字が消えてしまって用を為さない看板を見上げ、少年は、いささか不安そうに呟いた。
「本当に、ここなのか?」
念のため、道案内を記した紙を穴の開くほど見つめたが、少なくとも住所は間違いない。
店名は、どんな珍しい魔法具でも取り揃えるという魔女の店、『ヒルダの工房』と、看板の文字は無理をすればそう読めないこともないのだが……いや、読めない。
(団長……俺には、ここは店じゃなくてただの廃墟にしか見えん……)
多少頭痛のようなものを感じながら、少年は、とにかくも扉を開けた。
途端、目の前に広がったのは、黴臭いがらんどうの空間ではなく、様々な雑貨が整然と陳列された、予想外に清潔で落ち着いた店内だった。
「いらっしゃい」
広すぎず狭すぎない店の奥深く、カウンターの向こうに、店主と思しき人物が座っている。間深くフードを被り、少年の立ち位置からではほっそりとした顎の線しか見えなかった。
声からして女性だが、年齢はわからない。ただ、ゆったりとしたローブの袖から出ている手は白く瑞々しく、魔女の呼び名に似つかわしい老婆ではなさそうだった。
「オーブを買いに来たのだが」
「あるよ。そこに。火でも光でも」
少年のちょうど左手の棚に、大きな籠の中に無造作に積まれて、確かにオーブが置いてある。手書きの値札を見て少年は驚いた。表通りにある店の半分にも満たない金額なのだ。
「随分安いな」
オーブは、スイ、という白い砂を精製して作った玉に、簡単な魔法を封じたものだ。これを目標物に翳して解呪の呪文を唱えると、魔力など欠片も持っていない一般人でも、魔法に似た奇跡を起こすことができる。
外野に現れる魔物退治に使用されるのは勿論のこと、例えば水を一瞬で沸かしたり、植物の成長を一時的に速めたり、その用途は驚くほど広い。人々の生活から切り離せないものだけに、粗悪品も多いのだ……値段が安いと、当然、効果も低いことが多々ある。
「儲けようと思って開いている店ではないからね」
「ここを教えてくれたのは、黒騎士団の団長だが……よく来るのか?」
「魔法具の類は、ほとんどここで揃えているみたいだね。ヴァルトがここを教えたとなると……なるほど、あの男はよほどあんたのことを買っているらしい」
「さぁな。毎日死ぬほど扱かれているだけだが」
ヴァルト。
それは、黒騎士団の団長の名だ。豪放で豪快で、だが油断ならないあの人が、こんな小さな店の主に呼び捨てを許していることが、不思議だった。
魔女は、団長の古くからの既知なのだろうか。口調に親しげなものすら感じるが……少し思考を巡らせて、少年は、いや待てと脳裏を過ぎった疑問を打ち消した。
詮索は好まない。人のことなどどうでもいい。大切なのは、手に取ってみたオーブが、値段相応の紛い物などでは決してないという、その事実の方だ。
「凄いな。どれも一級品だ」
「わかるのかい」
「ああ……。ここに来てよかった」
目当てのオーブを十個ばかり掘り出すと、少年はそれを幾つかの銀貨と一緒にカウンターの前に置いた。
魔女が、釣り銭の銅貨を用意して、差し出した。白い指先が、少年の、年の割には武骨な手に、意識せず触れた。
「あっ」
魔女が慌てたように手を引っ込める。フードの奥の唇が、一瞬、きゅっと引き締められた。
少年は特に気にした風もなく、オーブを懐に仕舞い込むと、出口に向かって歩き始めていた。
「お待ち」
半分扉を開きかけた少年を、魔女が呼び止めた。
「これを持ってお行き」
魔女がカウンター越しに投げたのは、オーブによく似た、虹色の玉だった。
「これは?」
「討伐の間、それを肌身離さず身に着けておおき」
少年は首を捻った。掌の中の、小さな玉を見つめる。
オーブに似ているが、オーブでないのはわかる。何かの魔法具だろうか。光の当たり具合で、青、赤、緑……と目まぐるしく色を変える。初めて見る品だった。
「これ、魔法具だろう? こんな物をもらう理由は……」
「いいからさっさとお仕舞い」
「だったらこれの代金も」
「いいから。子供が変な気を使うんじゃないよ」
律儀に支払いをしようとする少年から逃げるように、魔女は、カウンターの奥に続く部屋へと引っ込んだ。少年は、しばらく困惑顔で虹色の玉と主が消えた奥の部屋とを見比べていたが、やがて諦めたように礼の言葉を呟き、魔女の店を後にした。
そして、帰り道、ふと、気づく。
「討伐……」
なぜ、魔女は、少年が魔物討伐に出ることを、知っていたのだろう?