(9) 木の上で
ディルクが大きく両手を差しのべた。
――なに、まさか飛び降りろって?
顔が熱くなる。ぜったい無理。さいきん体重増えちゃって重くなった気がするし……。「姫様、飛び降りてください。ちゃんと受け止めますから」
「……」
「姫様?」
眉をひそめる端正な顔を、まともに見れなくなって上を仰ぎ見た。木漏れ日が眩しい。あのてっぺんまでのぼって葉っぱの中に隠れてしまいたい……そんな風に考えていたら、下から意外な声が聞こえた。
「ハナちゃん、大丈夫かね」
「…おうさま?」
下を見ると、ディルクの隣には息を切らした王様が立っていた。顔色が悪い。そりゃそうか、なにやってんだろう私……こんな風にまわりに心配かけて。
「王様も来てたんだ。知らなかった」
「ハナちゃんを驚かせようと思って、黙ってこっそり来ていたのだよ。でも逆にこっちの方が驚かされたよ……まったく心臓に悪い」
「ごめん、王様」
「いいから、じっとしてなさい」
「?」
と、とつぜん体に浮遊感を覚えた。身をすくませると、ぐっと背中が温かいなにかに覆われるのを感じてぎょっとした。
「……動かないで」
耳元で低い声が囁き、体の芯がカッとした。やわらかい金色の髪が視界の端にゆれている。
「そう、そのまま……いい子ですね」
そうしてズルズルと、気がついたら地上に降ろされていた。足の裏に地面を感じたとき、膝が少し笑っていた。極度の緊張感から解放されたからだけど、それは木の上から降りれなくなったからなのか、騎士様に抱きかかえられて降ろされたせいなのか、よく分からなかった。
――たぶん、両方だろう。
王様が差しのべた腕には、すんなりつかまることができた。ディルクの隣にいるのが恥ずかしかったから、助かった。
「ハナちゃん大丈夫!?」
「痛くない?」
「気がついてよかったー」
遠巻きに見てたらしい、クラスメートがわんさかやってきた。
「みんなゴメン。凧揚げ競争じゃましちゃて」
王様に支えられながらもそもそと言うと、皆口をそろえて「気にしないで」となぐさめてくれる。よくみると見学にやってきた父兄にも囲まれていた。やっぱ王様もいるからかな……まいっちゃったな。
「やっぱりハナちゃんは本物のお姫様だったんだね」
「ハンナ姫だね」
「やだな皆、ハナちゃんでいいよ」
気まずそうに笑うと、クラスメートも一緒に笑ってくれた。隣の王様が「エヘン」と咳払いをした。
「ハナちゃん、たくさん友達が出来たのだね。うん、さすが私の娘だ」
「えへへ」
「でも木登りは危ない。ひざも手もすり傷だらけではないか。早く城へ帰って手当をしないとな」
「ええっ、こんなのたいしたことないよ」
「だめだ、ばい菌が入ったら一大事だ。ディルク!」
「はい、馬車の準備はできております。すぐに城へ戻りましょう」
「ええっ!? そんなあ……」
文句を言おうにも、ディルクに問答無用で手を取られ、馬車までエスコートされた。振り返ると後ろからついてくる王様と目が合った。王様はなんとも複雑な表情で口をへの字に曲げた。
「仕方あるまい。ディルクがうまく降ろしたから、ハナちゃんは大けがせずに済んだのだ……」
ぶつぶつつぶやく王様に、私は首をひねった。そりゃ、あの木から落ちてたら、ねんざぐらいはしたかもしれないけど……大げさすぎる。思わず苦笑を漏らしたら、隣から静かな声が聞こえてきた。
「ところで姫様、昨夜はきちんとお休みになられましたか」
ぎくっ。
「寝不足だとバランス感覚も悪くなりますし、食も進まなくなります。今朝、料理長が嘆いておりましたよ。聞けば、姫様がほとんど朝食に手をつけなかったとか。今朝の料理はお気に召さなかったらしい、と責任感じている様子でした」
――料理長……やっぱり真面目すぎる。
実は昨夜こっそりベッドの中で凧の最後の調整をしてたのだ。それで寝るのがちょっと、いやだいぶ遅くなっちゃったんだよね。
「あの程度の木で降りられなくなるなど、普段の姫様からしたら考えられません」
隣を見上げると、怒ってる風でもなく、ちょっといたずらっぽい笑いで私を見つめるディルクと目が合った。
――やっぱりバレてたか。
私は苦笑いを浮かべるしかなかった。
お城に戻って、まず最初に料理長のところへあやまりに行った。寝不足で食欲がなかった旨を伝えると、ほっとした表情を浮かべたのもつかの間、「もしや前日の夕食が原因でよく眠れなかったのでは……?」と再び心配されてしまったので、そうじゃないと凧作りのいきさつを説明をするはめになった。それを隣で聞いていたディルクに、
「そんなとこだろうと思いました」
と呆れたように言われ、ひたすら申し訳なくなった。ごめん、皆……。ようやく部屋に戻ってきた私は、がっくりと長椅子に身を沈めた。ああ眠い。
「でも、ご無事でなによりですわ」
ヨリはお茶に温めたミルクをたっぷり注ぐと、クッションを抱えてぐったりしている私の前に置いてくれた。そしてその横には、先日町から調達してきたチョコレート菓子が。ほんとうは夕食前はおやつは駄目なんだけど、ヨリにお願いしたら「仕方ないですわね」とこっそり出してくれたのだ。
お菓子を頬張りながら、ふと夕食のことが頭によぎったが……すでにちゃんと手は打ったもんね。今日は寝不足で早く寝るから、夕食は軽めのサンドウィッチにしてって、侍女さんに頼んで料理長に伝えてもらってあるのだ。
「それにしても、私も凧揚げする姫様の勇姿を拝見したかったですわ。王様なんて、執務サボって行かれちゃうんですもの。でも今回は宰相も休暇だったそうで、けっきょく会議は延期になったようですわ」
「宰相様も凧揚げ観に来てたんだよ」
「あら、まあ。そうでしたか。さぞ妹君もよろこばれたでしょうね。きっと姫様が説得されたからですわね」
どこかうれしそうに笑うヨリに、私もエヘヘと笑った。と、そこに軽くノックの音が聞こえ、ディルクが現れた。
「姫様、夕食の準備が整って……って、何を召しあがっているのですか?」
「あ」
――やばい。
目の前には、いや口の中には物的証拠が……いそいで咀嚼するが、もう遅い。ディルクはツカツカと部屋を横切ってやってくると、威圧感たっぷりに私の目の前に立ちはだかった。




