(4) あかぎれ
バイト初日も終わり、お迎えの人(ディルクは仕事があったから別の騎士さんだった)と一緒にお城に戻った私は、夕食もそこそこに部屋に引っこんだ。立ち仕事で体はクタクタである。『労働は実に尊いなぁ』と全身に疲れを感じつつも、さわやかな充実感で満たされていた。
ディルクは帰宅した私を出迎えてくれたが、私の無事を確認するやいなや早々に自分の屋敷へと帰ってしまった。いくらお付きの騎士とはいえ、別に一晩中主人のそばに張り付いているわけではないのだ……まあ朝は、私が起きる前には、すでにお城に出勤しているみたいだけど。それにうちの騎士様は有能だそうだから、他にも色々仕事があって忙しい身なのだ。
――でもまぁ、忙しい身っていうなら、今の私だってそうだよなぁ。
寝間着に着替えもせずにベッドにパタリと倒れた私は、ぼんやりとした頭で今日一日を朝からふり返ってみた。
午前中はエポック先生の授業があって、昼食の後はダンスのレッスン、それからバイト……その合間を縫って、宿題をやったっけ。
「もう寝よっと……」
せめて寝間着に着替えようとベッドから半身を起こした私は、ふと乾いてカサカサする両手を見下ろした。あ、あかぎれができている。やっぱ水仕事はツラいよ。でもお茶運びだけするよりも、皿洗いもした方が時給良いから仕方がない。
再びパタリ、と背中からベッドに倒れこんだところで、控えめなノックの音が聞こえた。ヨリが寝る前のお茶を運んできたのかと思い、起き上がって返事をすると、扉を開けたのはなんとディルクだった。
「夜分に失礼します」
私はあわててベッドの上で居住まいを正すと、マント姿の騎士様を出迎えた。普通なら騎士がいったん帰宅したら、よっぽどのことが無い限り、翌朝まで城へ来ることはない。つまりこういうイレギュラーな登場は、大抵やっかい事が起きた時と相場は決まっている。
「夕食を召し上がらなかったそうですね」
ディルクは外出用のマントをヒラリと旋回させながら外すと、近くの椅子の背もたれにかけた。
「え、食べたよ?」
「ほとんど召し上がらなかった、とシェフから報告を受けております」
腕組みして立つディルクは、厳しい表情でベッドに座る私を見つめている。
「いつもより食べなかっただけ、だと思うけど……」
と、私のおずおずとした口調が、尻すぼみに小さくなった。確かに今日はちょっと食欲が無かったのだ。そりゃメインディッシュの肉料理は残しちゃったけど、出されたスープは全部飲んだし、パンだってゆでた野菜だって多少つまんだのに。そう説明すると、ディルクは神妙な顔で、
「バイトのお時間を減らしたほうが良さそうですね」
と言いだした。
「え、それはヤダ!」
「では、お食事はきちんと召し上がってください。明日もこのような状態でしたら、バイトのお時間を削らせていただきます」
「そんなぁ……」
有無を言わさぬ表情で私を見つめる騎士様を、私は困惑気味に見つめ返した。弱ったなぁ。バイト時間が減ると、目標金額を達成できないよ。こうなったら明日はなにがなんでもちゃんと食べなくては。
「それから姫様、両手を出してください」
「は?」
反射的に両手を広げてみせたら、騎士の白い手袋の手が私の手首を取らえた。じっと私の手のひらを見下ろすディルクの様子が、なんだかおかしい。
「……荒れてますね。クリームを塗ってさしあげます」
「え、いいよ。どうせ明日になればまた……」
と、そこで私は言葉を切った。ディルク怒ってる? なんで?
「たしか初めのお話では、仕事内容はお茶運びだけ、ということでしたが。一体どういうわけで、水仕事などおやりになったのですか」
「どういうわけって……そのう、ちょっと別の仕事もやってみたかったから、です」
説明する声が、尻つぼみに小さくなってしまった。つかまれていた手首がそっと放されても、ディルクの視線を両手に感じた。なんでそんなに怒っているのか、意味分かんない。
私が首をひねっていると、ディルクは踵を返し、勝手知ったるといった感じで奥のパウダールームへ消えた。しばらくして戻ってきた騎士様の手には、保湿クリームが握られていた。あんなものが、この部屋にあったとは……私は存在すら知らなかったよ。
ディルクはベッドの前の椅子に腰をおろすと、私の手を片方ずつ取って、ていねいにクリームを塗りこみ始めた。
――なんだこれ、恥ずかしいぞ……。
ディルクの騎士らしい、剣を握る固い指先が、おどろくほど繊細な動きで、私の手のひらや爪の甘皮にいたるまで滑っていく。
「どこかしみたり、痛むところはありませんか」
「ううん、へーき……」
実はちょっとしみたけど、ここで『うん』と言おうものなら、冗談じゃなく即刻バイトを禁止されるかもしれないから黙っていた。
「明日バイトへ行かれる際に、このクリームを忘れずにお持ちください。こまめに塗らないと、また新しいあかぎれが出来てしまったら大変ですから」
「あかぎれなんて、別に、そんなたいしたことないよ」
ディルクの言葉に私は思わず笑ってしまった。だって水仕事すれば、誰だってあかぎれぐらいできるものだ。実際、私の母さんだって、毎日水仕事してたから手はあかぎれだらけだった。
「たいしたことない? とんでもない、姫君として恥ずかしいとは思わないのですか」
「……恥ずかしい?」
「荒れた、みっともない手なんて、一国の姫君としての自覚が……」
「みっともなくないもん!」
急に大声を張り上げた私に、ディルクはおどろいた様子でクリームを塗る手を止めた。それを振り払うようにして、私は震える両手を引っこめた。
「水仕事する人は、みんな手が荒れるもん。私だけじゃなくって、私の母さんも、おばあちゃんも、みんな手にあかぎれがあったもん。だけど全然、みっともなくなんかなかったんだから!」
「……姫様」
「ディルクは水仕事なんかしたことないから、そんな風に言うんだ。でも誰かが水仕事しないと、きれいな食器だって、ふきんだって、使えないんだからね!」
自分でも、どうしてこんなにムキになっているのか分からなかった。とりあえず気まずくなってしまったのはたしかだ。
後から考えてみると、ディルクの発言は至極もっともで、一国の姫君の手があかぎれだらけだったら、たしかに体裁悪いだろうに。
でも、私は姫だけど、そういう意味では姫じゃなかった。
「申し訳ありません。私の失言でした」
やけにあっさり非を認めたディルクに、私は一瞬虚を突かれてしまった。ディルクは呆けたように座りこむ私に一礼すると、マントを手に部屋を出て行ってしまった。
バイトも早三日目。ずいぶん仕事にも慣れてきた矢先のことだった。
店長が腰を痛めた。どうやら、ぎっくり腰らしい。なんでも昨夜、棚の上からお茶の缶を取り出そうとしたとき、踏み台から足をすべらせ、床に尻もちをついた時に腰を打ったそうだ。
そんなわけで店長は、朝からつらそうに腰を丸めながら仕事をしていた。だが湿布だけは貼れないと言う。湿布のにおいが、お茶にうつってしまうからだそうだ。代わりに鎮痛剤を飲むことにした。お茶の調合で忙しい店長のために、私が痛み止めを買いに行くことになった。
そんなわけで、私は近所の薬屋さんを訪れた。
「すいませーん、痛み止めの飲み薬ってありますか?」
薬屋さんの店内で、カウンター越しに声を掛けた。すると奥から店員のひとりが出てきて、あれこれ数種類の薬を勧めてくれた。正直どれがいいか分からないから、一番高い値段のものから二番目ぐらいのものを選んでみた。理由は単純で、お金がギリギリ足りるのはその薬だったからだ。
――高ければ効くってものでもないだろーけどね。
お会計を待つ間、カウンターの棚に陳列している薬草をながめていた。すると奇妙な会話が聞こえてきた。
「……で、そいつが壊滅的にダンスが下手なんだとよ」
「なるほど。それでダンスのレッスンを、というわけか」
なんか身に覚えのある内容だ……会話の聞こえてきた方を振り返ると、入口付近に二人連れの旅人風なおじさんたちがいた。
「でも、なかなか上達しないらしいぜ」
「御苦労なこった」
その会話を聞いて、なんか切なくなってきた。
――ダンス苦手な人って、どこにでもいるもんなんだなぁ。
まるでわが身のことのようで、その『壊滅的』なダンサーに共感を覚えてしまった。私もエミリア先生について三日経ったけれど、ちっともうまくなった感がしないんだよね。たかが三日、されど三日な気分。
とまあ、この時はのん気に考えていたのだけど……これが後々思いもよらぬ方向へ展開していくことになろうとは、このときは想像もつかなかった。