(9)
たぶん、いや絶対かもしれない……この斜面は登れない。
私は目の前に立ちはだかる白い壁を見上げ、すでにあきらめの境地にいた。
ついでに気がついちゃったのは、数メートル後ろには崖っぷち。
今度は落っこちる前に気づいただけマシだったと自分をなぐさめてみるも、やっぱりこの絶望的な状況は変わらない。
「寒っ……」
風が出てきたせいか足もとの粉雪が地上から舞い上がり、辺りは白い霧のようなものに覆われて視界が悪い。このままではヤバイことになってしまいそう……いや、もう十分ヤバイか。
少しパニックになりそうな心を何とか落ち着かせて、記憶の底に沈んでいる『役に立ちそうな知識』を必死に検索してみることにする。
まずは、迷子になったら下手に動かず助けを待つ。
……でもこんな時間じゃ、助けを待っている間に凍えてしまいそう。
どこか避難場所を探す。
……でも視界が悪いんだよなぁ。
次は……えーと、もう無い。
待って、待ってよ……そう、そうだ。じっとしててもきっと助けはすぐには来ない。だって今真夜中だもん! ディルクだって眠っているよ!
ディルクが起きるのは遅くとも朝六時ぐらいとして、そうすればきっと私の不在に気づくはずだ……今たぶん真夜中過ぎてるだろうから、あと五、六時間もすれば……って、うわあそんな長く待てないよ!
じゃあやっぱり自力で避難場所を見つけるしかない。
どっかに風避けできる場所ないかなぁ……そうすれば、少しはましなんだけど。
不幸中の幸いと言えるのか、わりと近くに洞穴を見つけることができた。
どうやって見つけたかと言えば何のことはない、視界が悪いから仕方なく崖づたいに歩いていたら偶然発見したのだ。
洞窟の中に入ると、どうやら誰かが使ったらしき形跡があった。
ぽっかりと空いた、奥行き五メートルほどの楕円形の空間の中央には、たき火をしたような黒い燃えかすが地面にへばりついていたのだ。
「どうせなら、たき火の薪とかも置いといてくれればよかったのに……」
そんな勝手な文句をつぶやきつつ、私は寝間着を着替えてこなかったことにちょっと、いやだいぶ後悔していた。寝間着はやっぱり薄くて寒いし、その上に着込んだコートもこの場所じゃ気休め程度の防寒にしかならない。
いやだってさ、すぐに戻るつもりだったんだもん。
まさかこんなに長引くことになるとは考えてなかったよ……雪の恐ろしさをカンペキなめてた私。
ところでここってかなり寒いのに、じっとしてると不思議なほど眠気が襲ってくる。
助けを待ってる間しばらく眠ってようかな……あれ、でもこーゆー時って眠っちゃいけないんだっけ? ほら雪山で遭難して、眠っちゃうと凍死するっていうじゃん?
だめだだめだ、と睡魔と戦うことしばらく。
うう、なんだか……このままいくと、ホント眠っちゃう…………。
……。
……。
……。
「……さま、姫様!」
あれ、私夢見てるのかな。
ディルクの声が聞こえる。
「姫様、起きて下さい!」
「……あれ?」
鈍いオレンジ色の光に反射して、黄金色に鈍く光る髪が目に眩しい。
懐かしい、見覚えのある翡翠の瞳……これはまさに……。
「……なんでディルクがここにいるの?」
「……それはこちらの台詞です」
額に押し付けられた、あったかい温度。
ほっとした表情のディルクが「熱はありませんね」と言って、それからバサリとマントを脱ぐと私の肩に掛けようとする。
「寒いでしょう……これも掛けて下さい」
「そしたらディルクが寒くなるでしょ、だからヤダ」
眠気のせいか、緩慢な動きでえいやっ、とマントを掛けようとするディルクの手を拒む。
「ヤダって、姫様……」
「ヤダ、絶対ヤダ」
いくらディルクが鍛えているからって、まさかこの吹雪の中マント取り上げたらさすがに凍えて倒れちゃう。この人ムダに我慢強そうだから、きっと寒くても「寒くない」って言い張りそーだし。
珍しく困った表情を浮かべるディルクに、私は余計焦れたようにヤダを連発した。
ああ寒くてまた意識がもうろうとしてきた……これが夢か現実かも怪しくなってきた……もし夢だったら、ちょっと嬉しい夢かもしれない。
だって、ひとりじゃないから。
ディルクが来てくれたって、安心できるから。
「……仕方ありませんね」
ふわりと両腕を回されて、気がつくと私はディルクに抱きかかえられるようにしてマントの内側にすっぽりとくるまれた。全身にほわっと温かい熱がしみこんでいく。
「まだ寒いですか?」
「……ううん」
「眠ってはダメですよ……ああ、だいぶ吹雪いてきたみたいだ。このまま外に出るのは得策じゃないな。もう少し待ってみるか……」
ディルクの小さな独り言を子守唄に、私は眠りの縁を行ったり来たりしていた。
どのくらい時間が経ったのか、やがてディルクに軽く肩を揺さぶられた。
「……姫様、雪が止みましたよ」
「う……ん」
「王宮へ帰りましょう」
帰る? 今、帰るって言ったの?
今度こそ目がぱっちり覚めると、すぐ傍にやわらかく見つめる翡翠の双眸がふたぁつ。
「うわっ、ディルクだ!」
「どうしました?」
うわっ、今度こそ正気に戻った!
マントごとしっかりディルクの両腕に包まれていた私は急にこの体勢が恥ずかしくなり、そこから無理やり這い出した。そのまま洞穴の入口へと駆け寄って外をのぞく。
「うわぁ……」
雪はすっかりやんでいた。
月明かりで雪に覆われた野原一面がぼわっと浮かび上がる。どこまでも真っ白で静かな世界に、しばし言葉を失った。
「……なんにも見えない」
「そうですね」
隣に立つディルクが穏やかに相づちを打った。
よりそうように立つ影がやさしくて、つい余計なことまで口にしてしまいそうだ。
「私には何も見えないよ……景色も、それから人の気持ちも。コルティ姫様にも嫌われちゃったみたいだし」
「……姫様」
「どうしてだろ。うまくやろうとしても失敗ばかりしてる」
初めての公務だけど、形ばかりの賓客だけど、まだ姫として王族としての自覚も甘いけど……やっぱり努力が足りないのかな。私がこんなだから、ディルクには面倒ばかりかけてる気がする。
「確かにそうですね……姫様は分かってらっしゃらない」
隣で小さくため息をつくのが聞こえた。
「そんなあなたのために、私がお傍にいるのです」
肩にマントが掛けられ、そのまま肩を引き寄せられる。
あったかいぬくもりに、小さく丸まりたくなる。
「……世話かけてばっかでゴメン」
ポツリ、とつぶやいた自分の言葉がみじめで。
なさけないやら、申し訳ないやら、今なら自分のいいところなんてひとっつも見つからない感じがする。
「本当にあなたは……世話のしがいがあって騎士冥利に尽きる、というものです」
見上げるとそこには意地悪い、だけどどこか茶目っ気を感じられる微笑を浮かべた騎士様の顔があった。私は泣きだしたい気持ちをぐっとこらえ、それから「ありがと」とつぶやいた。
「とにかく王宮へ戻らなくちゃね」
「そうですね」
なんだか急に照れくさくなって、私は雪原へと小走りに飛び出した。
雪に埋もれそうな足を不器用に動かしながら、私はやっとこさ自分が落ちた場所らしきところまで引き返し、改めて目の前にそびえ立つ白い壁を見上げた。
ほんの数メートル、といった雪の斜面はかなり足場は悪そう。
でも雪は止んでるし、これでも私は木登りは得意だ。
――よし、ためしてみるか。
私は一気に駆けのぼろうと助走をつけるべく、じりじりと後ろへ数歩後退する。
「姫様!」
向こうからディルクの呼ぶ声……何をあんなに焦って走ってくるんだろ?
その時足元がズッと沈む、イヤな感触を覚えた。
「!?」
――しまった……そういや後ろに崖があったんだっけ……!
今さら思い出しても後の祭り。
私の身体は雪崩に包まれるようにして、再び空中へと放り出されたのだった……。