野に咲く花のように
「帰国早々、すぐにでも出立したいと?」
「はい」
まだまだ壮齢の国王は、黒い髭に包まれた端正な顔をしかめてみせると、目の前で恭しく膝を折る騎士ディルク・ベッセルロイアーを、謁見の間の最奥に設えられた玉座から見下ろしてため息をついた。
「なあディルク、そろそろ城に落ち着こうとは思わんか」
「と、おっしゃいますと?」
「しばらく誰かの専属騎士になってみてはどうだ。相変わらず、お前を我が騎士にと望む声は多い。なんでも裏では密かに予約待ちリストまであって、引く手数多だそうじゃないか?」
ディルクは一瞬嫌そうな表情を浮かべて見せた。普段がクールなポーカーフェイスだから、これは彼にとって珍しいことだろう。
「そのお話は何度もお断りしたはずです。私は誰の騎士にもなるつもりはありません」
「だがなぁ……そうか、うーん、それは残念だな……」
キッパリと断るディルクに、さすがの国王もゴリ押しできない。なぜならディルクのように黒サッシュの位を持つ騎士のみに与えられた『任務選択の自由』という『しきたり』のためだった。この城には昔から続く伝統的な『しきたり』が多く、たとえ国王でも遵守しなくてはならない。
それでも国王は往生際悪く食い下がる。子供たち……つまり多くの王子や姫君たちに「なんとかディルクを城にとどめて」とせがまれているのだ。子煩悩な国王は、なんとか目の前に立つ騎士の心を変えられないものかと腐心しているのだ。
「せっかく三年半ぶりの帰国ではないか。こちらの冬もそろそろ明ける頃だし、せめても春の祭典までゆっくりしたらどうだ?」
「……しかし」
「まあいいではないか、な? そうと決まれば、祭典の闘技大会に参加してもらおう。たまには若い者とも手合わせしてやってくれ。若輩者の騎士らにとって、黒サッシュの騎士と戦えるのは、良い刺激となるからな」
人好きのする国王の笑顔に、ディルクは観念した様子でため息をついた。
十五歳で騎士となったディルクは、十六になる頃にはすでに国内外でも注目を浴びる存在になっていた。名門ベッセルロイアー家の出身というサラブレットの血筋はもちろん、傑出した剣術に加えて、常に冷静沈着な物腰、おまけにスラリと長身の酷く整った容貌を持ち合わせていたものだから無理もない。
騎士のランクは腰に巻くサッシュベルトの色で示される。王族の専属騎士ともなれば、白・緑・青・紫・黒の五つの位の中で、少なくとも三位の青サッシュ以上というのが普通だ。だがディルクの場合、一番下の白サッシュの頃から『自分の専属騎士にしたい』という王族(主に姫君たちから)の強い要望が殺到していた。
王族たちは自分付きの騎士を、いわば一種のステータスのように思っている節がある。対して騎士たちは、王族の専属騎士となれば、華やかな表舞台と多額の報酬が約束される。つまり双方にとって決して悪い話ではない。
だがディルクは、王族の見栄や気まぐれに付き合わされるなんて、まっぴら御免だと常々思っていた。それよりも諸外国へ赴き、異国の地での外交任務に携わったり、国内にまだまだ点在する未開拓の地を視察する方が、己の見聞を広められ、よっぽど実になると考えていた。
王族達からの執拗な誘いに正直辟易していたディルクは、わずか十八で異例の黒サッシュの位を授かると同時に、遠く離れた異国の地での任務に志願して城を出た。
任務期間は三か月といった短いものもあれば、時には一、二年と長期に及ぶ場合もあった。いずれにせよ、自国に留まるつもりがなかったディルクは、ひとつの任務が終わるとすぐまた次の任務へと、ほぼ切れ目なしに旅立っていくのが常だった。
そんな生活を続けて早七年……ディルクもすでに二十五になっていた。騎士としての風格はもとより、男振りも格段に上がった。そんなディルクのこの度の帰還を、城の姫君たちが放っておくはずもない。
麗しくも凛々しい騎士様をひと目見ようと、城のあちこちにスタンバイしている者達……その大半はミーハーな女性だが……に、ディルクは心底うんざりしていた。
国王との謁見の後、ディルクは王宮で暮らすベッセルロイアー家の長女で実妹でもあるノエミを訪れた。今年二十歳を迎えたノエミは第一王子の妃で、城に上がって五年経つ。
昔からお兄ちゃん子だったノエミに久しぶりに会いたいとせがまれ、気軽に城から出られない身分となってしまった妹のために、ディルクは王宮の奥へと足を運んだのだ。
王子妃の住居がある宮殿のテラスで、ノエミに出迎えられたディルクは、昼下がりのお茶に付き合うことになった。
聡明なノエミとの会話は、国内外の情勢や外交にまで至った。やがて「堅い話ばかりっていうのもね」と、話題は城内の出来事や噂話へと移る。
いまだ「是非、我が騎士に」といった姫君たちからの熱烈なラブコールから逃げまわる兄ディルクに対し、ノエミは白い歯をのぞかせておかしそうに笑った。
「中には私に取り入って、あわよくば兄様を紹介してもらおうって魂胆の姫たちもいてね。まあ兄様の気持ちも分からなくもないけれど、王族の専属騎士をつとめる経験は悪いことばかりでもないわよ、きっと。良い経験になるわよ」
「だが……」
「そうそうオイゲンだって、あの年で専属騎士として現役復帰したんだから」
「まさか、オイゲン殿が?」
「父上も笑っていたわ。若い姫に振り回されて、年寄りの冷や水にならんといいがってね」
ノエミは朗らかな笑い声を立てた。しかし笑いごとではない、とディルクは眉間に皺を刻む。
すでに齢七十五のオイゲンは、若い頃こそ武術に長けた黒サッシュの騎士として、その名を国内外に轟かせていたが、寄る年波には勝てず、神経痛やらリューマチやらで肉体的には相当まいってると聞く。
「一体いくつなんだ、その姫は?」
「確かまだ十四、五歳よ。本当はオイゲンは、その姫の正式な騎士が決まるまでの、いわば仮の騎士として役目を引き受けたそうなの。でもその姫が、すっかりオイゲンに懐いてしまったらしくてね。どうしてもオイゲンがいいと言うものだから、陛下もしぶしぶ承知したみたい」
どうやらその姫は、国王にも目を掛けられているようだ。
「陛下ってば、二言目にはハナちゃんがどうしたこうしたって、暇さえあればハナちゃんに会いたがっているのよ。あんなに大勢の王子や姫がいるっていうのに不思議なものね」
「そんなにご執心なのか」
「ええ、そうよ。ハナちゃん……ハンナ姫は町育ちだから、お城育ちで気位の高い姫たちと違って、どこか素朴な感じがして可愛いのよね。今じゃオイゲンも骨抜きよ。『ハナちゃん』って呼び名も、オイゲンがつけたそうよ。なんでも『ハナ』って、東の国の言葉で『花』を意味するそうなの。親しみやすいから皆そう呼んでるわ」
楽しそうに説明するノエミも『ハナちゃん』を気に入っているようだ。しかしディルクはさして興味は無く、頬杖をついてテラスから望む庭園の景色を眺めていた。
もうじき春も近づいている為、念入りな手入れが施されているであろう草木や灌木、花壇などには、小さな新芽と共に固い蕾をそこかしこに膨らませている。
――そういえばここ数年、この地の春を見てなかったな。
すぐにでも次の任地へ旅立つつもりでいたディルクだが、国王もせめて祭りが終わるまではと引きとめる中、たまには故郷で春を迎えるのも悪くないかな、と思い始めていた。
帰還して三日目の早朝、所用で再び城を訪れたディルクは、騎士の詰め所である東の塔で、思いがけず老騎士オイゲンと出くわした。
「お久しぶりです、オイゲン殿」
「おお、確かリヅルの息子の……大きくなられたな!」
その言葉に、ディルクはちょっとだけ顔を赤らめる。リヅルとはディルクの父であるベッセルロイアー公爵の名前で、オイゲンとは遠縁ということもあって旧知の仲だ。そのせいか、オイゲンはいまだにディルクのことを子供のように扱う節がある。
「オイゲン殿も、お変わりないようで何よりです」
「いやあ、私も年でなぁ。ちょっと走っただけで、すぐ息が上がってしまうわ。なんせこの年で、若い姫さんの専属やっとるんでな」
そう言ってカラカラ陽気な笑い声を立てるオイゲンに、ディルクは微かに口元を上げた。どうやら噂の姫君は、かなりお転婆のようだ。
「たしかディルクは、異国の地から戻られたばかりであったな。ではハンナ姫をご存じないだろう? 私も含め、皆『ハナちゃん』とお呼びしてる姫さんなんだが」
「先日、妃殿下から伺ったばかりです。なんでも陛下のお気に入りの姫とか」
妃殿下とはノエミのことだ。オイゲンはふふ、と得意げに笑ってみせた。
「陛下どころか、皆ハナちゃんを好いとるよ。その名の通り、野の花のようにあどけない姫君であられるからな……とと、こうしちゃおれん。そろそろハナちゃんが起きる時間だ」
そう言って、オイゲンは足取り軽く去っていく。少し丸まった老騎士の背を見送りながら、ディルクは眉を持ち上げた。
バラでもスミレでもなく『野の花』に例える辺り、きっと十人並みの容姿の、だが愛嬌のある姫なのだろう。ノエミの話では、その姫は数年前の流行り病で母親を失うまで、普通の町娘として育てられたと聞く。しかも城に来るまで、孤児院に暮らしていたこともあったそうだ。
しかし話を聞く限り、同情によって人々の関心を引いているわけではなさそうだ……その姫の人柄に、人を惹きつける何かがあるのだろう。オイゲンやノエミの言葉を頭の中で反芻しつつ、ディルクはそんな感想を持ったのだった。
それから二週間ほど過ぎた、ある晩の事。
城下町の外れにある公爵家の屋敷で、ディルクは父ベッセルロイアー公爵と共に遅い夕食を取っていた。
すると突然ダイニングルームの重々しい扉が開き、よく躾けられた使用人が少々取り乱した様子で現れた。
「お食事中ご無礼をお許しください。たった今、城から早馬あって、オイゲン様のご容体が急変したとのご連絡を承りました」
オイゲンはここ数日、季節風邪をこじらせて床に伏していたはずだ。公爵は厳しい表情で立ち上がると「すぐに迎えの馬車と医師の手配を」と短く告げ、ディルクに振り返った。
「私は仕事のため、明日の朝早くにここを出立せねばならん。オイゲンの事も含め、後は頼んだぞ」
「もちろんです、父上」
公爵は明日から遠方の地へ視察を予定していた為、留守中の屋敷の管理はディルクに任せることになっていた。
「まったくオイゲンめ……風邪なんぞこじらせおってからに。だから病状が酷くなる前に宿舎を出て、うちの屋敷で養生しろと、再三言って聞かせたんだが」
口惜しそうな表情を浮かべる公爵は、遠縁とはいえ、実の兄弟より気を許している老騎士の身を案じるあまり大分顔色が悪い。
翌日になり、少々心残りをする様子で旅立った公爵は、何か虫の知らせでもあったのだろうか……後日ディルクは、その時のことを振り返っては思うのだった。
公爵が旅立ってから五日後……風邪をこじらせて肺炎を患ったオイゲンは、静かに息を引き取った。
その花束にディルクが気づいたのは、オイゲンの葬式が執り行われる当日の朝だった。
葬儀場となる教会では、ディルクを中心に葬儀前の最終確認を行っていた。教会関係者の一人と式場内を歩きつつ、祭壇にさしかかったところでディルクは小さな花束に目を留め、微かに眉を上げた。
祭壇は一面、白い花で埋め尽くされていた。しかしその陰に、だが棺の一番近くに、ピンクや黄色の雑草とも呼べるくらいちっぽけな花束がちょこん、と置かれていたのだ。
「葬儀の花は、予定通りすべて白にする予定だが……この花はなんだ?」
「それは故人が、生前大事にしていた花と聞いたものですから……」
「オイゲン殿が?」
「ええ。病床でお世話をしていた、使用人の一人がそう申しておりました」
式は午後から執り行われるため、一度屋敷へ戻ったディルクはダイニングで昼食をとる傍ら、件の使用人を呼び出して話を聞いてみることにした。
「はい……オイゲン様は、あの小さな花束をとても大切にされてました」
年若い使用人の娘は、滅多に直接話したことのない端正な風貌の若主人を前にして、顔を赤らめると恥ずかしそうに俯いた。
「オイゲン様が屋敷に来られてから、毎日お城からお見舞いの品々が届いておりました。そのうちの一つでございます」
「誰からの見舞いか分かるか?」
「いえ、そこまでは……でもオイゲン様は、何よりその花束を喜ばれました。いつでも見えるよう、枕元のサイドテーブルに飾りたいのだと仰せられたので、私が小さな花瓶にその花を生けてお運びしました」
城から見舞い品が届いていることは、ディルクも屋敷の執事から聞いてはいたが、中身の詳細までは聞いてなかった。
午後になって再び教会へ戻ったディルクは、祭壇に置かれた花束を注意深く眺める。花束は五つで、古い束はすでに色あせて枯れかけていた。つまり花束は毎日届けられていたらしい。一番新しい束は、まだ花弁が瑞々(みずみず)しかった。
このように町中の公園に生えてそうな、平凡な野の花がなぜ……と、そこまで考えた時、ディルクの脳裏にある名前が浮かんだ。
――ハンナ姫か?
城の庭園には咲いていないだろう花は、きっと森にでも出向いて摘んできたのだろう。大輪の薔薇や百合の中に紛れ、小さく咲いている素朴な草花……それはまるで、話しで聞いた『ハナちゃん』のイメージそのものだった。
城の姫達は重篤な患者を見舞うことは、たとえ親兄弟でも許されていない。ましてや血縁者でもない者の病気見舞いなど、とても許可が下りないだろう。
どれほどオイゲンの見舞いに行きたかっただろう……その気持ちが、野の花に込められているかのようで胸が締め付けられる。
ディルクはしばらく無言で、控え目に横たわる小さな花束を見つめた。
葬儀はひっそりと静かに執り行われた。
身内と関係者のみの参列とはいえ、教会の席はまばらに埋まるだけの寂しいものだった。
少ない列席者の中に、ディルクは初めてハンナ姫の姿を見た。ハンナ姫は後方の席で、二人の従者に挟まれる形で座っていた。
肩上で揃えられた黒髪からのぞく小さな横顔は青ざめ、その表情は硬かった。王族特有のオーラも無く、しかも小柄なので、人に紛れたら見失ってしまいそうな少女だった。
時折、両隣の従者に話かけられている……おそらく大丈夫ですか、といった類だろう……が、ハンナ姫は固く口を閉ざしたまま小さく頷くか、首を振るばかりだった。
やがて式も終わり、参列者のほとんどが去ってしまった後、式場は後片付けの業者のみとなった。
棺はすでに教会裏の墓に葬られ、きっとあたかも初めから存在したかのように、周囲の墓標に溶け込んでしまっているだろう……墓標はどれも似通っていて、際立った特徴もないのだから。
――人ひとり死ぬとは、何ともあっけないものだな……。
ディルクは冷めた気持で、空っぽになった教会を見渡した。
オイゲンは生前人望も厚く、若いころは数々の王族に仕えたと聞く。剣の腕が立ち、その温かい人柄で周囲からも慕われていたという。
オイゲンの妻は早くに亡くなった上、子供も儲けなかった為、晩年は身内と呼べる親類縁者が少なかった。妻の死後は城内の騎士用宿舎へ移り、城内で雑務を手伝いながら、静かな暮らしを送っていたそうだ。
だがそんな折、若い姫の専属に指名され、それから生き生きとした様子だったという。ディルクがあんなに嫌がり、避けていた専属騎士の仕事……そこに彼は生きがいを見出していたようだ。
ディルクの帰路に着こうとしていた足が、再び教会の裏庭から続く墓地へと向いてしまった。どうしてだか、オイゲンにもう一度会いたいと思った。
……しかし、そこには先客がいた。
「……それでね、エポック先生が言うんだよ。これからはオイゲンがいないのだから、ひとりでもちゃんと勉強して、立派な姫にならなくちゃいけないって。そんなの分かっているのにねぇ」
墓標の前にいたのは、他でもないハンナ姫だった。ハンナ姫は喪服のドレスが汚れるのも構わず、地面に跪くと、真新しい石の墓標に向かって真剣な面持ちで語りかけていた。
「立派な姫君になるから、心配しなくていいよ。まずは食べ物の好き嫌いを無くさなくちゃいけないよね? あと朝寝坊を直して、クロッカスの鉢に水をやるのを忘れないこと。あっ、それから王様と、もっと打ち解けること……だけど、まだ王様のこと『お父さん』なんて呼べないよ。お城に住んで三年経ったけど、まだ王様が私のお父さんて実感なくてさ……でも仲良くやってくよ、うん」
そう言って喪服の姫君はえへへ、と笑ってみせたが、その表情は今にも泣きだしそうに見えた。
「オイゲンとはもう遊べないけどさ、リーザちゃんがいるから寂しくないよ。でも魚釣りは駄目だろうなぁ……リーザちゃん、あまり外で遊んだことないみたい。きっと餌の虫とか触れないよ」
風が出てきた。
「そうそう例のいちご畑、アレはまだオイゲンと二人だけの秘密だよ……いつか信頼できる人が現れたら、どこにあるのか教えてもいいけど……あと他にも、いろいろ…………」
徐々にうなだれていくハンナ姫を、ディルクは物影からじっと見つめ続けた。
「……。……っ……、……」
ささやき声なのか、その言葉はディルクに届かない。
しかし彼女の胸の内が、木々の葉をさやかにゆらす夕暮れの風に乗って、震えるように伝わってくるように思えた。
しかし葉が揺れる音が増すにつれ、ハンナ姫の声が声が、やさしくかき消されていく。
地面の上で両手を握りしめ、何か言いながら涙を流すハンナ姫の姿があった。彼女の聞こえない泣き声が、ディルクの脳裏に大きく響く。
その時カサッ、とディルクの真後ろで草を踏みしめる音が聞こえた。
はっとして振り向くと、数メートル離れた先に二人の従者が立っていた。おそらく物音をたてぬように近づいたのだろう……ディルクは不覚にも、背後に気付かなかった自分に衝撃を受ける。
ディルクと目が合った二人の従者のうち、ひとりがそっと近づいてきた。その顔には悲しげな微笑が浮かんでいる。
「申し訳ありません。式の後すぐにでも城へ戻るつもりだったのですが」
「いえ、気が済むまでいて下さって構いませんよ」
従者の男はハンナ姫の姿を見つめながら、やるせないように首を振った。
「おいたわしい事です。姫様はオイゲン殿を、実の祖父のように慕っておいででした」
「……オイゲン殿は幸せ者ですね」
そう言ってディルクは振り返ると、ハンナ姫の小さな背中を見つめる。
「本当に……幸せ者です」
その時生まれて初めて、ディルクの胸の内にある思いが宿った。
守ってあげたい、という強い気持ちだった。
◇ ◇ ◇
「そうそう、この道をずっと真っ直ぐ行くんだよ……あ、途中に大きな岩があるから、そこで右に曲がるの」
ある晴れた夏の朝。まぶしい新緑に包まれながら、美しい毛並みの白馬が森をゆっくりと駆け抜けてゆく。
「もうじき湖に着きますよ」
たずなを引くのは黄金の髪をなびかせる、凛々しい横顔の若い騎士だ。
「えぇ!? じゃあ行き過ぎちゃったかも。ちょっと止まって、一旦降りるから」
騎士の前に座る黒髪の少女は、馬のたてがみにしがみついたまま唸った。すると騎士は秀麗な顔を少しだけしかめてみせる。
「先ほどから、この辺りは何度も往復してますよ。いい加減、どこへ行くのかくらい教えてください」
「秘密だって言ったじゃん……でもおかしいな、この辺のはずなんだけど」
馬から降りた少女が、難しい顔をして腕組みする様子に、騎士はこっそり苦笑を漏らした。
「姫様、少し休憩しませんか。お昼にしましょう」
ディルクはヒラリと馬上から飛び降りると、ハンナ姫が文句を言う前にさっさと手を伸ばして、小さな体を地上に降ろした。
ハンナ姫は何でもひとりでやりたがるので、馬の乗り降りも自分でできると言い張るのだが、ディルクはその言葉を跳ね付けてる。なぜなら何度もその目で、ハンナが危なっかしく馬から飛び降りるところを目撃しているからだ。
「せっかく、お昼のデザートにいちご食べようと思ったのに……」
「いちごが食べたかったのですか? 事前に教えていただければ、厨房に頼んで用意させましたのに」
「そうじゃなくって、現地調達する予定だったの……よし、きっとこっちだ」
そう言ってクルリと向きを変えると、ハンナは梢をかき分けて、ひとり森林の中を歩き出す。
「姫様、お待ちください」
「あ、思い出した! こっちだこっち……ディルク早く早く! すっごいよ、一面いちごだらけなんだよ! ここはね、オイゲンと二人で見つけたんだよ……懐かしいなぁ……ホント懐かしいなぁ……」
ハンナ姫は、笑顔で騎士に振りかえった。その瞳は懐かしさであふれているが、いつかの日のような憂いはない。
――いつでも、あなたが笑っていられますよう……私がお守りいたします。
騎士は一度青空を振り仰ぐと、改めて心に誓ったのだった。
(完)