過去
その日、人々は言いようのない焦燥感、喪失感を抱えて目覚めた。別に悪い夢を見たわけではない。しかし心の胸騒ぎは確かに人々の心の中に鎮座していた。それは蛇が首をもたげるが如くスッと一定のレベルで安定した心の揺らぎであった。
最初に気付いたのは誰かは定かではない。もちろん僕ではない。公式記録ではアメリカのメイン州に住む主婦が胸騒ぎを沈めるために朝の散歩に出かけた際に、発見したことになっている。彼女はすぐに家に戻り、3歳の息子を抱えて外に出てみた。愛するわが子を抱える幸せな影はそこには無く、ざらざらとしたアスファルトの灰色が鮮明に映し出されていた。
彼女はすぐに町の牧師に電話をかけた。悪魔に取り付かれたと思ったそうだ。
「もしもし、レイ牧師ですか?」
彼女は出来るだけ冷静を保とうと努力し、1語1語はっきりと発音した。彼女自身もまだ半信半疑であったが、傍から見たら完全に頭がおかしいことを言わなければならないことを自覚していた。
この小さな田舎町では噂はすぐにコミュニティーに広がる。たとえ牧師が誰かに漏らさなくとも、、、洩らすはずがないが、、、結局悪い噂が出ることは否定できない。
「あら、メアリーさんおはようございます。ごめんなさいね、今夫は礼拝堂でお祈りをしているの。普段は遅い時間にやるのだけれど、、、何か急ぎの御用ですか?良かったら私が伝えておきますけど。」
最悪だ、とメアリーは落胆した。このレイ牧師の妻ミシェルはとてもお喋りで、見聞きした事実に尾をつけて流すのが好きな人物であった。ミシェルの伝言の気遣いは、キリスト教的隣人愛に端を発したものではなく、噂好きの性が疼いたのだった。
「朝早くにお電話を差し上げて申し訳ありません。実はなにぶん込み入った話になりますので直接牧師さんに伝えたいと思いまして、出来れば牧師を呼んできていただけないでしょうか?」
メアリーは相手に悟られないようにトーンを少し明るめにとった。しかし、噂を流し人の顔色を伺うことに長けているミシェルにはメアリーの真意は隠せなかったと思われる。
「わかりました、今呼んで参りますのでそのままお待ちになってください」
ミシェルは少しだが、明らかに不愉快そうな声に変わってそう言った。
というのも、牧師はこのミシェルのことをよく理解しているので、電話で応対するときには妻を部屋から出すのが癖になっていた。重厚なつくりの樫の木製のドアを隔てると、電話で話す夫の声がほとんど聞こえなくなり、ミシェルには面白くないのである。しかし、今回に限って言えば相談の内容がミシェルの手により広められようが、られまいが関係なかった。悪魔が取りついて影を切り取ったならば、町の人々全員が悪魔に魅入られていたのだから、、、。
ミシェルに呼ばれ牧師が急いでやってきた。電話を取りしゃべろうとするときに、彼女が部屋の中にいることに気がついた。彼は無言で
「外に出ていろ」
と、手で合図した。彼女はしぶしぶ部屋の外に出て行った。
「お待たせしました、メアリーさん。いかがなさいました?」
牧師も漠然とした不安を感じてはいたが、それを露とも感じさせないやさしい包み込むような口調で応対した。
「礼拝中に申し訳ありません。実は、その、、、とても言いにくいことなのですが、悪魔に取り付かれてしまったみたいなの。でなければ私の頭はおかしくなってしまったわ。」
「悪魔ですか?それは悠長に構えてられませんね。」
実際は牧師は多少悠長に構えていた。
「でもなぜそのように感じるのですか?」
「影が、、、私と息子の影が、、、消えてしまったのです」
「影が?まさかそんなことはないでしょう?見間違いか何かではないのですか?まだ光が弱かったとか。」
牧師は、そういいながら悪魔が取り付いたとされる事例で『影が消える』と言う症状が現れたことがあったかなぁ、とぼんやり記憶を探っていた。
「見間違いでは無いんです。何度みても影が地面に映らないのです。とにかく来てください。私、不安で不安で、、、。」
メアリーは半分泣き出していた。その泣き声を聞いて牧師の感じていた不安はムクムクと増大していった。
「わかりました。今からお伺いしますので、落ち着いて待っていてください。息子さんもそこにいるのですか?」
「えぇ、います。でも何故か少しぐずっているのです。どうか早く来てください。」
牧師は電話を切ると不安の中で半信半疑ながらもスーツに着替え、外にでた。
牧師はふと玄関の地面に視線を落とした。
そこのは牧師の影は無かった。牧師の溢れ出した不安が汗となり背中を流れていった。