第9話「大使の来訪と初めての公式外交」
ルシアンがガルディナ帝国に来てから、早くも一ヶ月の月日が流れた。
ある日の午前、マルコから急な呼び出しを受け、ルシアンは皇帝の執務室へと足を運んだ。部屋に入ると、マルコは厳しい表情で一枚の書簡を睨みつけていた。
「ルシアン、よく来てくれた。明日の昼、西方にある大国、ヴァルデリア公国からの特使が到着する。この書簡はその事前通知だ」
ヴァルデリア公国。気位が高く、他国との交渉では常に自国の言語である「古ヴァルデリア語」を用いることで知られている。
「彼らは今回、国境付近の鉱山開発に関する新たな条約を結ぶためにやって来る。だが、向こうが用意した条約の草案は、当然のごとく古ヴァルデリア語で書かれているのだ。我が国の学士たちでは、正確なニュアンスを掴むのに一週間はかかる。お前に、この公式な外交の場に同席してもらい、私の通訳を務めてほしい」
その言葉の重みに、ルシアンの肩がわずかにこわばった。これまでは、安全な書斎の中で書物を相手に翻訳するだけの仕事だった。だが、今回は国家の命運を左右する公式な外交の場だ。
マルコの深く穏やかな瞳を見つめ返した瞬間、その恐怖は嘘のように霧散していった。
「……承知いたしました。マルコ様のお役に立てるよう、全力を尽くします」
翌日、帝国の迎賓館にある大広間は、張り詰めた空気に包まれていた。
マルコは上座にどっしりと座り、圧倒的な覇者の風格を漂わせていた。そしてその右隣に、ルシアンは座っていた。
ヴァルデリア公国の特使は、見下すような視線をガルディナ側の高官たちに向けた後、口を開いた。彼らが発した言葉は、複雑な摩擦音と独特の抑揚を持つ古ヴァルデリア語だった。
特使の言葉が終わるや否や、ルシアンは涼やかな声で、一切の淀みなく現代ガルディナ語へと翻訳し始めた。
「『我らが偉大なる公国は、貴国との友好を望むものである。しかし、国境の鉱山に関する利益配分については、我々の伝統と権利を最大限に尊重する形での見直しを要求する』……とのことです」
完璧な発音と、的確な意訳。特使は、ルシアンが自分たちの言葉を完全に理解していることに驚愕し、目を見開いた。
そこからは、ルシアンの独壇場だった。特使が繰り出す複雑な比喩表現を、ルシアンは瞬時に見抜き、マルコに正確に伝達していく。マルコはルシアンの言葉を受け、冷静かつ的確に切り返し、交渉の主導権を完全に掌握した。
ヴァルデリアの特使は次第に焦りの色を浮かべ、最後にはマルコの提示した、帝国にとって極めて有利な条件の条約にサインせざるを得なくなった。
交渉が終わり、重厚な扉が閉まった瞬間、緊張の糸が切れ、ルシアンは小さく息を吐き出した。その肩を、大きく温かい手が優しく包み込んだ。
「見事だったぞ、ルシアン。お前のおかげで、帝国は大きな利益を得ることができた」
マルコの声には、誇らしげな響きが含まれていた。周囲の高官たちからも、次々と称賛の言葉と拍手が送られる。
ルシアンは頬を赤らめながら、少し照れくさそうに微笑んだ。




