第8話「お茶会と甘い菓子の記憶」
数日が過ぎ、ルシアンはすっかり新しい環境での生活に慣れ始めていた。
マルコは毎日、どんなに公務が忙しくても、必ず一度はルシアンの書斎に顔を出すようになっていた。
その日の午後も、ルシアンが東方の部族との交易協定書を現代語に直していると、マルコが珍しく従者を伴わずに一人で部屋を訪れた。
彼の手には、銀色の立派な盆が乗せられており、そこには湯気を立てる二つのティーカップと、色鮮やかな焼き菓子が盛られた皿が置かれていた。
「ルシアン、少し手を休めないか。茶の時間にしよう」
皇帝自らが茶の用意を持ってくるなど、前代未聞の出来事だ。
「へ、陛下! そのようなことをご自身で……私が用意いたしますのに」
「気にするな。たまには息抜きも必要だ。お前は少し根を詰めすぎるきらいがある」
マルコは全く意に介する様子もなく、ルシアンの机の向かいにある応接用の丸テーブルに盆を置いた。
カップから立ち上るのは、柑橘系の爽やかな香りが特徴的な帝国の高級茶葉の匂いだった。
テーブルを挟んで至近距離で向かい合うと、マルコの深い森のようなアルファの香りが、いつもより強く感じられる。
「これを食べてみろ。帝都で一番腕のいい菓子職人に焼かせたものだ」
マルコが勧めたのは、表面に砂糖の結晶が散りばめられ、中心に真っ赤な木苺のジャムが乗った可愛らしいクッキーだった。
ルシアンは震える指でそれを一つ摘み上げ、小さく口に運んだ。サクッとした軽い歯触りの直後、濃厚なバターの風味と木苺の甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
「……とても、美味しいです」
「そうか。それはよかった」
マルコは満足げに頷き、自分のティーカップに口をつけた。
「エルメリア王国では、こうして茶を楽しむ時間もなかったのだろう」
不意に投げかけられたその言葉に、ルシアンは少しだけ動きを止めた。暗い執務室で、冷え切った紅茶と固いパンの耳だけをかじりながら、徹夜で翻訳を続けていた記憶が蘇る。
「……はい。私が任されていた仕事は、常に期限に追われるものばかりでしたので。それに、オメガである私は、華やかな場に出ることも好まれませんでしたから」
ルシアンが自嘲気味にそうつぶやくと、マルコの瞳の奥で、一瞬だけ鋭い光が瞬いた。
「あの国の王族の目は節穴か。これほどの宝を自ら泥の中に突き落とすとは、愚かにもほどがある。お前はもう、誰かに虐げられる存在ではない。ここでは、お前はお前のままでいいのだ。好きな時に茶を飲み、好きな時に休み、存分にその才を振るえばいい」
その言葉は、ルシアンの心に掛けられていた重い鎖を、一つ一つ丁寧に外していくような力を持っていた。
「……ありがとうございます、陛下」
「マルコだ」
「え?」
「二人きりの時は、そう呼べ。陛下という肩書きは、どうも堅苦しくていかん」
皇帝を名前で呼ぶなど、本来なら不敬罪で首が飛んでもおかしくない要求だ。
「そ、そのような恐れ多いこと……。私のような者が……」
「命令だ」
マルコはわざと威厳たっぷりに低く言い放ったが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「……マルコ、様」
「まあ、合格としておこう」
マルコは満足そうに目を細め、再びティーカップに口をつけた。




