第5話「黄金の瞳と静かなる覇王」
部屋に響くのは、規則正しい柱時計の振り子の音だけだった。
ルシアンはベッドの上で膝を抱え、メイドが去った後の扉をじっと見つめていた。
ガルディナ帝国の皇帝、マルコ。もし彼が本当にあの夜の男なのだとしたら、なぜ自分のような価値のないオメガを助けたのだろうか。
廊下の向こうから微かに足音が近づいてくるのが聞こえた。硬い靴底が石の床を叩く、重く、迷いのない足音。それは間違いなく、あの夜の森で聞いた足音と同じリズムだった。
扉のノックは一度だけ。返事をする間もなく、重厚な扉が静かに開かれた。
部屋に入ってきたのは、長身の男だった。漆黒の髪は丁寧に撫でつけられ、彫りの深い顔立ちはまるで大理石から切り出された彫刻のように整っている。軍服を思わせる機能的な黒の礼服が、彼の引き締まった体躯を包み込んでいた。
そして何より、真っ直ぐにルシアンを見据える黄金の瞳。
男が部屋の中心へと歩みを進めると、あの夜と同じ、深い森を思わせる静かなアルファの香りがふわりと漂ってきた。
「目が覚めたか」
男が口を開いた。低く、地鳴りのような響きを持つ声だが、決して威圧的ではなかった。
ルシアンは慌ててベッドから降りようとした。皇帝の御前で寝転がったままでいるなど、無礼極まりない行為だ。しかし、熱を出して三日も寝込んでいた体が思うように動くはずもなく、膝の力が抜けてそのまま床に崩れ落ちそうになった。
「動くな」
鋭い声とともに、男が一瞬で距離を詰め、ルシアンの腕をしっかりと掴んで支えた。男はルシアンを軽々と抱き上げると、再びベッドの上へと丁寧に下ろした。
「無理をするな。まだ熱が下がりきっていないだろう」
「も、申し訳ありません……。皇帝陛下と知らず、無礼な振る舞いを……」
ルシアンがガルディナ語で必死に謝罪の言葉を紡ぐと、マルコはわずかに目を細めた。その視線には、怒りではなく純粋な興味の色が浮かんでいた。
「やはり、流暢に話すのだな。エルメリアの者が、帝国の言葉をこれほど自然に操るとは驚きだ」
マルコはベッドの傍らにある椅子を引き寄せ、ゆったりと腰を下ろした。
「あの夜、お前が教えてくれた道を進んだおかげで、我々は泥沼にはまることなく無事に国境を越えられた」
「あのような古い地図をお持ちでしたので……。古代ガルディナ語の地形図は、現代の地形とは少し異なる部分がありますから」
「なぜ、あれが古代語だとわかった。帝国の学者ですら、解読に何年もかかる代物だぞ」
マルコの問いかけに、ルシアンは言葉に詰まった。自分の能力について、どう説明すればいいのかわからなかったからだ。一度聞いた言葉の規則性が頭の中で瞬時に組み上がり、意味として理解できてしまう。文字を見ただけで、その背景にある文化や歴史の文脈までが流れ込んでくる。
「……昔から、文字や言葉が、少しだけ得意だったのです。ただ、それだけです」
ルシアンがぼそりと答えると、マルコはそれ以上深くは追及しなかった。代わりに、彼は静かな口調で問いかけた。
「お前は、エルメリアの公爵令息だな。なぜ、あんな嵐の夜に、護衛もつけずに国境近くの森をさまよっていた」
その問いに、ルシアンの胸がぎゅっと締め付けられた。婚約破棄され、いわれのない罪を着せられて追放されたこと。思い出すだけで、指先が微かに震え、視界が涙で滲みそうになる。
「私は……国を、追放されました。もう、エルメリア王国には戻れません」
惨めで、情けない自分の姿。マルコはきっと、自分を哀れみ、嘲笑うだろう。
そう思ってぎゅっと目を閉じたルシアンの耳に届いたのは、意外な言葉だった。
「愚かな国だ」
マルコの声には、明らかな侮蔑の色が混じっていた。だがそれは、ルシアンに対するものではなく、エルメリア王国そのものへ向けられたものだった。
「あれほどの才能を持つ者を、自ら手放すとはな。あの国の寿命もそう長くはないだろう」
その言葉は、ルシアンの心に深く刺さっていた氷の棘を、少しだけ溶かしてくれたような気がした。




