第4話「柔らかな寝台と未知の温もり」
深い水底から、泡が一つずつ水面へと浮かび上がるような感覚だった。
重く閉じたまぶたの裏で、暗闇が徐々に薄まり、柔らかな光の粒子がちらちらと舞い始める。
ルシアンは微かに指先を動かした。泥のぬかるみや、肌を刺すような氷雨の感触はない。代わりに手のひらを包み込んでいたのは、羽毛のように軽く、そして驚くほど滑らかな布の感触だった。
ゆっくりと目を開けると、視界の端で金糸の刺繍が施された天蓋が揺れている。高い天井には精緻なフレスコ画が描かれ、見知らぬ神話の神々が穏やかな微笑みをたたえてルシアンを見下ろしていた。
部屋全体を満たしているのは、かすかな香草の匂い。乾燥させたラベンダーと、どこか甘さを含んだ白檀の香りが鼻腔をくすぐり、こわばっていた神経をじんわりと解きほぐしていく。
ルシアンは息を深く吸い込み、ゆっくりと上半身を起こそうとした。だが、肩から背中にかけて鈍い痛みが走り、思わず小さく顔をしかめる。
ふかふかの枕に頭を戻し、ルシアンはぼんやりと天井を見つめた。
『ここは、どこだろう……』
エルメリア王国の自室ではないことは明らかだった。あんなに広くて明るく、豪勢な調度品に囲まれた部屋など、王城の客室にすら存在しない。
記憶の糸をたぐり寄せる。建国記念の夜会。ジュリアスからの婚約破棄と追放の宣告。氷のような雨が降りしきる暗い森。
そして、泥にまみれて倒れ伏した自分を抱き起こしてくれた、力強い腕と、燃えるような黄金の瞳。
あの時、ルシアンを包み込んだアルファの香りは、威圧的で他者をねじ伏せるような香りではなく、深い森の奥で静かに呼吸をする大樹のような、どこまでも穏やかで揺るぎない香りだった。
不意に、部屋の重厚な扉が音もなく開いた。入ってきたのは、初老の女性だった。清潔な白いエプロンと、ぴしりと糊の効いたメイド服を身につけ、手には湯気を立てる銀色の盆を持っている。
「おお、気がつかれたのですね。神に感謝を」
彼女が話した言葉は、エルメリア王国の言葉ではなかった。ガルディナ帝国の標準語だ。
ルシアンはかつて、エルメリアの執務室で何百通ものガルディナ帝国からの親書を翻訳してきた。だからこそ、彼女の言葉が自然に理解できた。
「あ、の……私は、どのくらい眠っていたのでしょうか」
ルシアンの口から流暢なガルディナ語が紡ぎ出された瞬間、メイドの女性は少しだけ目を丸くした。
「丸三日です。高熱が続いて、一時はどうなることかと……。陛下が直々にこの離宮へとお連れになり、最高の医師を手配されたのですよ」
陛下。その言葉が、ルシアンの頭の中で重く響いた。
森で出会ったあの黄金の瞳の男が、ガルディナ帝国の皇帝マルコだったというのか。強大な軍事力と経済力を誇り、大陸の覇者とも称される若き皇帝。冷徹で非情だという噂ばかりが先行しているが、彼が自ら一介の行き倒れを助けるなど、到底信じられないことだった。
「お召し上がりになれそうですか。温かいスープをお持ちしました」
メイドの優しい声に促され、ルシアンは小さく頷いた。
彼女は背中に幾重にもクッションを当ててルシアンを座らせ、銀の匙で琥珀色のスープをすくって口元へと運んでくれた。とろみのあるスープが舌の上を滑り、空っぽだった胃の底へと温かく落ちていく。
鶏肉と香味野菜の深い旨味がじんわりと広がり、ルシアンは思わずほうっと息をついた。
メイドが空になった器を下げ、手際よく毛布を掛け直してくれる。
「少し休んでいてくださいね。陛下に、お目覚めになったことをお伝えしてまいります」
メイドが部屋を立ち去ると、再び静寂が訪れた。
ルシアンは自分の手のひらをじっと見つめる。インクで汚れ、ささくれ立っていた指先は綺麗に拭い清められ、爪の先まで手入れがされていた。
追放されたオメガが、敵国とも言えるガルディナ帝国の皇帝の庇護下にいる。この信じがたい現実をどう受け止めればいいのか、ルシアンには全くわからなかった。




