第3話「夜の森と黄金の瞳」
雨は夜が深まるにつれて勢いを増し、氷のような冷たさでルシアンの体を打ち据えていた。
国境へと続く深い森の中は、一寸先も見えないほどの暗闇に包まれている。風が吹くたびに、太い枝がこすれ合って不気味な軋み音を立てた。
湿った土と腐葉土の匂いが、雨の匂いに混ざって鼻腔を突く。ルシアンの呼吸は荒く、喉の奥からひゅーひゅーという乾いた音が漏れていた。
足はすっかり感覚を失い、木の根に足を取られ、泥のぬかるみに何度も足首まで沈み込んだ。細い枝が頬や手の甲をかすめ、赤いかすり傷をいくつも作っていたが、寒さのあまり痛みすら感じなかった。
視界の端が白くぼやけ、平衡感覚が狂い始める。
『もう、だめかもしれない』
思考が泥のように鈍り、まぶたが鉛のように重く垂れ下がってくる。
次の瞬間、足がもつれてルシアンは前へのめり込んだ。顔面から冷たい泥水の中に倒れ込み、泥の味が口の中に広がった。
なんとか腕に力を入れて身を起こそうとしたが、指先はかじかんで全く動かない。冷たい土の感覚が、ゆっくりと体温を奪っていく。
心臓の鼓動だけが、耳の奥でやけに大きく響いていた。このまま泥の中で朽ち果てていくのだという絶望が、冷え切った心を覆い尽くす。
その時だった。地面を震わせるような、規則正しい重い音が聞こえてきた。馬の足音だ。
ルシアンは最後の力を振り絞り、泥だらけの顔をわずかに持ち上げた。木々の隙間から、オレンジ色に揺らめく松明の明かりが見えた。
十数人の騎馬の集団が、森の小道をゆっくりと進んでくる。集団の先頭で馬の手綱を握っているのは、ひときわ大柄な男だった。
雨よけの厚い黒マントを羽織り、その顔はフードの影に隠れてよく見えない。だが、彼から漂ってくる空気は、ジュリアスのような暴力的な威圧感とは全く異なっていた。重く、静かで、底知れない海のような落ち着きを払ったアルファの香り。
男の隣に馬を寄せた従者が、大きな羊皮紙を広げて何やら焦った様子で言葉を交わしている。
「陛下、やはりこの地図は我々には解読できません。古代文字の暗号が複雑すぎて、現在の現在地すら……」
「構わん。このまま北へ進めば、いずれ国境の川に出るはずだ」
低く、地を這うような深い声だった。その声を聞いた瞬間、ルシアンの胸の奥で何かが静かに震えた。
彼らが手にしている羊皮紙が、松明の明かりに照らされてルシアンの目に入った。そこに描かれているのは、複雑に絡み合った図形と、一見するとただの模様にしか見えない古い文字の羅列だった。
普通の人間には理解できないその文字が、ルシアンの目には、まるで自分の母国語のようにくっきりと意味を持って飛び込んできた。
それは、失われた古代ガルディナ語で書かれた地形図だった。
ルシアンは泥にまみれた手で地面をひっかき、這いずるようにして彼らの方へと体を動かした。喉が張り付いて声が出ない。それでも、生き延びるための本能が彼を突き動かしていた。
「……そちらへ、進んでは……いけません」
かすれた小さな声だったが、アルファである先頭の男の耳には確実に届いた。男の乗る黒馬がいななき、足を踏み止める。男がフードの下から鋭い視線を向け、ルシアンの泥だらけの姿を捉えた。
「誰だ」
従者たちが一斉に剣の柄に手をかけ、鋭い金属音が夜の森に響いた。だが、男は片手を軽く挙げて彼らを制止した。
男が馬から静かに降り、ルシアンの目の前まで歩み寄ってくる。黒いブーツが泥を踏む音がすぐそばで止まった。
「その地図の、右端に書かれている文字は……『眠りし大地の口』。北へ進めば、底なし沼が、あなたたちを飲み込みます」
男の顔が、わずかに驚きに動いたのがわかった。
「お前、この古代文字が読めるのか」
ルシアンはゆっくりと頷く。
「安全な道は……東にある、二股の枯れ木を……目印に……」
そこまで言い終えた瞬間、ルシアンの限界を超えていた糸がぷつりと切れた。視界が完全に黒く塗りつぶされ、体が崩れ落ちそうになる。
冷たい泥に再び顔を埋めることを覚悟したその時、力強い腕がルシアンの体をしっかりと抱き留めた。温かい体温と、雨に濡れた革の匂い、そして安心感を与える静かなアルファの香りが、ルシアンの全身を包み込んだ。
薄れゆく意識の中で最後に見たのは、松明の光を反射して燃えるように輝く、男の美しい黄金の瞳だった。




