第2話「砕け散った婚約と降りしきる雨」
ルシアンの否定の言葉を聞いた瞬間、ジュリアスは顔をしかめ、大げさにため息をついた。
「まだしらばくれるつもりか。見苦しいぞ、ルシアン」
ジュリアスの声には、同情の余地など欠片もなかった。
彼は隣で震えるミハイルの肩を抱き寄せ、ホールに集まった貴族たちに向かって朗々と語り始めた。
「このルシアンというオメガは、私の愛するミハイルにひどい嫌がらせを繰り返してきた。ミハイルの飲む茶に毒を混ぜ、階段の上から突き落とそうとし、さらには彼のドレスを刃物で切り裂いたのだ」
並べ立てられた罪状は、あまりにもありふれていて滑稽なものばかりだった。
ルシアンは目を丸くして、ジュリアスの顔を見つめた。そんな幼稚な真似をする暇があるなら、机の上に山積みになっている隣国の資料を一行でも多く翻訳したかった。何より、王宮の奥深くにあるルシアンの執務室から、ミハイルが過ごす客室までは歩いて三十分もかかる。
「殿下、それは何かの間違いです。私は彼とお会いしたことすら……」
「黙れ」
ジュリアスの怒鳴り声が、ルシアンの言葉を乱暴に遮った。
アルファの強い威圧感が波のように押し寄せ、ルシアンは息が詰まって一歩後ずさった。
ミハイルがジュリアスの胸に顔を押し当て、ひときわ大きな声で泣き声を上げる。
「殿下、怖い、怖いです……ルシアン様の目が、私を殺そうとしています」
嘘にまみれた甘ったるい声が、ホールの空気を支配していく。ミハイルの肩の揺れ方はあまりにもわざとらしく、泣き声には涙の湿り気が全く感じられなかった。
それでも、ジュリアスはミハイルの金色の髪をなだめるようになで、ルシアンをにらみつけた。
「これ以上、この可憐なオメガを苦しめることは許さない。ルシアン、貴様との婚約は今この瞬間をもって破棄する」
婚約破棄。その言葉がホールの壁に反響し、ルシアンの鼓膜を容赦なく叩いた。
幼い頃から王国の未来のために、自分の意志を押し殺してジュリアスに尽くしてきた。どんなに冷たくされても、国のために役立っているという誇りだけが、ルシアンの心を支えていたのだ。
それが今、あまりにもくだらない嘘の前に、音を立てて崩れ去っていく。
周囲の貴族たちは、ジュリアスの決定を称賛するように拍手を送っていた。
「さらに、王族への侮辱と傷害未遂の罪により、貴様をこのエルメリア王国から永久に追放する。今すぐ城から出て行け。荷物をまとめる時間など与えん」
追放の宣告が下された瞬間、ルシアンの心の中で何かがふつりと切れた。怒りよりも、悲しみよりも、深い諦めが胸の中を満たしていく。
何を言っても無駄なのだと、冷たい現実が彼を包み込んだ。自分の持てるすべてを捧げた国は、彼をただの薄汚れたゴミのように切り捨てたのだ。
ルシアンはゆっくりと深呼吸をし、姿勢を正した。彼は何も言わず、深く一礼をした。それが、この国に対する最後の別れの挨拶だった。
***
重厚な木製の扉を押し開け、城の外へと足を踏み出す。冷たい夜風が、火照った頬をなでていった。
夜空には分厚い雲が垂れ込め、月も星も隠されている。城の敷地を抜けて石畳の道を歩き始めたとき、ぽつり、と冷たいしずくが額に落ちた。
雨だった。
雨粒はあっという間に数を増し、激しい音を立てて地面を叩き始める。外套一つ持たずに追い出されたルシアンの体は、一瞬で冷たい雨に濡れそぼった。
薄い礼服は水分を含んで鉛のように重くなり、肌にべったりと張り付く。革靴の中に水が染み込み、一歩足を踏み出すたびにぐちゃりという不快な音が鳴った。
どこへ行けばいいのか、ルシアンにはわからなかった。ただ、この国から一刻も早く遠ざかりたいという本能だけが、彼を前へと突き動かしていた。
泥を跳ね上げながら、ルシアンは暗い夜の闇の中を歩き続けた。息を吐くたびに白い霧が生まれ、すぐに雨の中に溶けて消えた。




