第10話「星降る庭園と微熱の距離」
深い夜の帳が、ガルディナ帝国の巨大な城をすっぽりと包み込んでいた。
ルシアンの書斎には、磨き上げられた真鍮のランプが一つだけ灯されている。厚手の羊皮紙の表面を、滑らかなガラスペンが滑っていく。
ふと、背後の重厚なオーク材の扉が、音もなく開かれた。深い森の奥底を思わせる、静かで落ち着いたアルファの香りが部屋の空気に溶け込んでくる。
ルシアンは慌ててペンの動きを止め、椅子から立ち上がろうとした。しかし、背後から伸びてきた大きく温かい手が、ルシアンの肩を優しく押さえてそれを制止した。
「夜更かしが過ぎるぞ、ルシアン」
「マルコ様……。申し訳ありません、この章の翻訳だけは最後まで終わらせてしまいたくて」
言い訳のように小さな声でつぶやくと、マルコは静かに息を吐き出した。彼はルシアンの手からそっとガラスペンを抜き取り、机の上のペン置きへと転がした。
「帝国の繁栄も重要だが、私の専属翻訳官が倒れてしまっては元も子もない。少し目を休めるんだ。少し外の空気を吸おう。ついてこい」
マルコはそう言うと、ルシアンの細い手首を軽く掴み、扉の方へと歩き出した。
城の長い廊下を抜け、二人は夜の庭園へと足を踏み入れた。青白い月光が、綺麗に手入れされた白い石畳を冷ややかに照らし出していた。
秋の終わりが近づく帝国の夜風は、薄手の室内着しか着ていないルシアンの体には少しだけ冷たすぎた。ルシアンは思わず、身を縮めるようにして小さく肩を震わせた。
マルコは足を止めると、自身が羽織っていた黒いビロードの外套を無造作に脱ぎ、ルシアンの肩にふわりと掛けた。
「あっ……マルコ様、そのような、皇帝陛下の外套を私のような者に……」
「黙って着ていろ。風邪を引かれては困る」
分厚い布地からは、マルコの体温がじんわりと伝わってくる。そして何より、彼自身の香りがルシアンの全身を包み込み、まるで強固な盾に守られているかのような絶対的な安心感を与えてくれた。
「……ありがとうございます」
「お前は、いつも自分を低く見積もりすぎる」
マルコは夜空の星々を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
「オメガであるというだけで、どれほどの理不尽を強いられてきたのか、私には想像することしかできない。だが、ここでは誰もそんな目で見る者はいない。お前は、私の大切な……」
マルコはそこで言葉を切った。ルシアンは息を呑み、彼の次の言葉を待った。
「私の、大切な存在だ。誰にも奪わせはしないし、誰にも傷つけさせない」
ただの有能な翻訳官としてではなく、一人の人間として、これほどまでに強く求められている。目頭が熱くなり、視界がわずかにぼやけた。
「私も……マルコ様のそばに、ずっといたいと……そう、思っています」
初めて口にした、自分自身の明確なわがままだった。その言葉を聞いた瞬間、マルコの黄金の瞳が柔らかく細められた。彼は大きな手を伸ばし、ルシアンの頬を包み込むようにそっと触れた。




