第1話「断罪の夜会と冷たい床」
登場人物紹介
◆ルシアン
エルメリア王国の公爵令息で、二十歳のオメガ。
一度聞いた言語を瞬時に理解し、古代語や複雑な他国語の翻訳も完璧にこなす類まれな能力を持つ。控えめで優しい性格だが、芯の強さを秘めている。
◆マルコ
ガルディナ帝国の皇帝で、二十五歳のアルファ。
強大な軍事力と豊かな経済力を持つ大国を治め、冷徹な覇王と恐れられている。実際は思慮深く、一度身内と認めた者には情に厚い。
◆ジュリアス
エルメリア王国の第一王子で、二十一歳のアルファ。
ルシアンの元婚約者。傲慢で自己中心的な性格をしており、他者の努力を軽視する傾向がある。
◆ミハイル
男爵令息で、十九歳のオメガ。
計算高く、愛らしい容姿を武器にして他者に取り入るのがうまい。ジュリアスに近づき、ルシアンを陥れるための罠を張る。
頭上を見上げれば、豪華絢爛なシャンデリアが何千もの光の粒をこぼしていた。磨き上げられた大理石の床が、その光を鏡のように反射している。
エルメリア王国の建国を祝う夜会は、色とりどりのドレスや飾り立てた礼服で埋め尽くされていた。絹の擦れる音が波のように広がり、グラスの触れ合う高い音が絶え間なく響いている。
濃厚な香水の匂いと、焼き上げられた肉や甘い果実の香りが混ざり合い、ホールの空気をひどく重くしていた。
ルシアンは壁際から一歩も動けずに、ただその光景を眺めていた。手にしたグラスの表面には冷たい水滴がびっしりと浮かび、指先を滑り落ちていく。
ひんやりとしたガラスの感触だけが、彼を現実に繋ぎ止めているようだった。肩には鉛のような重さがのしかかり、まばたきをするたびに目の奥がずきずきと痛む。
今日この夜会が始まる直前まで、ルシアンは王城の薄暗い執務室にこもり、他国から送られてきた分厚い親書の束を翻訳していた。
周囲の貴族たちは、きらびやかな輪を作って談笑している。しかし、誰一人としてルシアンに話しかけようとはしない。時折向けられる視線には、明らかな嘲笑と見下すような色が混ざっていた。
王国の第一王子であるジュリアスの婚約者という立場でありながら、ルシアンはオメガだった。優れたアルファばかりが重用されるこの国において、オメガであるというだけで、どれほど国政に尽くしても正当な評価を得ることはない。
不意に、ホールの中央で奏でられていた優雅な音楽がぴたりと止まった。重厚な両開きの扉が大きな音を立てて開かれ、人々のざわめきが潮が引くように消え去る。
ホールの入り口に姿を現したのは、第一王子のジュリアスだった。真っ白な礼服に金糸の刺繍が施され、金色の髪が光を浴びてまぶしく輝いている。
その身から放たれるアルファ特有の強い威圧感が、ホールの空気を一瞬で張り詰めさせた。針葉樹林の冷たい風を思わせる香りに、周囲の者たちは息を潜めて頭を下げる。
だが、人々の視線を釘付けにしたのはジュリアスだけではなかった。彼の腕にしっかりと抱きついている小柄な人影があったのだ。
男爵令息のミハイルだった。淡い桃色の絹で仕立てられた礼服に身を包み、潤んだ大きな瞳で周囲を見回している。彼から漂う甘ったるい花の香りが、ジュリアスの冷たい香りと混ざり合い、周囲に広がっていく。
ルシアンの胸の奥で、冷たいしずくが落ちたような不吉な感覚が広がった。
ジュリアスの鋭い視線が群衆をなめるように見渡し、やがて壁際に立つルシアンを真っすぐに射抜く。ジュリアスはミハイルの手を引いたまま、大理石の床に硬い靴音を響かせて歩みを進めた。
貴族たちが慌てて道を空け、ルシアンとジュリアスの間にまっすぐな道ができた。
ルシアンは呼吸が浅くなるのを感じながら、近づいてくる婚約者の顔を見つめた。心臓が肋骨を内側から叩き、冷や汗が背中を伝い落ちる。
ジュリアスはルシアンの目の前で足を止め、見下ろすようにあごを上げた。
「ルシアン。貴様の顔を見るのも、今日で最後だ」
ホール全体に響き渡るほどに、ジュリアスの声は大きく、そして残酷だった。
その言葉の意味を理解する前に、ルシアンの体は反射的に強張った。
『どういう……ことですか』
心の中でつぶやいた言葉は、乾いた喉に張り付いて音にならなかった。
ジュリアスの横で、ミハイルが怯えた小鳥のように肩を震わせ、ジュリアスの腕に顔をうずめる。ジュリアスはミハイルの背中を優しくなでながら、ルシアンに向けて軽蔑のまなざしを向けた。
「貴様のような底意地の悪いオメガは、私の隣にふさわしくない。自分のしでかした罪を、ここで白状するがいい」
冷気をはらんだ言葉が、冷たい刃のようにルシアンの胸を刺す。
罪と言われても、ルシアンには何のことか全く見当がつかなかった。来る日も来る日も執務室にこもり、他国からの手紙や条約の草案を翻訳し続けるだけの毎日だったのだ。
ルシアンは震えそうになる指先を強く握り込み、なんとか声を絞り出した。
「私は……何も、しておりません」
その声は自分でも驚くほどかすれており、広いホールに弱々しく響いただけだった。
ジュリアスの顔に、あざけるような笑みが浮かぶ。周囲の貴族たちからも、くすくすというくぐもった笑い声が漏れ聞こえ始めた。
誰もルシアンの言葉を信じようとはしていない。足の裏から伝わる床の冷たさが、全身の血液を凍らせていくようだった。




